●歌は、「はしきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべなさ」である。
●歌碑は、太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク(13)にある。
●歌をみていこう。
◆伴之伎与之 加久乃未可良尓 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左
(山上憶良 巻五 七九六)
≪書き下し≫はしきよしかくのみからに慕(した)ひ来(こ)し妹(いも)が心のすべもすべなさ
(訳)ああ、遠い夷(ひな)の地、筑紫で死ぬ定めだったのに、むりやり私に付いて来た妻の、その心根が何とも痛ましくてならない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)はしきよし>はしきやし【愛しきやし】分類連語:ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしきよし」「はしけやし」とも。 ※上代語。 ⇒参考 愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用い、愛惜や悲哀の情を表す「ああ」「あわれ」の意となる場合もある。「はしきやし」「はしきよし」「はしけやし」のうち、「はしけやし」が最も古くから用いられている。 ※なりたち形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)からに 接続助詞《接続》活用語の連体形に付く。:〔原因・理由〕…ために。ばかりに。(学研)
(注)すべもすべなさ【術も術なさ】分類連語:どうにもしようがないことだ。 ※「すべなし」を強めたもの。(学研)
憶良の日本挽歌ならびに反歌の内容は、旅人の気持ちになって詠っており、そのことから、憶良と旅人が共感しあい、筑紫歌壇と言われる土俵を作っていったといわれている。
旅人の性格から推し量ると、単に憶良の歌そのものが心を打ったので、家柄やその他を越えて急速に接近したとは考えにくい。
憶良は、家柄もなく、学問一筋で出世した人物である。特に中国の学問に精通していたこともあり、遣唐使にも選ばれ大陸にも渡っているのである。
一方、旅人は、高官であり、当時の嗜みとして漢詩や漢文に馴れ親しんでいたと考えられる。
旅人が大宰府に「左遷」され、さらに妻の死に直面し、体制からの疎外感と私的な無常感が相まって、「逃避」に走ったと考えられる。「梅花の歌」、「松浦川に遊ぶ歌」、「亡妻挽歌」などからうかがい知れる。
一方、憶良の場合、体制への反発は、現実生活の中に入り込んでむしろ「攻撃」的な情熱を持っていたといえる。
太宰府で、家柄も育ちも真逆な二人が、しかも六十歳を越えていたのであるが、律令制下、都の歌壇の沈滞と相反して、大宰府の地で巡り逢い「筑紫歌壇」なるものを立ち上げていったのである。
旅人の、七九三歌「凶問報歌」は「漢文と歌」とからなり、これまでの形態と異なるフォームを形成し、ある意味、従来の歌の在り方とは違うことを提起しているのである。「逃避」と書いたが、歌という面では「昇華」的行動をとったといえる。旅人のほとんどの歌は大宰府で詠まれていることからもいえるのであろう。その提起にこたえる形で、憶良の「日本挽歌」が、「漢文・漢詩と歌」という構成で、しかも「日本」を冠している点に旅人は、強い共感をおぼえたものと思われる。
このような、強い結びつきが、当時、亡くなった旅人の妻、大伴郎女が連れて来た家持のその後の作歌活動に大きな影響を与えたのは言うまでもない
万葉集巻五は、旅人と憶良の関わる作品が多く、しかも年次は神亀五年(728年)から天平五年(733年)という短期間に集中しているとう特殊性をもっているが、旅人の七九三歌(凶問報歌)は、巻頭歌としての重みを十二分に持っているといっても過言ではない。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」