●歌は、「家に行きていかにか我がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも」である。
●歌碑は、太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク(12)にある。
●歌をみていこう。
◆伊弊尓由伎弖 伊可尓可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜左夫斯久 於母保由倍斯母
(山上憶良 巻五 七九五)
≪書き下し≫家に行(ゆ)きていかにか我(あ)がせむ枕付(まくらづ)く妻屋(つまや)寂(さぶ)しく思ほゆべしも
(訳)あの奈良の家に帰って、何としたら私はよいのか。二人して寝た妻屋がさぞさびしく思われることだろう。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)まくらづく【枕付く】分類枕詞:枕が並んでくっついている意から、夫婦の寝室の意の「妻屋(つまや)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)つまや【妻屋】名詞:夫婦の寝所。「寝屋(ねや)」とも。(学研)
(注)おもほゆ【思ほゆ】自動詞:(自然に)思われる。 ※動詞「思ふ」+上代の自発の助動詞「ゆ」からなる「思はゆ」が変化した語。「おぼゆ」の前身。(学研)
(注)も 終助詞《接続》文末、文節末の種々の語に付く。:〔詠嘆〕…なあ。…ね。…ことよ。 ※上代語。(学研)
憶良は、旅人の気持ちを十二分に汲み上げてというより、旅人になりきって詠っているのである。
旅人も亡き妻を思って詠っている歌は時代を越え胸を打つ
旅人の歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その895)」に紹介してる。
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旅人の亡妻を思う歌をあげてみる。(細かい脚注は省略している)
◆愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉
(大伴旅人 巻三 四三八)
≪書き下し≫愛(うつく)しき人のまきてし敷栲(しきたへ)の我(わ)が手枕(たまくら)をまく人あらめや
(訳)いとしい人が枕にして寝た私の腕(かいな)、この手枕を枕にする人が亡き妻のほかにあろうか。あるものではない。(同上)
左注は、「右一首別去而経數旬作歌」<右の一首は、別れ去(い)にて数旬を経(へ)て作る歌>である。
◆應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕
(大伴旅人 巻三 四三九)
≪書き下し≫帰るべく時はなりけり都にて誰(た)が手本(たもと)をか我(わ)が枕(まくら)かむ
(訳)いよいよ都に帰ることができる時期となった。しかし、都でいったい誰の腕を、私は枕にして寝ようというのか。(同上)
◆在京 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦
(大伴旅人 巻三 四四〇)
≪書き下し≫都にある荒れたる家にひとり寝(ね)ば旅にまさりて苦しかるべし
(訳)都にある人気のない家にたった一人で寝たならば、今の旅寝にもましてどんなにつらいことであろう。(同上)
左注は、「右二首臨近向京之時作歌」<右の二首は、京に向ふ時に臨近(ちか)づきて作る歌>である
淡々とした表現であるにもかかわらず、その内に秘めた、長く連れ添った妻のことを思う愛情は強く胸に突き刺さって来る。
読み返せば読み返すほど引き込まれる歌である。
憶良に戻ろう。
憶良は、人の気持ちになり代わって作る歌が多いといわれている。
題詞「筑前(つくしのみちのくち)の国の志賀(しか)の白水郎(あま)の歌十首」の三八六〇から三八六九歌の歌群の左注に「(人のいい荒雄<あらを>は頼まれ仕事を引き受け対馬を目指すも)海中に沈(すづ)み没(い)りぬ。これによりて、妻子(めこ)ども、犢慕(とくぼ)に勝(あ)へずして、この歌を裁作(つく)る。或(ある)いは、筑前の国の守(かみ)山上憶良臣(やまのうへのおくらのおみ)、妻子が傷(いた)みに悲感(かな)しび、志(こころ)を述べてこの歌を作るといふ」とある。
(注)犢慕(とくぼ):子牛が母を慕う思い。
(注の注)犢(とく):こうし。ウシの子。(goo辞書)
左注には、残された妻子が作った歌と記してあるが、そのあとに「憶良が妻子の気持ちになり代わって作った」とも書かれている。
十首目の歌をみてみよう。
◆大船尓 小船引副 可豆久登毛 志賀乃荒雄尓 潜将相八方
(妻子等あるいは山上憶良 巻十六 三八六九)
≪書き下し≫大船(おほぶね)に小舟(こぶね)引き添(そ)へ潜(かづ)くとも志賀(しか)の荒雄に潜き逢(あ)はめやも
(訳)大船に小舟を引き連れて行って、海の底にもぐってみても、いまとなっては志賀の荒雄に逢えることなどあろうか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注) あはめやも【会はめやも・逢はめやも】分類連語:会えるだろうか、いや、会えないに違いない。 ⇒なりたち 動詞「あふ」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
絶望感漂う十首目でこの歌群が閉じられている。
犬養 孝氏はその著「万葉の人びと」(新潮文庫)のなかで、「・・・筑前国守、山上憶良の管轄の中でのことです。だから憶良が志賀島の辺りへ行ったら、漁師の間にこういうような話が伝わっていたのでしょう。そういう話を土台にしているかもしれません。その上で、山上憶良が妻子の心になって作る、あるいは若干民謡のようなものがあるのかも知れないが、そういうものをふまえてでも、これを十首に配列しているのは、憶良であろうとぼくはおもいます」と書かれている。
上野 誠氏は、その著「万葉集講義 最古の歌集の素顔」(中公新書)のなかで、「万葉集」をどういうものだと考えるか?について、四つの要素をあげておられる。その一つが、「京と地方をつなぐ文学としての性格を有する」と書いておられるのである。他の三つについては、ここでは割愛させていただきます。
筑前国志賀島の荒雄のような「物語が都に伝われば、都びとも地方に関心を寄せる。官人の地方赴任による交流によって、こういう循環が、すでに起こっていたのであろう。私が、『万葉集』に、京と地方をつなぐ文学としての性格があるといったのは、こういう状況を勘案してのことなのである。」と書かれている。
ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その907,908)」に、万葉集のある意味、歌物語的な要素を見て来ると、歴史性をある程度保ちつつ、「歌物語」にしつらえた側面がある、と書いたが、ある意味、娯楽性も持たせた「歌物語」という作品であるとも考えられる。
巻二の冒頭歌八五歌から八八歌の磐姫皇后(いはのひめのおほきみ)の仁徳天皇を思(しに)ひて作られたという四首などが代表例である。
また、巻十六の「由縁(ゆえん)ある歌」なども、物語とそれにちなんだ歌が収録されている。これも見方によっては、歌物語である。上述の志賀島の荒雄の歌群もしかりである。
現在は、著名人の日記のブログなどのはフォロワーの数が多く、人気を呼んでいるが、巻十七から巻二十の家持の日記風な歌集も、現在のように一般化してはいないものの、当時のしかるべき階層には人気があったのかもしれない。もっとも、発行部数やルートは、うかがい知れないが・・・。
巻十四の東歌は、地方ドキュメンタリーであり、防人歌は当時の防衛問題特集であったのかもしれない。
万葉集に相聞歌が圧倒的に多いのも、人びとの関心は男女問題であるのは今も変わらないことを考えると、受け手側の期待を考えて編集されたのかもしれない。
口誦による娯楽性の記録的試み的な要素をも編纂を重ねるにつれ付加されていったとも考えられるのではと思う。
また、万葉集に笑われたような気がする。
「万葉集」に、新たな挑戦をとの気持ちで、これからもブログを書いてこう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「goo辞書」
★「天空の楽園 太宰府メモリアルパーク『万葉歌碑めぐり』太宰府悠久の歌碑・句碑」 (太宰府メモリアルパーク)