●歌は、「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花」である。
●歌をみてみよう。
◆芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝▼之花
(山上憶良 巻八 一五三八)
▼は「白」の下に「八」と書く。「朝+『白』の下に『八』」=「朝顔」
≪書き下し≫萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花
(訳)一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこの花、うんさよう、五つにおみなえし。ほら、それにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)
この七種の選択に関して。辰巳正明氏は、その著「山上憶良」(笠間書院)の中で、「萩や尾花や葛は、生活上に有用な植物であった。それに対して撫子以下の花は、なぜ選択されたのか。・・・万葉集に詠まれた植物も、もともとは花を観賞するよりも、薬用として発見されたものなのである。撫子も女郎花も、また藤袴も利尿剤(りにょうざい)としての薬効があった。葛も、風邪を引いたときに飲む葛根湯(かっこんとう)であり、これは今でも普通に風邪薬として用いられている。憶良が七種類の草花を選択したのは、もちろん実用的な植物としての意味をこえて、それを観賞するという態度にあることが知られる。ただ、藤袴が万葉集で一例しか見えないことを考えると、憶良は利尿関係の病に悩んでいて、薬効のある花を数えたと考えられる。」と述べておられる。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1027)」でそれぞれの花についても解説を加えている。
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「貧窮問答歌」や「沈痾自哀文」他の歌や漢詩文を作る山上憶良とイメージを隔する花の歌である。何となく微笑ましい感じがする。
子供たちを前に、秋の七種を教えている先生の歌であるかのように思えてくる。
実際、憶良は、堅い社会派のイメージが強い歌が多いが、「子」を詠んだ家族愛溢れる歌や、茶目っ気のある歌が見られるのもユニークである。
その代表的なものは、「山上憶良臣(やまのうえのおくらのおみ)、宴(うたげ)を罷(まか)る歌一首」であろう。歌をみてみよう。
◆憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽
(山上憶良 巻三 三三七)
≪書き下し≫憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も吾(わ)を待つらむぞ
(訳)憶良どもはもうこれで失礼いたしましょう。家では子どもが泣いていましょう。多分その子の母も私の帰りを待っていましょうよ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)「憶良ら」の「ら」は自分の名前に添える謙遜の接尾語。
(注)「彼母毛」:直接「妻」と言わないところに戯笑がこもる。(伊藤脚注)
この宴には、小野老、大伴四綱、大伴旅人、沙弥満誓(さみまんぜい)が参加しており、気の許す仲間内の宴のようであ。しかし、このメンバーの宴を途中で退席するにあたっての歌である。この歌は、「子」が家で泣いている、その母も私を待っていると、直接「妻」といわずに詠ったところが機知にとんだ、嫌みのない歌に仕上がっているのである。
この歌を含め各メンバーの歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。
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またこの宴では大伴旅人も大伴四綱の問いに対して、本音をさらけ出しているのである。
大伴旅人の人柄をうかがわせる歌も収録されているのである。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。
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山上憶良に話を戻そう。次の歌をみてみよう。
題詞は、「敢布私懐歌三首」<敢(あ)へて私懐(しくわい)を布(の)ぶる歌三首>である。
◆阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都ゝ 美夜故能提夫利 和周良延尓家利
(山上憶良 巻五 八八〇)
≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)に五年(いつとせ)住まひつつ都のてぶり忘らえにけり
(訳)遠い田舎に五年も住み続けて、都の風俗、あの風俗を私はすっかり忘れてしまった。(同上)
◆加久能未夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提
(山上憶良 巻五 八八一)
≪書き下し≫かくのみや息づき居(を)らむあらたまの来経(きへ)行(ゆ)く年の限り知らずて
(訳)私は、ここ筑紫でこんなにも溜息(ためいき)ばかりついていなければならぬのであろうか。来ては去って行く年の、いつを限りとも知らずに。(同上)
(注)あらたまの【新玉の】分類枕詞:「年」「月」「日」「春」などにかかる。かかる理由は未詳。(学研)
◆阿我農斯能 美多麻ゝゝ比弖 波流佐良婆 奈良能美夜故尓 咩佐宜多麻波祢
(山上憶良 巻五 八八二)
≪書き下し≫我(あ)が主(ぬし)の御霊(みたま)賜(たま)ひて春さらば奈良の都に召上(めさ)げたまはね
(訳)あなた様のお心入れをお授け下さって、春になったら、奈良の都に私を召し上げて下さいませ。(同上)
左注は、「天平二年十二月六日筑前國守山上憶良謹上」<天平二年十二月六日、筑前国司山上憶良 謹上>である。
大宰府で望郷の意を込め都に戻りたいと、上司の太宰帥である大伴旅人に「敢えて私懐を布(の)ぶる歌」として、八八二歌で、「春さらば奈良の都に召上(めさ)げたまはね」と訴えているのである。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その902)」で紹介している。
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大伴旅人が妻を亡くした時、旅人の漢倭混淆の「大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首」(巻五 七九三)に刺激を受け、それに呼応する形で、憶良は、漢詩・日本挽歌・反歌四首を旅人に贈っている。これが「筑紫歌壇」と呼ばれる礎になったのである。
憶良の漢文・漢詩・日本挽歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その910)」で紹介している。
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反歌七九五~七九九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その911~915)」で紹介している。
七九五歌
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七九六歌
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七九七歌
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七九八歌
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七九九歌
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憶良の「子」に関する歌としては、巻五 八〇二、八〇三歌「子等(こら)を思ふ歌一首 幷せて序」があまりにも有名である。この歌については、この西予市三滝自然公園万葉の道シリーズでも、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1790)」で紹介している。
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憶良の人間性にはちょっとやそっとでは触れることもできない。万葉集を通じてその中で少しでも近づけることができたらとの思いである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「三滝自然公園 万葉の道」 (せいよ城川観光協会)