万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1600,1601,1602)―広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(7,8,9)―万葉集 巻五 七九八、巻七 一二五五、巻八 一四五二

―その1600―

●歌は、「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」である。

 

広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(7)万葉歌碑<プレート>(山上憶良

●歌碑(プレート)は、広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(7)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陁飛那久尓

     (山上憶良 巻五 七九八)

 

 

≪書き下し≫妹(いも)が見し棟(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに

 

(訳)妻が好んで見た棟(おうち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。。妻を悲しんで泣く私の涙はまだ乾きもしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)楝は、陰暦の三月下旬に咲く、花期は二週間程度。筑紫の楝の花散りゆく様を見て、奈良の楝に思いを馳せて詠っている。

(注の注)あふち【楝/樗】: センダンの古名。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 この歌については、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1543)」で紹介している。

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歌碑(プレート)の植物名は、「せんだん(栴檀)」、万葉集花名「あふち」・現代花名「センダン」と書かれている。

 

 「日本挽歌」の反歌の四首目である。大久保廣行氏は、中西 進編「大伴旅人―人と作品(祥伝社)の第四章「帰京後」の中で、「憶良は、大伴郎女の死去を契機として、悼亡詩文(とうぼうしぶん)や日本挽歌(巻五、七九四―七九九)を『謹上』、旅人の歌作を促して以来、多くの作品を旅人に提示しては、おのれの『士(をのこ)』としての志を開陳した。上司である旅人への深い信頼感と親近感に基づき、伝統的な和歌の枠からはみ出した、いわば異体の新風のよき理解者として、旅人のような人物を求めたのでもあった。旅人は・・・それをきっかけとして歌心が強く刺激され、単に量において多(た)であるのみならず、質において新(しん)という展開を示すことになったのである。老病死という人生の終局の課題を共有して、深い人間理解に支えられた個性的な映発関係が、二人の間にはあったのである。」と書かれている。

 さらにこの関係は広がりをみせ、「筑紫歌壇」の形成に繋がって行ったのである。

 筑紫歌壇については、「文化財情報」(太宰府市HP)に、「奈良時代の初めの神亀(じんき)年間から天平(てんぴょう)年間にかけての数年、大宰府には大宰帥大伴旅人(おおとものたびと)、少弐小野老(おののおゆ)筑前国山上憶良(やまのうえのおくら)、造観世音寺別当沙弥満誓(しゃみまんせい)、娘子(おとめ)児島、大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)などの人々が会し、『万葉集』に収められた数々の歌を残しました。それを後の人が称して『筑紫歌壇』と言いました。筑紫で詠まれた歌は約320首、関係が深いと考えられる歌は、約57首あります。筑紫歌壇の代表的な歌は、帥大伴旅人邸で開かれた梅花宴(ばいかのえん)32首、亡くした妻を偲ぶ旅人の歌、貧窮問答歌などの憶良作の歌群、松浦川の歌群、志賀白水郎(あま)の歌、そして遣新羅使の筑紫での歌などです。」と書かれている。

 旅人が大宰帥として赴任したのは六十四歳で、憶良は六十七歳であった。

 

 旅人の歌は、大宰府以前では二首しか収録されていないのである。この二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その974)で紹介している。

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―その1601―

●歌は、「月草に衣ぞ染むる君がため斑の衣摺らむと思ひて」である。

 

広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(8)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(8)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆月草尓 衣曽染流 君之為 綵色衣 将摺跡念而

        (作者未詳 巻七 一二五五)

 

≪書き下し≫月草(つきくさ)に衣(ころも)ぞ染(そ)むる君がため斑(まだら)の衣(ころも)摺(す)らむと思ひて

 

(訳)露草で着物を摺染(すりぞ)めにしている。あの方のために、斑(まだら)に染めた美しい着物に仕立てようと思って。(同上)

 

 この歌ならびに「月草」を詠んだ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1207)」で紹介している。

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歌碑(プレート)の植物名は、「つゆくさ(露草)」、万葉集花名「つきくさ」・現代花名「ツユクサ」と書かれている。

                           

つゆくさ【露草】:万葉集に詠まれているのは、いずれも染料にかかわる歌です。ツユクサは「着く草」の意で、染料にするという習慣をあらわした名前です。また、ツユクサは、朝露とともに咲き、露が消えるころにはしぼんでしまう花の状態を言ったものだとも思われます。男女の恋のうつろいやすさにたとえることにもなります。(万葉植物物語 広島大学附属福山中・高等学校/編著 中国新聞社)

 

 「つきくさ(ツユクサ)」 (weblio辞書 植物図鑑)より引用させていただきました。

 

 ツユクサは一日草である。ツユクサのようなはかない恋を詠った歌をみてみよう。

 

 ◆朝開 夕者消流 鴨頭草乃 可消戀毛 吾者為鴨

         (作者未詳 巻十 二二九一)

 

≪書き下し≫朝(あした)咲き夕(ゆうへ)は消(け)ぬる月草(つきくさ)の消(け)ぬべき恋も我(あ)れはするかも

 

(訳)朝咲いても夕方にはしぼんでしまう露草のように、身も消え果ててしまいそうな恋、そんなせつない恋を私はしている。(同上)

(注)上三句は序。「消ぬ」を起こす。

 

 

 

―その1602―

●歌は、「闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや」である。

 

広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(8)万葉歌碑<プレート>(紀女郎)

●歌碑(プレート)は、広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(9)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆闇夜有者 宇倍毛不来座 梅花 開月夜尓 伊而麻左自常屋

       (紀女郎 巻八 一四五二)

 

≪書き下し≫闇(やみ)ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜(つくよ)に出(い)でまさじとや

 

(訳)闇夜ならばおいでにならないのもごもっともなことです。が、梅の花が咲いているこんな月夜の晩にも、お出ましにならないというのですか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)うべも【宜も】分類連語:まことにもっともなことに。ほんとうに。なるほど。道理で。 ⇒ なりたち 副詞「うべ」+係助詞「も」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)とや 分類連語:①〔文中の場合〕…と…か。…というのか。▽「と」で受ける内容について疑問の意を表す。②〔文末の場合〕()…とかいうことだ。伝聞あるいは不確実な内容であることを表す。()…というのだな。というのか。相手に問い返したり確認したりする意を表す。近世の用法。

⇒参考:②()は説話などの末尾に用いられる。「とや言ふ」の「言ふ」が省略された形。 ⇒なりたち:格助詞「と」+係助詞「や」(学研)

 

 この歌ならびに紀女郎のすべてについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1114)」で紹介している。

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 知的で情熱家であり、それでいて繊細な気配りもできる女性だったようである。

 

歌碑(プレート)の植物名は、「うめ(梅)」、万葉集花名「うめ」・現代花名「ウメ」と書かれている。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社) <大久保廣行氏稿 第四章「帰京後」>

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉植物物語」 広島大学附属福山中・高等学校/編著  (中国新聞社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 植物図鑑」

★「文化財情報」 (太宰府市HP