万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1652~1654)―福井県越前市 万葉ロマンの道(15~17)―万葉集 巻十五 三七三七、三七三八、三七三九

―その1652―

●歌は、「人よりは妹ぞも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ」である。

福井県越前市 万葉ロマンの道(15)万葉歌碑<道標燈籠>(中臣宅守

●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(15)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆比等余里波 伊毛曽母安之伎 故非毛奈久 安良末思毛能乎 於毛波之米都追

      (中臣宅守 巻十五 三七三七)

 

≪書き下し≫人よりは妹ぞも悪(あ)しき恋(こひ)もなくあらましものを思はしめつつ

 

(訳)他の人よりは、むしろあなたなんだよ、いけないのは。こんな苦しい恋なんかとかかわりなしにいたいのに、やたら嘆かせるばかりで・・・。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あらまし【有らまし】分類連語:あろう。…であろうに。…であればよいのに。 ⇒なりたち:ラ変動詞「あり」の未然形+反実仮想の助動詞「まし」(学研)

 

 

―その1653―

●歌は、「思ひつつ寝ればかもとなぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる」である。

福井県越前市 万葉ロマンの道(16)万葉歌碑<道標燈籠>(中臣宅守

●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(16)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆於毛比都追 奴礼婆可毛等奈 奴婆多麻能 比等欲毛意知受 伊米尓之見由流

       (中臣宅守 巻十五 三七三八)

 

≪書き下し≫思ひつつ寝(ぬ)ればかもとなぬばたまの一夜(ひとよ)もおちず夢(いめ)にし見ゆる                    

 

(訳)あなたのことばかり思いながら寝るからなのか、むやみやたらと真っ暗闇の来る夜来る夜、一晩も欠かさずあなたが夢に現れるのは。(同上)

(注)とな 分類連語:…というのだね。▽相手に確認したり、問い返したりする意を表す。 ⇒なりたち:格助詞「と」+終助詞「な」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)おちず【落ちず】分類連語:欠かさず。残らず。 ⇒なりたち:動詞「おつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の連用形(学研)

 

 

―その1654―

●歌は、「かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずぞあるべくありける」である。

福井県越前市 万葉ロマンの道(17)万葉歌碑<道標燈籠>(中臣宅守

●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(17)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆可久婆可里 古非牟等可祢弖 之良末世婆 伊毛乎婆美受曽 安流倍久安里家留

       (中臣宅守 巻十五 三七三九)

 

≪書き下し≫かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずぞあるべくありける

 

(訳)こんなにも苦しく恋い焦がれなければならぬものと、前々からわかっていたなら、あなたなんぞを見知るべきではなかった。(同上)

 

 三七三七から三七三九歌は、中臣宅守の多少恨みつらみ的な歌になっているが、それだけに娘子への思いが強いという表れであろう。

 

 万葉ロマンの道(歌碑)散策マップの裏面に「中臣宅守と狭野弟上娘子二人の相聞歌」として六十三首が掲載されている。歌だけを追って行くだけで、小説を読み進んでいる気分になってくる。文法や「正しい(とされる)」解釈などに捉われず、己の見方、感じ方そのままに解き放されたかのような感覚の下で味わう「中臣宅守と狭野弟上娘子二人の相聞歌」。



 

味真野神社参道

味真野神社名碑


 歌碑を撮影し振り返って見ると、味真野神社の鳥居が見える。味真野神社の前には、「継體天皇御宮跡」と「史跡鞍谷御所跡」の碑が建てられている。

「継體天皇御宮跡」と「史跡鞍谷御所跡」の碑



 継体天皇について、「ここまで知らなかった! なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=」(関西・大阪21世紀協会HP)に、「日本書紀によれば継体天皇は第26代の天皇で諱(いみな)を男大迹王(おほどのおおきみ)といい彦主人王(ひこうしおう)と振媛(ふるひめ)との間に生まれた。近江国高島郡三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)を本拠にした地方豪族であった父彦主人王が亡くなると母の故郷である越前国高向(現在の福井県坂井市丸岡町あたり)で育てられ、長じて5世紀末の越前地方を統治していた。・・・507年に崩御した武烈天皇に跡継ぎがいなかったため、大伴金村(おおとものかなむら)らが協議し、・・・越前にいた応神天皇から5代目の子孫にあたる男大迹王を推挙した。最初は男大迹王も金村らに対して疑いをもっていたため、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出して確かめたところ本意だということが分かり、即位を決意した。」と書かれている。

 「継体天皇は樟葉宮での即位後、山城国筒城宮(つつきのみや)、弟国宮(おとくにのみや)を経て20年後にして大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に遷り、ようやく大和入りを果たした。しかし、その5年後、82歳で崩御日本書紀には三島藍野陵(みしまあいののみささぎ:大阪府茨木市大田茶臼山古墳)に葬られたとされる。」

 比較的近場であり、継体天皇の宮跡を訪ねるのもおもしろいと思った。機会をみてトライしたいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「ここまで知らなかった! なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=」 (関西・大阪21世紀協会HP)