万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1649~1651)―福井県越前市 万葉ロマンの道(12~14)―万葉集 巻十五 三七三四~三七三六

―その1649―

●歌は、「遠き山関も越え来ぬ今さらに逢ふべきよしのなきがさぶしさ」である。

福井県越前市 万葉ロマンの道(12)万葉歌碑<道標燈籠>(中臣宅守

●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(12)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆等保伎山 世伎毛故要伎奴 伊麻左良尓 安布倍伎与之能 奈伎我佐夫之佐 <一云 左必之佐>

     (中臣宅守 巻十五 三七三四)

 

≪書き下し≫遠き山関(せき)も越え来(き)ぬ今さらに逢ふべきよしのなきが寂しさ <一には「さびしさ」といふ>

 

(訳)遠い山々、そして関所さえも越えて私はやって来た。今となってはもう、あなたに逢う手立てがないのがさびしい。(同上)

 

 三七三一から三七四四歌の歌群の左注は「右の十四首は中臣朝臣宅守」である。なお万葉集の目録には、「配所に至りて、中臣朝臣宅守が作る歌十四首」とある。

(注)はいしょ【配所】名詞:(罪によって)流された所。流罪(るざい)の地。(学研)

 

この歌碑(道標燈籠)は、味真野神社前に建てられている。

味真野神社は継体天皇が祀られている。味真野苑の西側、味真野神社に隣接して『継体大王(けいたいだいおう)と照日の前(てるひのまえ)の像』がある。「恋のパワスポ」である。

継体大王ならびに大伴氏との関わりなどについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1375)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 ここまで見てきた歌碑(道標燈籠)は、⓵から⑫までは、味真野苑、万葉館、味真野神社に沿ったほぼ直線の道路沿いに建てられている。



 

―その1650―

●歌は、「思はずもまことあり得むやさ寝る夜の夢にも妹が見えざらなくに」である。

福井県越前市 万葉ロマンの道(13)万葉歌碑<道標燈籠>(中臣宅守

●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(13)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆於毛波受母 麻許等安里衣牟也 左奴流欲能 伊米尓毛伊母我 美延射良奈久尓

       (中臣宅守 巻十五 三七三五)

 

≪書き下し≫思はずもまことあり得むやさ寝る夜の夢にも妹が見えざらなくに

 

(訳)あなたを思わずにいることなんてことが、ほんとうにできるものであろうか。寝る夜の夢にさえ、あなたが見えて仕方がないのに。(同上)

(注)さね【さ寝】名詞:寝ること。特に、男女が共寝をすること。 ※「さ」は接頭語。(学研)

(注の注)さ寝:宅守は独り寝に「さ寝」という。望むことの困難な共寝への願いをこめて用いたものか。(伊藤脚注)

 

 ⑬から⑱の歌碑(道標燈籠)は、味真野神社の参道沿いに建てられている。⑰の歌碑は、「味真野神社の名碑」の側に建てられている。



 

 

―その1651―

●歌は、「遠くあれば一日一夜も思はずてあるらむものと思ほしめすな」である。

福井県越前市 万葉ロマンの道(14)万葉歌碑<道標燈籠>(中臣宅守

●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆等保久安礼婆 一日一夜毛 於母波受弖 安流良牟母能等 於毛保之賣須奈

       (中臣宅守 巻十五 三七三六)

 

≪書き下し≫遠くあれば一日一夜も思はずてあるらむものと思ほしめすな

 

(訳)遠く離れているので、一日や一晩ぐらい思わないでいるだろうなどと、けっして思ってくださいますなよ、ね。(同上)

 

(注)おもほす【思ほす】他動詞:お思いになる。▽「思ふ」の尊敬語。 ※動詞「思ふ」+上代の尊敬の助動詞「す」からなる「思はす」が変化した語。「おぼす」の前身。(学研)

(注の注)メスは尊敬の助動詞。宅守は、三七六四・三七六六にも敬語を用いている。(伊藤脚注)

 

 三七二三から三七八五歌の標題は、「中臣朝臣宅守、狭野弟上娘子と贈答する歌」である。これだけでは、「贈答歌」の列記だけで背景などは分からない。

 万葉集目録には、「中臣朝臣宅守の、蔵部(くらべ)の女嬬(によじゆ)狭野弟上娘子を娶(めと)りし時に、勅して流罪に断じ、越前国に配しき。ここに夫婦(ふうふ)別るることの易く会ふことの難きを相嘆き、各(おのおの)慟(いた)む情(こころ)を陳(の)べて贈答せし歌六十三首 (訳)中臣朝臣宅守が、蔵部の女嬬狭野弟上娘子を娶った時に、勅命によって流罪に処されて。越前国に配流された。そこで夫婦が、別れはたやすく会うことの難しいことを嘆いて、それぞれに悲しみの心を述べて贈答した歌六十三首」<訳は、神野志隆光 著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)による>となっており、構成も次の様になっている。

 

 

 ■別に臨みて、娘子、悲嘆しびて作る歌四首(三七二三~三七二六歌)

 ■中臣朝臣宅守、道に上りて作る歌四首(三七二七~三七三〇歌)

 ■配所に至りて、中臣朝臣宅守が作る歌十四首(三七三一~三七四四歌)

 ■娘子、京に留まりて悲傷しびて作る歌九首(三七四五~三七五三歌)

 ■中臣朝臣宅守が作る歌十三首(三七五四~三七六六歌)

 ■娘子が作る歌八首(三七六七~三七七四歌)

 ■中臣朝臣宅守、更に贈る歌二首(三七七五~三七七六歌)

 ■娘子が和へ贈る歌二首(三七七七~三七七八歌)

 ■中臣朝臣宅守、花鳥に寄せ、思ひを陳べて作る歌七首(三七七九~三七八五歌)

 

 中臣宅守流罪の理由について、神野志隆光氏は、その著のなかで「流罪の理由はわかりません。狭野弟上娘子との関係が咎められたのでないことは、『娶』(ふつうの結婚です)とあって『姧』(采女を犯したというような咎められる関係にいいます)とはいわないことでわかります。また、娘子は罰せられてもいません。何らかの事情でというしかなく、この贈答歌群にとって、その事情が意味をもつものでもありません。わたしたちは、二人が遠く離れざるをえないなかでやり取りした歌として読むだけです。」と書かれている。

 万葉集にあって、「歌のよる『実録』のこころみは、先端的といえるかもしれません。」(前出)と書かれ、さらに「歌は、現場をそのままにのこすよそおいのために、この巻は一字一音書記を選択した・・・」とも書かれている。

 歌もさることながら、ドキュメンタリータッチで物語を構成しているこの万葉集の位置づけは驚嘆せざるをえない。

 

 「万葉ロマンの道」として、六十三首の歌碑(道標燈籠)を設置した味真野地区の試みも万葉集同様、先端的なものといえるのである。

 二度目であるが、全歌碑(道標燈籠)を撮影したい思いに駆らせる要因は万葉集そのものにあると言わざるをえない。

 またまた脱帽である。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉ロマンの道(歌碑)散策マップ」