万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

ザ・モーニングセット190115(万葉の小径シリーズーその10 たへ)

●今日のサンドイッチは、サニーレタスと焼豚。8等分し、砥部焼の丸皿の円周に並べた。中心に野菜ジュースのグラスを置いた。

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1月15日のモーニングセット

 

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1月15日のデザート

 デザートは、リンゴの8分の1カットを半分に切り、それぞれをスライス、爪楊枝をさし、スライスをらせん状に回してオブジェにした。周りはバナナやぶどうの合わせ飾りを配し、干しブドウでアクセントをつけた。

 今日の万葉集は、持統天皇の歌である。

 

●万葉の小径シリーズ-その10 たへ コウゾ

 

春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたへ)の 衣乾したり 天の香具山

                          (持統天皇 巻一 二八)

 

      天皇御製歌

 「春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山」

 

 

春が過ぎて夏がやって来たらしい。 天の香具山に白い衣が乾してあるよ。

 

 「白栲(しろたえ)のは、本来、コウゾの繊維を織った白い布をいうが、それが白の代名詞となり、ここでは白栲(しろたへ)の衣は、真っ白な衣のことをいう。ところで、コウゾは落葉低木で樹皮から白い繊維を取り出して布や和紙の材料とする。栲は「しきたへの」や「たへのほ」という表現もあるが、「しろたへの」がもっとも多く、約100例に及んでいる。栲は、「たく」ともいうことがある。ただ、栲(たく)というときは、栲を美しく飾る白や敷くという飾りはなく、むしろ、栲の次に領巾(ひれ)や衾(ふすま)、あるいは、縄などの身近な衣裳や生活的な言葉が続く時が多い。

 持統天皇は夫天武天皇の遺志を継いで六八六年九月九日に天武天皇崩御の後、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で政治を行い、六九四年十二月には、日本で初めての唐長安を模した広大な藤原宮を完成させた。この歌は、飛鳥浄御原宮での歌か、あるいは、藤原宮での歌か説が分かれるところである。たえず東に香具山を望むという点では、藤原宮での作と取りたい。高市皇子(たけちのみこ)の力を借りつつも、やっと完成させた藤原宮からほぼ東の香具山を見て、ふと季節の推移を思った天皇としての自信溢れた堂々とした歌ととらえたい。」                       (万葉の小径 たへの歌碑)

 

 堀内民一氏は「和銅三年(710年)の奈良の遷都までの約十五年間、藤原京が都となった。藤原京を囲む大和三山の中で、一番宮殿に近く東の宮廷門に迫るように立っていたのが香具山である。しかしこの歌は、明日香京から北辺に香具山を望んだお歌とするが方がよい。その山の上辺にも南おもての村里にも白い衣が乾してある風光。」とし、「香具山で禊をする女性がその聖衣を脱ぎ掛けておくという(中略)美しい連想がある。春夏の交は村の処女の野遊び、山行きの季節だから、五月処女(さおとめ)の資格を得るための山ごもりの行事は、古代から行われていた。持統天皇が、香具山の上辺にかけつらねた物忌みの斎衣(をみごろも)をごらんになって、おなじ御女性として、山ごもりの処女を思いやられた」と述べている。

 季節の移ろいといったある意味単純な歌としてとらえるよりも、季節の変り目の行事、衣も単に「衣」というのでなく「白妙の衣」と強調している点や、持統天皇の在位中の厳しい政局を越えるため吉野行脚が31回にも及んだことなどから「信仰」に焦点をあてて、考えるとすれば、明日香説に軍配があがるのではと思う。

 

(参考文献)

★万葉の小径 たへの歌碑

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「大和万葉の-その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社