●歌は、「にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも」である。
●歌をみていこう。
◆尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母 古新未詳
(馬史国人 巻二十 四四五八)
≪書き下し≫にほ鳥(どり)の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽(つ)きめやも 古新は未だ詳(つばび)らかならず
(訳)にお鳥の息長(いきなが)、息長(おきなが)の川の流れは絶えてしまおうとも、私があなたに語りかけたいと思う、その言葉の尽きることなどあるものですか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)にほ【鳰】名詞:水鳥のかいつぶりの別名。湖沼にすみ、水中にもぐって魚を取る。「にほどり」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)にほどりの【鳰鳥の】分類枕詞:かいつぶりが、よく水にもぐることから「潜(かづ)く」および同音を含む地名「葛飾(かづしか)」に、長くもぐることから「息長(おきなが)」に、水に浮いていることから「なづさふ(=水に浮かび漂う)」に、また、繁殖期に雄雌が並んでいることから「二人並び居(ゐ)」にかかる。(学研)
(注)息長川:読み方 オキナガカワ 所在 滋賀県 水系 淀川水系の天野川(weblio辞書 河川・湖沼名辞典)
左注は、「右一首主人散位寮散位馬史國人」<右の一首は主人(あろじ)散位寮(さんゐれう)の散位馬史國人(うまのふひとくにひと)>である。
(注)さんい 【散位】:律令制で、位階のみあって、それに相当する官職に就いていないもの。散官。 ⇔ 職事(しきじ) (weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
四四五七~四四五九歌の歌群の題詞は、「天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉廿四日戊申 太上天皇太皇大后幸行於河内離宮 経信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴歌三首」<天平(てんびやう)勝宝(しようほう)八歳丙申(ひのえさる)の二月の朔(つきたち)乙酉(きのととり)の二十四日戊申(つちのえさる)に、太上天皇、天皇、大后、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し、経信壬子(ふたよあまりみづのえね)をもちて難波(なには)の宮(みや)に伝幸(いでま)す。三月の七日に、河内の国伎(くれ)人の郷(さと)の馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首>である。
(注)天平勝宝八歳:756年
(注)経信壬子:二十四日戊申から二十八日壬子までの四泊五日。
(注)伎(くれ)人の郷(さと):喜連村(きれむら)は、大阪府東成郡にあった村。現在の大阪市平野区喜連各町にあたる。村名は「伎人」「久礼」「呉」(くれ)の転訛とされ、古代の伎人郷(くれのごう)に比定されている。※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
他の二首もみてみよう。
◆須美乃江能 波麻末都我根乃 之多婆倍弖 和我見流乎努能 久佐奈加利曽祢
(大伴家持 巻二十 四四五七)
≪書き下し≫住吉(すみのゑ)の浜松が根の下(した)延(は)へて我が見る小野(をの)の草な刈(か)りそね
(訳)住吉の浜松の根が地の底にずっと延びているように、心の底深く思いを寄せて私が見る小野、この小野の草は刈らずにそのままにしておいておくれ。(同上)
左注は、「右一首兵部少輔大伴宿祢家持」<右の一首は兵部少輔大伴宿禰家持>である。
◆蘆苅尓 保利江許具奈流 可治能於等波 於保美也比等能 未奈伎久麻泥尓
(大原真人今城 巻二十 四四五九)
≪書き下し≫葦刈(あしか)りに堀江(ほりえ)漕(こ)ぐなる楫(かぢ)の音(おと)は大宮人(おほみやひと)の皆(みな)聞くまでに
(訳)葦を刈りに取るために堀江を漕ぐ櫂(かい)の音、その音は、この大宮の内にいる誰もが聴き耳を立てるほど間近に聞こえて来る。(同上)
左注は、「右一首式部少丞大伴宿祢池主讀之 即云兵部大丞大原真人今城先日他所讀歌者也」<右の一首は、式部少丞(しきぶのせうじょう)大伴宿禰池主読む。すなはち云はく、「兵部大丞(ひゃうぶのだいじょう)大原真人今城、先 (さき)つ日(ひ)に他 (あた)し所にして読む歌ぞ」といふ>である。
題詞にあるように、「河内の国伎(くれ)人の郷(さと)の馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首」であるが、歌碑がここ滋賀県米原市朝妻筑摩 朝妻公園にあることに、やや違和感を覚える。
歌碑の後ろの解説文に、「古代国家に大きな影響を与えた息長氏を想起し得る息長川(能登瀬川ともいう。現在の天野川)は、三人にとって大きな存在であったのであろう」と記されている。
大阪市のHP「東住吉区」には、「息長川(おきなががわ)」について、「河内国伎人郷(クレサト・現平野区喜連)の豪族、馬史国人(ウマノフヒトクニヒト)が万葉集の巻20-4458番に詠んだ、『鳰鳥(ニホドリ)の 息長川(オキナガガワ)は 絶えぬとも 君に語らむ 言(コト)尽きめやも』に見える息長川は、通説では近江の天野川とされていますが、河内の川という説もあり、私たちは現在の今川がその流れを汲むものだと考えています。(後略)」と記されている。
「息長川は、通説では近江の天野川とされて」いることが、ここに歌碑を建てた根拠なのだろう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「weblio辞書 河川・湖沼名辞典)」
★「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」