●歌は、「名草山言にしありけり我が恋ふる千重の一重も慰めなくに」である。
●歌碑は、和歌山市和歌浦南 片男波公園・万葉の小路(3)にある。
●歌をみていこう。
◆名草山 事西在来 吾戀 千重一重 名草目名國
(作者未詳 巻七 一二一三)
≪書き下し≫名草山(なぐさやま)言(こと)にしありけり我(あ)が恋ふる千重(ちへ)の一重(ひとへ)も慰(なぐさ)めなくに
(訳)名草山とは言葉の上だけのことであったよ。私が故郷に恋い焦がれる心の千重に重なるその一つさえも慰めてくれないのだから。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)千重の一重(読み)ちえのひとえ:数多くあるうちのほんの一部分。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
紀三井寺は、西国第2番の札所もあり、名前の由来は、三つの井戸「吉祥水(きっしょうすい)」「楊柳水(ようりゅうすい)」「清浄水(しょうじょうすい)」から来ているという。
楼門をくぐると、231段の参道階段があり、登りきると美しい和歌浦湾が遠望できる。
一昨日(9月15日)紀三井寺を訪れたところである。
歌群一二一二から一二一四歌は往路、一二一五から一二一七歌は帰路の歌とある。
歌をおってみよう。
◆足代過而 絲鹿乃山之 櫻花 不散在南 還来万代
(作者未詳 巻七 一二一二)
≪書き下し≫足代(あて)過ぎて糸鹿(いとか)の山の桜花(さくらばな)散らずもあらなむ帰り来(く)るまで
(訳)足代を通り過ぎてさしかかった糸鹿の山、この糸鹿の山の桜花よ、散らないでいておくれ。私が帰って来るその時まで。(同上)
(注)足代:もと安諦群。今の有田市。
(注)糸鹿の山:有田市糸我町の南の山
◆安太部去 小為手乃山之 真木葉毛 久不見者 蘿生尓家里
(作者未詳 巻七 一二一四)
≪書き下し≫安太(あだ)へ行く小為手(をすて)の山の真木(まき)の葉も久しく見ねば蘿(こけ)生(む)しにけり
(訳)安太(あだ)の地へ通ずる小為手(おすて)の山の杉や檜(ひのき)の葉も、久しく見ないうちに、蘿(こけ)生(む)すほどに茂ってしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)安太、小為手:所在不詳。
「有田郡」の歴史をみてみると、「紀伊続風土記によると、古代は安諦郡(あで)という郡名であったが、平城天皇の諱「安殿(あて)」と音が似て畏れ多いということから在田郡に改称したという。」とある。また、紀伊和歌山藩の支配下に「押手村」という村名が見られる。(weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
◆玉津嶋 能見而伊座 青丹吉 平城有人之 待問者如何
(作者未詳 巻七 一二一五)
≪書き下し≫玉津島(たまつしま)よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問はばいかに
(訳)玉津島をよくよくご覧になっていらっしぃませ。奈良のお家(うち)の方が、待ち構えて様子を尋ねたら、どうお答えになりますか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)います【坐す・在す】補助動詞:〔動詞の連用形に付いて〕…ていらっしゃるようにさせる。…おいでにならせる。▽尊敬の意を表す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)旅先である玉津島の娘子の歌か。
◆塩滿者 如何将為跡香 方便海之 神我手渡 海部未通女等
(作者未詳 巻七 一二一六)
≪書き下し≫潮満(み)たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人娘子(あまをとめ)ども
(訳)潮が満ちてきたら、いったいどうするつもりなのか。海神の支配する恐ろしい難所を渡っている海人の娘子たちは。(同上)
◆玉津嶋 見之善雲 吾無 京徃而 戀幕思者
(作者未詳 巻七 一二一七)
≪書き下し≫玉津島見てしよけくも我(わ)れはなし都に行きて恋ひまく思へば
(訳)玉津島の景色を見ても、嬉(うれ)しい気持ちに私はとてもなれない。都に帰ってから恋しくてならないだろうと思うと。(同上)
(注)よけく【良けく・善けく】:よいこと。 ※派生語。上代語。 ⇒なりたち形容詞「よし」の上代の未然形+接尾語「く」(学研)
(注)まく:…だろうこと。…(し)ようとすること。 ※派生語。語法活用語の未然形に付く。 ⇒なりたち推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」
この七首に出て来る主な地名をひろって、明日香から押手、糸我、紀三井寺、玉津島とグーグルマップを徒歩で検索してみると、130km強、28時間とでる。山の中は獣道に毛が生えた程度であろう。体力、精神力に驚かされる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」
★「グーグルマップ」