●歌は、「笹の葉はみ山もさやにさやけども我は妹思ふ別れ来ぬれば」である。
●歌をみていこう。
◆小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
(柿本人麻呂 巻二 一三三)
≪書き下し≫笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども我(わ)れは妹思ふ別れ来(き)ぬれば
(訳)笹の葉はみ山全体にさやさやとそよいでいるけれども、私はただ一筋にあの子のことを思う。別れて来てしまったので。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)「笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども」は、高角山の裏側を都に向かう折りの、神秘的な山のそよめき(伊藤脚注)
(注の注)ささのはは…分類和歌:「笹(ささ)の葉はみ山もさやに乱るとも我は妹(いも)思ふ別れ来(き)ぬれば」[訳] 笹の葉は山全体をざわざわさせて風に乱れているけれども、私はひたすら妻のことを思っている。別れて来てしまったので。 ⇒鑑賞長歌に添えた反歌の一つ。妻を残して上京する旅の途中、いちずに妻を思う気持ちを詠んだもの。「乱るとも」を「さやげども(=さやさやと音を立てているけれども)」と読む説もある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)さやに 副詞:さやさやと。さらさらと。(学研)
第三句の「乱」の訓は、サヤゲドモが多数派で、ミダルトモの説もある。神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)の中で、文字に即して無理がないことから「ミダルトモ」説をとられている。そして次のように論を展開されている。
「この歌に即していえば、上三句が『笹の葉』についていうのと下二句の『妹思ふ』とを、トモで対置する構造です。上三句をどう見るかは『乱』にかかるところがあります。・・・ミダルはどちらかといえば視覚的であり、サヤグは聴覚的です。・・・視覚的にとらえられた笹の葉と、山全体に満ちたざわめきをいう聴覚的な「さや」との併存がここにあり・・・ざわめきにとり囲まれ、視覚的にも笹の葉が乱れるなかにあることをいうのです。その外界の表現が(自己の内面の)『妹思ふ』と対置されます。」と書かれており、さらに「作者の意図としていうのではなく。歌において実現してしまったものとして、『笹の葉はみ山もさやに乱るとも』という表現とともに発見された『吾』というべきなのです。視覚的・聴覚的に迫って来る笹の葉の広がりに囲まれながら、そのように迫られることのなかで『別れ来』たから『妹』を思わずにはいられないのだと、はじめてはっきりとたちあらわれる『吾』と『思ふ』ことの具体的なかたちとありようとが、歌によって実現されるのです。」と書かれている。
「別れ来」たからという事実を確認し、それが事実であるが故に「妹」を思わずにはいられないという妻依羅娘子に対する思いがあふれ出ているのである。
視覚的・聴覚的に迫って来る笹の葉の広がりに囲まれながら、そのように迫られることのなかで知る「吾」の孤独感、ともすれば無気力な自己が一途に「妹」を思い、かろうじて存在感を維持できているのではなかろか。
この頃の人麻呂は、都を離れ地方を転々とする生活を送っている(送らされている)ので、
題詞のとおり「妻に別れて上(のぼ)り来(く)る」のであれば、都に呼び戻されることになるので多少は華やいだ雰囲気もあろうかと思われるが、逆にピーンと張りつめた緊張感さえ漂っているのである。
地方の現地妻との別れでこれほどまでの歌を詠うだろうか。
いささか梅原論に束縛された感が強くなっている。
少し息抜きをしよう。
巻七 一二三八歌は、この歌をトレースしたのではないかと思える。歌をみてみよう。
◆竹嶋乃 阿戸白波者 動友 吾家思 五百入鉇染
(作者未詳 巻七 一二三八)
≪書き下し≫高島(たかしま)の安曇(あど)白波(しらなみ)は騒(さわ)けども我(わ)れは家思ふ廬(いほ)り悲しみ
(訳)高島の安曇川に立つ白波は騒がしいけれども、私はただ一筋に家の妻を思っている。旅の仮寝の床の悲しさに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)いほり【庵・廬】名詞:「いほ(庵)」に同じ。
(注の注)いほ【庵・廬】名詞:①仮小屋。▽農作業のために、草木などで造った。②草庵(そうあん)。▽僧や世捨て人の仮ずまい。自分の家をへりくだってもいう。(学研)ここでは①の意
これは望郷歌である。歌の構成は似ているが、ピーンと張りつめるような緊張感がなく、なぜかホッとするのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会)
★「水底の歌 柿本人麿論 上」 梅原 猛 著 (新潮文庫)
★「万葉の恋歌」 堀内民一 著 (創元社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」