―その1902―
●歌は、「ぬばたまの黒髪山の山菅に小雨降りしき しくしく思ほゆ」である。
●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(67)にある。
●歌をみていこう。
◆烏玉 黒髪山 山草 小雨零敷 益ゝ所思
(作者未詳 巻十一 二四五六)
≪書き下し≫ぬばたまの黒髪山(くろかみやま)の山菅(やますげ)に小雨(こさめ)降りしきしくしく思(おも)ほゆ
(訳)みずみずしい黒髪山の山菅、その菅に小雨が降りしきりるように、あの人のことがしきりに思われてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)黒髪山:所在未詳。奈良市佐保山の一部とも。(伊藤脚注)
(注)上四句「烏玉 黒髪山 山草 小雨零敷」は序、「益ゝ(しくしく)」を起こす。(伊藤脚注)
(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1159)」で紹介している。
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「黒髪山」の地名は現在も残っており、近くには母子2代にわたる女性天皇の元明天皇(43代)、元正天皇(44代)の陵がある。
―その1903―
●歌は、「足柄のわを可鷄山のかづの木の我を誘さねも門さかずとも」である。
●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(68)にある。
●歌をみていこう。
◆阿之賀利乃 和乎可鶏夜麻能 可頭乃木能 和乎可豆佐祢母 可豆佐可受等母
(作者未詳 巻十四 三四三二)
<書き下し≫足柄(あしがり)のわを可鶏山(かけやま)山(かけやま)のかづの木の我(わ)を誘(かづ)さねも門(かづ)さかずとも
(訳)足柄の、我(わ)れを心に懸けるという可鶏山(かけやま)のかずの木、あの木がその名のように、いっそ私を誘(かず)す―そう、かどわかしてくれたらいいのになあ。門が開いていなくてもさ。(同上)
(注)アシガリ:「あしがら」の訛り
(注)「わを可鶏」に「我を懸け」を懸けている。(伊藤脚注)
(注)かづの木:相模の国の方言で「ヌルデ(白膠木)を「かづのき」と呼んでいた。
(注)門(かづ)さかず:「門し開かず」の意か。(伊藤脚注)
この歌は、男の誘いを待つ女の歌である。「かづの木」は男の譬え。(伊藤脚注)
恋する女の、私を思ってくれるならかどわかして欲しい、何としてでもという、ある意味、過激な歌である。掛詞が数多く使われているので、戯れ歌的要素が強い歌とも考えられる。東歌らしくない技巧が施されたとみるか、民謡っぽいとみるかであろう。
この歌は、部立「譬喩歌」の三四三一から三四三三歌の歌群の左注「右三首相模國歌」<右の三首は相模(さがみ)の国の歌>の一首である。
三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1131)」で紹介している。
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―その1904―
●歌は、「笹の葉はみ山もさやにさやけども我は妹思ふ別れ来ぬれば」である。
●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(69)にある。
●歌をみていこう。
◆小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
(柿本人麻呂 巻二 一三三)
≪書き下し≫笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども我(わ)れは妹思ふ別れ来(き)ぬれば
(訳)笹の葉はみ山全体にさやさやとそよいでいるけれども、私はただ一筋にあの子のことを思う。別れて来てしまったので。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)「笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども」は、高角山の裏側を都に向かう折りの、神秘的な山のそよめき(伊藤脚注)
(注の注)ささのはは…分類和歌:「笹(ささ)の葉はみ山もさやに乱るとも我は妹(いも)思ふ別れ来(き)ぬれば」[訳] 笹の葉は山全体をざわざわさせて風に乱れているけれども、私はひたすら妻のことを思っている。別れて来てしまったので。 ⇒鑑賞長歌に添えた反歌の一つ。妻を残して上京する旅の途中、いちずに妻を思う気持ちを詠んだもの。「乱るとも」を「さやげども(=さやさやと音を立てているけれども)」と読む説もある。(学研)
(注)さやに 副詞:さやさやと。さらさらと。(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1272)」で紹介している。
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一三一から一三九歌は、「石見相聞歌」と言われる歌群である。
題詞は、「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国より妻に別れて上(のぼ)り来(く)る時の歌二首并(あは)せて短歌>である。
「石見相聞歌」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1290~1297)」で島根県立万葉公園の歌碑(プレート)をベースに紹介している。
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梅原 猛氏は、「水底の歌 柿本人麿論(上)」(新潮文庫)の中で、「石見相聞歌」について、「おそらく、わが国の文学史上において、もっとも悲しい別れの歌を」残した、と書かれている。
刑場である西の高津の鴨島へ向かう方向性は、題詞の「京に上る」と真逆になる。疑わしいのは題詞の方である。移送の方向ベクトル、人麻呂と妻依羅娘子の相聞のベクトルが合致した。もう一度、その背景を踏まえ相聞歌を詠みなおすと新たな深い深い悲嘆の底に誘われるような気持ちになる。
梅原 猛氏は、「歌は、女に別れて都へ行く男の悲しみを歌っている。その悲しみは異常である。しばらく同棲した現地妻と別れる、それはたしかに悲しいことである。しかし、そういう場合、悲しむのは、男の方より、むしろ女の方である。」とその異常さを踏まえ、人麻呂刑死説を唱えておられる。
「鴨山五首」と「石見相聞歌」は、関連付けて読み解くことが求められているように思えるのである。
「鴨山五首」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1266~1270)」で紹介している。
二二三歌
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二二四歌
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二二五歌
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二二六歌
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二二七歌
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「水底の歌 柿本人麿論(上)」 梅原 猛 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「グーグルマップ」