万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1268)

●歌は、「直に逢はば逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ」である。

f:id:tom101010:20211207141846j:plain

島根県益田市 県立万葉公園(12)万葉歌碑(依羅娘子)

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(12)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲

       (依羅娘子 巻二 二二五)

 

≪書き下し≫直(ただ)に逢はば逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

 

(訳)じかにお逢いすることは、とても無理であろう。石川一帯に、雲よ立渡っておくれ。せめてお前を見ながらあの方をお偲びしよう。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ただなり【直なり・徒なり】形容動詞:①直接だ。じかだ。まっすぐだ。②生地のままだ。ありのままだ。③普通だ。あたりまえだ。④何もせずにそのままである。何事もない。⑤むなしい。何の効果もない。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注)かつましじ 分類連語:…えないだろう。…できそうにない。 ※上代語。 ⇒

なりたち 可能の補助動詞「かつ」の終止形+打消推量の助動詞「ましじ」(学研)

(注)雲:雲は霊魂の象徴とされ、人を偲ぶよすがとされた。

 

 「逢ひつかましじ」と詠っているので、二二四歌同様、あきらかに依羅娘子は人麻呂の死を知っていたといえるだろう。

 

 梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論(上)」の中で、人麻呂の死について、柿本人麻呂大津皇子と同様に、何らかの政治事件に巻き込まれて流罪になり非業の死を遂げたと主張されている。

 そして同著で、「・・・人麿入水の事実は覆いがたい。われわれは、古い伝承にあたって、人麿が死後まもなく神に、しかも水に関係ある神になっていることを知った。・・・日本において死後まもなく神になるのは、ほとんど非業の死をとげた人であった。非業の死をとげた人の復讐が、怨恨が恐ろしいので、その亡霊をなぐさめ、怨恨を押さえるために、そのような人を神と祀る。そして、そのような人を聖化する名を死後その人に贈るのである。」と書かれている。

 さらに「・・・今は高津川と益田川が海に注いでいるが、昔は一本の川であったという。その河口のあたりに鴨島があったのである。昔はそれは島でなく陸続きであったともいわれる。」

 妻依羅娘子が人麻呂の死の知らせを聞き、河口まで来たが、人麻呂の屍は河口近くの海に沈んでおりどこかわからない。そして詠んだ歌が二二四歌(今日今日と我が待つ君は石川のに交りてありといはずやも)である。

 「『直の逢ひ』というのは、・・・夫が死んだことを依羅娘子はとうに知っているはずである。・・・せめて死体なりとも逢いたい、それが『直の逢ひ』、すなわち直接の邂逅(かいこう)なのである。しかし夫の死体は、どこに行ったのか分からない。それで女は叫ぶのだ―せめて石川にいっぱい雲が立ちこめておくれ、その雲を見て夫を偲ぼう、と。・・・雲は、古代人にとって、死霊の行く末であった。死霊が雲になり、雨になるのである。」

そして「・・・依羅娘子の歌は単に、夫、柿本人麿を失った妻の嘆きを表しているばかりでなく、夫の死体が水没して、所在が見つからないのを嘆いた歌であると私は思う。」と書かれている。

 

 益田市観光ガイドHP「高津柿本神社」に次のように書かれている。

柿本人麻呂が祀られており、(国重要美術品)正一位柿本大明神の神位を持ち、 疫病防除、開運、学問、農業、安産、眼疾治癒、火防などのご利益があります。入母屋造の本殿は県建造物文化財です。

その歴史は、人麿没後まもなく神亀年間(724〜729)に、聖武天皇の勅命によって終焉の地である鴨島に人麿を祀る小社が立てられましたが、300年後の万寿3年(1026)の大地震で島は海底に沈み、人麿のご神体も津波で流され、現在の高津松崎に漂着しました。そして地元の人によってこの高津松崎に人丸社が建てられ、 長い間人々の信仰を集めたとされており、更に600年後、風波のため破損がひどくなったため、1681年に津和野藩主亀井茲親(これちか)によって、高角山(標高約50m高津城跡)に移築され、今に残っています。拝殿は津和野城から参拝できるように津和野の方向へ向いています。」

 

 人麻呂が死を覚悟し、妻依羅娘子がそのことを知っていたのである。梅原 猛氏は、前述の著で、相聞歌の一三一から一三七歌の歌群の題詞「柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上(のぼ)り来る時の歌二首 幷せて短歌」は、「・・・折口信夫は、常に詞書を離れて万葉集を読めとつねづねいっていたそうである。私は詞書は、最終的に平安時代のはじめ、万葉集最終編集のときにつくられたと思う。そのとき、おそらく、多くの歌とともに、人麿の人生そのものの正確なる意味は分からなくなっていたのであろう。・・・この歌を詞書を離れて、しかも古来の伝承通り、韓の崎を韓島、高角山を高津の山と考えて解釈したらどうか。そうすると、歌は、韓島に住んでいた人麿が、そこから渡(わたり)の山、屋上山(やかみのやま)をへて、高津の山へ行った歌になる。そして韓島は、・・・奈良時代国府の所在地とされる邇摩(にま)郡宅の沖合にある韓島に、人麿は妻とともにいたのである。もちろん島にいるのは流人である。」と書かれている。

 流人である高官は、国府の目の届くところにおかれ、妻と同居することが許されていた。やがて、流人・人麿は妻から引き離され国府の近くの韓島から、高津の沖合にある鴨島に移されたのである。これは、流人・人麿の行く先に待っているのは死の運命である。

 梅原 猛氏は、「石見相聞歌」について、「おそらく、わが国の文学史上において、もっとも悲しい別れの歌を残せたのは、こういう運命ゆえではなかったかと私は思う。」と書かれている。

 韓島から西の高津の鴨島へ向かう方向性は、題詞の「京に上る」と真逆になる。疑わしいのは題詞の方である。移送の方向ベクトル、人麻呂と依羅娘子の相聞のベクトルが合致した。もう一度、その背景を踏まえ歌を詠みなおすと新たな深い深い悲嘆の底に誘われるような気持ちになる。

 

 一三五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1258)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 一三六、一三七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1259,1260)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 一三六歌の「青駒が足掻(あが)きを速み」と詠い出している意味合いも、「移送されている」と考えれば、しっくりくるのである。

 

 

地方任官となり現地妻ができ、やがて都に戻ることになった場合の女の歌は思いの悲痛性が強いが、男の歌は、今風に言えば、どちらかというとチャラく、ベクトルがあっていない。しかし、人麻呂と妻依羅娘子の相聞歌は、ベクトルがあっており、愛や思いの深さが共振しあっているのである。

「靡けこの山」の意味の重さ深さは人麻呂のこの運命を考えると、いままで感じたことのない悲痛な叫びであることが胸に突き刺さってくる。

 

別離の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その691)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論(上)」 梅原 猛 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「益田市観光ガイドHP」