万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2107)―奈良市田原本町阪手 村屋坐彌冨都比売神社―万葉集 巻一 七九、八〇

●歌は、「大君の 命畏み 親びにし 家を置き こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈の 八十隈おちず 万たび かへり見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲のほに 夜の霜降り 岩床と 川の氷凝り 寒き夜を 息むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 我れも通はむ(1-79)」ならびに「あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな(1-80)」である。

奈良市田原本町阪手 村屋坐彌冨都比売神社万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、奈良市田原本町阪手 村屋坐彌冨都比売神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「或本従藤原京遷于寧樂宮時歌」<或本、藤原の京より寧楽の宮に遷る時の歌>である。

(注)皇子などの家を水路奈良に運び、移築した人々の室寿ぎ歌らしい。(伊藤脚注)

 

天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠國乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手尓 来座多公与 吾毛通武

       (作者未詳 巻一 七九)

 

≪書き下し≫大君の 命畏み 親びにし 家を置き こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈の 八十隈おちず 万たび かへり見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲のほに 夜の霜降り 岩床と 川の氷凝り 寒き夜を 息むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 我れも通はむ

 

新版 万葉集 一 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 伊藤 博 ]

価格:1,056円
(2023/3/20 23:57時点)
感想(1件)

(訳)我が大君の仰せを恐れ謹んで、馴(な)れ親しんだ我が家をあとにし、隠(こも)り処(く)の柏瀬の川に、舟を浮かべてわれらが行く川の、曲がり角の、次から次へと続くその曲がり角ごとに、いくたびもいくたびも振り返って我が家の方を見ながら、漕ぎ進んで行くうちに日も暮れてしまい、青土の奈良の都の、佐保川に辿(たど)り着いて、われらが仮寝をしているその衣の上から、明け方の月の光でまじまじ見ると、あたり一面、まっ白に夜の霜が置き、岩床のように川の水が凝り固まっている、そんな寒い夜でもゆっくり休むことなく、通い続けて造り上げたわれらのお屋敷に、いついつまでもお住まい下さいませ、我が大君よ。私どももずっと通ってお仕えしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)にきぶ【和ぶ】自動詞:安らかにくつろぐ。なれ親しむ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かはくま【川隈】名詞:川の流れが折れ曲っている所。「かはぐま」とも。(学研)

(注)佐保川に い行き至りて:初瀬川が佐保川に合流する地点に達したことをいう。(伊藤脚注)

(注の注)いゆく【い行く】自動詞:行く。進む。 ※「い」は接頭語。上代語。(学研)

(注)衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば:衣を掛けて寝る床に朝月がさやかに照らしている、その朝月のようにまじまじと見ると、の意か。(伊藤脚注)

(注)ほ【秀】名詞:①ぬきんでていること。秀(ひい)でていること。また、そのもの。「国のほ」「波のほ」。②表面に出て目立つもの。▽多く、「ほ」を「穂」にかけていう。(学研)

(注)岩床と:岩盤のように氷が固まっていて。トはとしての意。(伊藤脚注)

 

 反歌の方もみてみよう

 

◆青丹吉 寧樂乃家尓者 万代尓 吾母将通 忘跡念勿

       (作者未詳 巻一 八〇)

 

≪書き下し≫あをによし奈良の家には万代(よろづよ)に我(わ)れも通はむ忘ると思ふな

 

(訳)青土匂う奈良のこのわれらのお屋敷には、千代万代(ちよよろずよ)に私どもも通い続けましょう。忘れるものとはけっしてお思い下さいますな。(同上)

(注)家には:このわれらのお屋敷には、の意。(伊藤脚注)

 

左注は、「右歌作主未詳」<右の歌は、作主未詳>である。

歌碑と解説案内板

歌の解説案内板

 元明天皇御製といわれる七八歌は、七九・八〇歌に対応する。こちらもみてみよう。

 

題詞は、「和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原廻望古郷作歌 一書云 太上天皇御製」<和銅三年の庚戌(かのえいぬ)の春の二月に、藤原の宮より寧楽(なら)の宮に遷(うつ)る時に、御輿(みこし)を長屋の原に停(とど)め、古郷(ふるさと)を廻望(かへりみ)て作らす歌 一には「太上天皇の御製」といふ>である。

(注)和銅三年:710年

(注)長屋の原:天理市南部。藤原・平城両京の東京極を結ぶ中つ道の中間。ここで旧都への手向けの礼が行われた。(伊藤脚注)

(注)太上天皇の御製:持統天皇御製。(伊藤脚注)

 

◆飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武 <一云 君之當乎 不見而香毛安良牟>

       (元明天皇 巻一 七八)

 

≪書き下し≫飛ぶ鳥明日香(あすか)の里を置きて去(い)なば君があたりは見えずかもあらむ <一には「君があたりを見ずてかもあらむ」といふ>

 

(訳)飛ぶ鳥鎮め給う明日香の里よ、この里をあとにして行ってしまったなら、君のいらっしゃるあたりは、見えなくなってしまうのではなかろうか。<大切な君のいらっしゃるあたりなのに、ここをもう見ないで過ごすことになるというのか>(同上)

(注)とぶとりの【飛ぶ鳥の】分類枕詞:①地名の「あすか(明日香)」にかかる。「とぶとりの明日香の里」②飛ぶ鳥が速いことから、「早く」にかかる。 ⇒参考:天武(てんむ)天皇の時代、赤い鳥を献上した者があったので、明日香にあった宮殿の「浄御原宮(きよみはらのみや)」に「とぶとりの」を冠して、「飛鳥浄御原宮(とぶとりのきよみはらのみや)」と改めたことにより、地名「明日香」の枕詞(まくらことば)となり、さらに「明日香」も「飛鳥」と書かれるようになった。(学研)

 

 この歌に詠まれた「長屋の原」について、奈良県HP「はじめての万葉集 vol.86」に詳しく書かれているので引用させていただきます。

 

 「『万葉集』のこの歌の題詞によると、和銅三(七一〇)年二月、藤原宮から寧楽(なら)宮(平城宮)へ遷った時、御輿(みこし)を長屋の原に停め、古郷(ふるさと)の方を振り返り遠望しながら作ったのがこの歌で、作者については『太上天皇(だいじょうてんのう)の御製(ぎょせい)』と記す書物がある、とあります。和銅三年は平城遷都の年で、当時の天皇元明天皇です。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、元明天皇は同年正月に大極殿(だいごくでん)で年頭の儀式に臨み、三月に平城宮へ遷都しました。最近の発掘調査により、同年には平城宮大極殿が未完成であったことが分かっていますので、元明天皇は藤原宮の大極殿で正月の儀式を行い、題詞にあるように二月に藤原から平城へ行幸し、三月に平城宮で遷都を宣言したということになります。なお、題詞には太上天皇の御製とありますが、和銅三年当時には太上天皇は存在しませんので、元明天皇和銅八(七一五)年に退位して太上天皇となった後に題詞が付けられたことが分かります。

 藤原から平城へ向かう元明天皇の御輿が停まった『長屋の原』は、当時の行政地名で言うと大倭国山邊郡長屋里(やまとのくにやまのべぐんながやのさと)、現在の天理市西井戸堂(いどうどう)町・東井戸堂町付近にあたります。同地には古代の幹線道路である中ツ道が南北に走っており、元明天皇行幸は中ツ道を利用したとみられます。ここは藤原と平城のちょうど中間に当たり、中ツ道の休憩地点であったと考えられます。この付近から南の方角を望むと、飛鳥・藤原の一帯は遠くに見える山並みの麓辺りとしか分からず、はっきりとは見えません。この地で御輿を停めた元明天皇は、夫の草壁皇子、子の文武天皇が共に眠る飛鳥の里がまもなく見えなくなってしまうであろう当地でこの歌を詠み、古京の飛鳥・藤原に別れを告げ、新京の平城で始まる新たな時代へと気持ちを切り替えようとしたのでしょう。」

 

 上記の「元明天皇は同年正月に大極殿(だいごくでん)で年頭の儀式に臨み、三月に平城宮へ遷都しました。最近の発掘調査により、同年には平城宮大極殿が未完成であったことが分かっています。」とあるが、これに関しては、名古屋女子大学「学術情報センターだより第56号」に竹尾利夫氏(総合科学研究所長 日本古代文学)の「木簡が語る平城遷都と歴史の真実」に次のように書かれている。

 「和銅3年(710)正月、天皇は元日朝賀の儀式を『大極殿』でおこなっている。この元日の儀式は年間行事の中で最も重要であり、大極殿は宮の儀式空間としての中枢をなした。そして2ヵ月後、『続日本紀』は3月 10 日の条に『はじめて都を平城に遷す』とある。藤原京から平城京への遷都である。すると、既述の和銅3年正月の儀式は、藤原宮でのことであったのか、それとも平城宮であったのか、『続日本紀』にその記述がなく不明であった。主に古文献を史料として扱う、文学や歴史学といった学問の研究方法の限界はこうしたところにあった。しかし、長年の疑問に近年、終止符が打たれた。それは1枚の木簡の発見である。復元された大極殿の工事に先立つ発掘調査で、和銅3年3月の紀年をもつ『伊勢国安濃郡阿刀里……』と書かれた荷札木簡が出土したのである。この木簡は都の造営に従事する者へ支給する米などを運搬した際の荷札であろうか。重要なのは大極殿回廊下の地層より出土したという点である。なぜなら平城京へ遷都した3月の時点では、回廊は無論のこと大極殿の建物さえも未完成であったことを木簡は示唆している。今日『木簡』と呼ぶ千数百年前に破棄された板切れに、墨で書かれていた文字が学問の論争を決着に導いたといってよい。」

 

 これまでにも、何度か「木簡」の歴史的証人たる点に触れてきたが、改めて「木簡」の重要性を認識することができた。

 機会があれば「木簡」について深耕していきたいものである。

 

 

■■奈良市田原本町阪手 村屋坐彌冨都比売神社■■

村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)HPによると、同神社は「大物主(おおものぬし)と三穂津姫(みほつひめ)の夫婦神を祭る『縁結びの神』『内助の功の神』で知られ、大神神社(おおみわじんじゃ)の妃神(きさきがみ)を祀っていることから大神神社の別宮(※)とも称され、大神神社と合わせてお詣りされるとさらにご利益が増すといわれております。また、イチイガシが群生する照葉樹林の樹そうは植物学上極めて貴重なもので、県の天然記念物にも指定されています。

※厳密には異なりますが、古来より氏子崇敬者から親しみを込めていわれてきました。」と書かれている。

万葉歌碑の設置場所(地図のほぼ中央右側)
同神社HP「交通アクセス」から引用させていただきました。

 

 

 帰りに、唐古・鍵遺跡 史跡公園の前にある「道の駅 レスティ唐古・鍵」に立ち寄った。地場の新鮮野菜や紅白イチゴなどついつい買ってしまった。コスパ優れものであった。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「はじめての万葉集 vol.86」 (奈良県HP)

★「木簡が語る平城遷都と歴史の真実」 竹尾利夫氏(総合科学研究所長 日本古代文学)稿 (名古屋女子大学「学術情報センターだよ第56号」)