●歌は、「みてくらを奈良より出でて水蓼穂積に至り鳥網張る坂手を過ぎ石走る神なび山に朝宮に仕へ奉りて吉野へと入りますみればいにしへ思ほゆ」である。
●歌をみていこう。
◆帛叨 楢従出而 水蓼 穂積至 鳥網張 坂手乎過 石走 甘南備山丹 朝宮 仕奉而吉野部登 入座見者 古所念
(作者未詳 巻十三 三二三〇)
≪書き下し≫みてくらを 奈良より出(い)でて 水(みづ)蓼(たで) 穂積(ほづみ)に至り鳥網(となみ)張る 坂手(さかて)を過ぎ 石走(いははし)る 神(かむ)なび山に 朝宮(あさみや)に 仕(つか)へ奉(まつ)りて 吉野へと 入ります見れば いにしへ思ほゆ
(訳)幣帛(ぬさ)を並べる奈良の都を出で立って、水蓼の穂の穂積に至り着き、鳥網を張る坂の坂手を通り過ぎ、石走る神なび山で、朝宮の祭り事にお仕え申し上げ、吉野へとお入りになるさまを見ると、いにすえのありさまもかくやと偲ばれる。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)みてくらを:「奈良」の枕詞。神前に幣帛を並べ奉る意か。「みてぐら」は神への供物。(伊藤脚注)
(注の注)みてぐら【幣】名詞:神に奉る物の総称。特に、絹・木綿・麻などの布にいうことが多い。※「み」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)みずたで【水蓼】( 名 ):①ヤナギタデの一品種カワタデの異名。②( 枕詞 ):穂状の花が咲くことから、地名「穂積」にかかる。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)
(注)穂積:天理市前栽町付近。中つ道沿い。(伊藤脚注)
(注)となみはる【鳥網張る】分類枕詞:鳥を捕らえる網は多く坂に張ることから「坂」にかかる。(学研)
(注)石走る:「神なび山」(ミハ山か)の枕詞。(伊藤脚注)
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この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その330)」で紹介している。
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反歌もみてみよう
◆月日 攝友 久經流 三諸之山 礪津宮地
(作者未詳 巻十三 三二三一)
≪書き下し≫月日(つきひ)は変(かは)らひぬとも久(ひさ)に経(ふ)るみもろの山の離宮(とつみや)ところ
(訳)月日は移り変わってしまっても、幾久しく変わることのない、みもろの山の行宮の地なのだ、ここは。(同上)
左注は、「右二首 但或本歌曰 故王都跡津宮地也」<右の二首。ただし、或本の歌には「古き都の離宮(とつみや)ところ」といふ>である。
(注)古き都:明日香古京。(伊藤脚注)
巻十三は、長歌集としての特異性をもっている。短歌や旋頭歌も含まれているが、すべて反歌である。長歌六十六首、うち反歌を持たないものが十九首、反歌としての短歌が六十首、旋頭歌が一首、合計百二十七種が収録されている。
「八坂神社・千代神社」については、田原本町観光協会 「田原本町歴史遺産 神々を訪ねて」の説明案内板には次のように書かれている。
■八坂神社■
旧村社 阪手北地区 八坂神社 祭神 須佐男命
勧進時代、由緒は明らかでないが、江戸時代には牛王天王社と云われたが、明治22年(1889)に現在の八坂神社と改められた。 それまでは、神宮寺・西之坊と称し、釈迦堂(三間四方・本尊 釈迦如来像)、薬師堂(丈間四方・本尊 薬師如来像)があったが、明治7年(1874)に廃寺となり、釈迦堂の本尊 釈迦如来像は、現在、八坂神社北隣の阿弥陀寺に遷されている。
牛王天王の名残は、八坂神社の境内で、毎年2月に行われる伝統祭禮行事「華鎮祭」で北阪手の各戸に配られる「牛王さん」の「牛の玉 西坊法印」と版木で刷られた和紙と「華鎮祭」で読み上げられる「結鎮祭文(寛政5年・1793)」に残されている。
■■奈良市五条町 唐招提寺東四条池南小公園→奈良市田原本町阪手 八坂神社・千代神社■■
唐招提寺の次は田原本町の八坂神社である。到着したと思い境内を探すも見当たらない。車に戻り調べなおす。ここは、田原本町鍵278の八坂神社であることが判明、八坂神社・千代神社を目指す。
境内を取り囲む玉垣がないオープンスペースの境内の神社である。境内の隅に万葉歌碑は立てられている。
■■■大阪市内万葉歌碑巡り■■■
昨日、車で行くのをためらっていた大阪市内の4か所を電車で回ることにし、9時過ぎに家を出た。
西淀川区姫嶋神社、同大和田住吉神社、難波八坂神社、生野区横野神社跡の4か所である。
■西淀川区姫嶋神社■
「出来島駅→姫島神社→大和田住吉神社→福駅」ルートである。
「出来島駅」には11時ちょっと前に到着。携帯ナビをたよりに姫島神社へ。
若い女性の姿が目立つ。驚いたことに、この神社の絵馬は、帆立の貝殻である。万葉歌碑しか頭になかったが、この神社の御祭神は阿迦留姫命(アカルヒメノミコト)で『決断と行動の神様』だそうである。同神社のHPには、「帆立とは、泳いでいる姿がまるで帆を立てて進む船のようである事に由来します。そのような帆立を絵馬にすることで、御祭神である阿迦留姫命が夫から船で逃れ姫島の地で再出発されたように、みなさまの新しいスタートも順風満帆に進むようにという願いが込められています。」と書かれている。
■大和田住吉神社■
姫嶋神社を後にし一路大和田住吉神社へ。春場所の関係で相撲部屋ののぼりが立っており、力士の姿も。
万葉歌碑や手水舎の龍の写真を撮り、12時15分ごろ阪神「福駅」へ。情けないことに足が重く感じる。
■難波八阪神社■
四橋筋側の鳥居越しに度肝を抜かれる「獅子殿」が見える。万葉歌碑、万葉歌碑で世間知らずといった感じである。逆にこれも万葉集のおかげで経験できると考えるべきだろう。
お目当ての歌碑というか、「戦艦陸奥主砲抑気具記念碑」の側面に家持の四〇九四歌の一部「海行かば・・・かへり見はせじ」が刻されているのである。
■生野区横野神社跡■
千日前線の終点「南巽駅」から携帯ナビを頼りに歩きだす。相当足にきているが自分を励ましながら歩く。昔、東京単身赴任時代に東京メトロの全線を歩いたが、特に都営大江戸線(営業距離が40.7km)の10時間59分(62,139歩)という記録を考えると頑張れるのである。
ビルの一角にこじんまり立てられている。正面には「横野神社舊跡」の碑があり、碑に向かって左側に万葉歌碑があった。
異空間である。
一日の歩数は20,594歩で、それでも大江戸線の三分の一の歩数であった。万葉歌碑巡りは、やはり体力勝負のところがある。
歌については、後日紹介させていただきます。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「姫嶋神社HP」