●歌は、「婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴の男は鵜川立ちけり」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「見潜鸕人作歌一首」<鸕(う)を潜(かづ)くる人を見て作る歌一首>である。
◆賣比河波能 波夜伎瀬其等尓 可我里佐之 夜蘇登毛乃乎波 宇加波多知家里
(大伴家持 巻十七 四〇二三)
≪書き下し≫婦負川(めひがは)の早き瀬(せ)ごとに篝(かがり)さし八十伴(やそとも)の男(を)は鵜川(うかは)立ちけり
(訳)婦負川の早い流れごとに篝火をともして、こんな季節にたくさんの官人(つかさびと)たちは、鵜飼を楽しんでいる。(同上)
(注)婦負川:鸕坂川下流の名か。(伊藤脚注)
(注)やそとものを【八十伴の緒・八十伴の男】名詞:多くの部族の長。また、朝廷に仕える多くの役人。(学研)
(注)鵜川立ちけり:鵜飼は本来夏のもの。春の鵜飼への詠嘆。(伊藤脚注)
(注の注)うかは【鵜川】名詞:鵜(う)の習性を利用して魚(多く鮎(あゆ))をとること。鵜飼い。また、その川。(学研)
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この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1354)」で紹介している。
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「鵜坂神社(富山市)概要: 鵜坂神社は富山県富山市婦中町鵜坂に鎮座している神社です。鵜坂神社の創建は崇神天皇の御代に大彦命(北陸道将軍)によって勧請されたのが始まりと伝えられています。
白雉2年(651)に社殿が再建され(白雉2年に創建したという説もあります)、称徳天皇(第48代天皇・在位:天平宝字8年:764年~神護景雲4年:770年)の御代には勅願により名僧として知られた行基菩薩が七堂伽藍二十四坊を建立し越中の総社として多くの神事が行われたそうです。
平安時代に成立した歴史書である『続日本後紀』によると承和12年(845)9月従五位上、『三代実録』によると貞観2年(860)5月従四位下、『三代実録』によると貞観4年(862)10月従四位上、『三代実録』によると貞親9年(867)2月従三位に列し、中央にも知られた存在で延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳にも式内社として記載されていました。
奈良時代に越中守として赴任した大伴家持も当社に参拝したと思われ、万葉集巻十七、四〇二二には家持の和歌『鵜坂河 渡る瀬多み この吾が馬の 足掻きの水に 衣ぬれにけり』が収録されています。・・・
平安時代から江戸時代まで伝えられていた尻打祭は貞操を戒めるために女性の尻を打つという奇祭で『日本五大奇祭』の一つとして日本全国にその名が知られ松尾芭蕉や宝井其角はこの奇祭について記しています。この奇祭の由来から鵜坂神社は特に『安産』と『縁結び』に御利益があるとして現在も信仰されています。」
明治に入ってから、雌馬の尻を打つように変わり、その後廃れたという。
この歌碑の形は、祭りに因んだ「馬」をイメージしたように思える。
富山市観光協会HPの解説にあった「越中の総社」に関しては、同社から約50mの神通川の堤防に「越乃國 総社 鵜坂社」の古びた石碑が立てられている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」