万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2323)―

●歌は、「石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて初鳥猟だにせずや別れむ」である。

富山市東岩瀬 諏訪神社万葉歌碑(大伴家持) 20230705撮影

●歌碑は、富山市東岩瀬 諏訪神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊波世野尓 秋芽子之努藝 馬並 始鷹獏太尓 不為哉将別

         (大伴家持 巻十九 四二四九)≪

 

≪書き下し≫石瀬野(いはせの)に秋萩(あきはぎ)しのぎ馬並(な)めて初(はつ)鳥猟(とがり)だにせずや別れむ

 

(訳)石瀬野で、秋萩を踏みしだき、馬を勢揃いしてせめて初鳥猟だけでもと思っていたのに、それすらできずにお別れしなければならないのか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)石瀬野:富山県高岡市庄川左岸の石瀬一帯か。(伊藤脚注)

(注)しのぐ【凌ぐ】他動詞①押さえつける。押しふせる。②押し分けて進む。のりこえて進む。③(堪え忍んで)努力する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)とがり【鳥狩り】名詞:鷹(たか)を使って鳥を捕らえること。「とかり」とも。(学研)

 

 四二四八、四二四九歌の題詞は、「以七月十七日遷任少納言 仍作悲別之歌贈貽朝集使掾久米朝臣廣縄之舘二首」<七月の十七日をもちて、少納言(せうなごん)に遷任(せんにん)す。よりて、悲別の歌を作り、朝集使掾(てうしふしじよう)久米朝臣廣縄(くめのあそみひろつな)が館(たち)に贈(おく)り貽(のこ)す二首>である。

 

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 四二四八、四二四九歌ならびに書簡については、高岡市野村いわせ野郵便局にある歌碑とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その857)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 

「石瀬野」については、高岡市石瀬付近説と富山市岩瀬付近説がある

高岡市万葉歴史館HP「越中万葉歌めぐり」に「石瀬野」について次のように書かれている。

「『石瀬野』は、家持が好んで出かけた猟場のひとつです。そこが現在のどこにあたるかについては、高岡市石瀬付近説と富山市岩瀬付近説があり、どちらにもこの歌の歌碑が建てられています。

歌の内容から考えれば、「岩瀬野」は部下たちと気軽に出向くことのできる地であると思われるため、国府のあった現在の伏木に近い、高岡市石瀬近辺が有力視されています。」

 

富山県内でもっとも古い万葉歌碑■

 また高岡市万葉歴史館HPに「富山市東岩瀬 諏訪神社の歌碑」について「富山県内でもっとも古い万葉歌碑は、富山市東岩瀬の諏訪神社前に立っています。何の案内もなくそこに立つ歌碑は、これだと教えてもらわなければ、通り過ぎてしまいます。

この歌碑は,嘉永6年(1853)岩瀬の肝煎で俳人でもあった若林喜平次の尽力によって建てられました。

家持の、

  岩瀬野に秋萩しのぎ馬なめて初鷹狩りだにせずや別れむ

を右に彫り、左には、左近衛権中将正三位の肩書きを持つ当時の歌人千種有功の、

  雅たる昔の跡と岩瀬野に変はらで匂ほへ秋萩の花

が彫られています。」と書かれている。

(注)ちくさありこと【千種有功】:江戸末期の歌人。本姓は源。号は千千迺舎(ちぢのや)。京都堂上家に生まれる。飛鳥井家に学んだが、香川景樹らと交わり、堂上風を脱した歌風となる。歌集に「千千迺舎集」「ふるかがみ」など。寛政九~嘉永七年(一七九七‐一八五四)(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 

 


 前稿では、魚津総合公園の万葉歌碑の高さが4.5mあり、富山県内で最も高い歌碑であると紹介したが、ここ諏訪神社の歌碑は、嘉永6年(1853年)の建立で富山県内最古とある。

 富山県で小生が、これまで巡ってきた歌碑のなかで古いのは安政五年(1858年)建立の富山県高岡市太田つまま公園の歌碑であった。

 

 

安政五年(1858年)に立てられた富山県高岡市太田つまま公園万葉歌碑(大伴家持

 年代物の歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2115)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「高岡市万葉歴史館HP」