●歌は、「あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり(小野老 3-328)」、「ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり(沙弥満誓 4-573)」、「大和へ君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も響めてぞ鳴く(麻田陽春 4-570)」である。
「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「旅人の周辺」を読み進もう。
前稿で大伴旅人について紹介したが、同著では、次に、「旅人をとりまく大宰府の官人たちの歌を」紹介している。
「小野老(おののおゆ)はのちに大宰府の大弐(だいに)(次官)になった人だが、都をたたえる歌を大宰府において作る。(巻三、三二八)(歌は省略) 『青丹が美しい奈良の都は満開の花のようにいま繁栄している』―そう言い切ったところに望京の念しきりなるものを感じる。まぶしいような都讃美である。」(同著)
小野老の歌をみてみよう。
■巻三 三二八歌■
題詞は、「大宰少弐小野老朝臣歌一首」<大宰少弐(だざいのせうに)小野老朝臣(をののおゆのあそみ)が歌一首>である。
◆青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
(小野老 巻三 三二八)
≪書き下し≫あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
(訳)あをによし奈良、この奈良の都は、咲き誇る花の色香が匂い映えるように、今こそまっ盛りだ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。この歌群の歌については、すべてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。
➡ こちら506
「沙弥満誓(さみまんせい)は名国司として著名だった人間だが、当時観世音寺(かんぜおんじ)を造る長官として大宰府に赴任していた。旅人の上京を見送ったのちに、(巻四、五七三)(歌は省略)と歌う。・・・旅人との離別を表現しているのだが、黒白の対比や恋という大行(だいぎょう)な表現に遊び心の見られる一首だ。」(同著)
五七二歌とともに五七三歌をみてみよう。
■■巻四 五七二・五七三歌■■
題詞は、「大宰帥大伴卿上京之後沙弥満誓贈卿歌二首」<大宰帥大伴卿の京に上りし後に、沙弥満誓、卿に贈る歌二首>である。
■巻四 五七二歌■
◆真十鏡 見不飽君尓 所贈哉 旦夕尓 左備乍将居
(沙弥満誓 巻四 五七二)
≪書き下し≫まそ鏡見飽(みあ)かぬ君に後(おく)れてや朝(あした)夕(ゆうへ)にさびつつ居(を)らむ
(訳)いくらお逢(あ)いしても見飽きることのない君に取り残されて、何ともまあ不思議なほど、朝に夕にさびしい気持ちを抱き続けていることでございます。(同上)
(注)まそかがみ【真澄鏡】分類枕詞:鏡の性質・使い方などから、「見る」「清し」「照る」「磨(と)ぐ」「掛く」「向かふ」「蓋(ふた)」「床(とこ)」「面影(おもかげ)」「影」などに、「見る」ことから「み」を含む地名「敏馬(みぬめ)」「南淵山(みなぶちやま)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)さぶ【荒ぶ・寂ぶ】自動詞:荒れた気持ちになる。(学研)
■巻四 五七三歌■
◆野干玉之 黒髪變 白髪手裳 痛戀庭 相時有来
(沙弥満誓 巻四 五七三)
≪書き下し≫ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には逢(あ)ふ時ありけり
(訳)黒髪が変わって真っ白になる年になっても、こんなに恋にさいなまれることもあるものなのですね。(同上)
(注)しらく【白く】自動詞:①白くなる。色があせる。②気分がそがれる。興がさめる。しらける。③間が悪くなる。気まずくなる。(学研)ここでは①の意
五七二、五七三歌は、女の恋歌のような歌に仕立てている。
満誓の五七二・五七三歌に旅人が和(こた)ふる歌二首が五七四・五七五歌である。
この四首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その916)」で紹介している。
➡ こちら916
旅人の五七四歌の歌碑は、太宰府市石坂 九州国立博物館にある。
さらに同著では麻田陽春(あさだのやす)が取り上げられている。
「旅人を蘆城(あしき)の駅家(うまや)まで見送って来て、(巻四、五七〇)(歌は省略)という一首を贈っている。陽春はこのとき大典(だいてん)(四等官)として在任していた・・・『懐風藻』にも詩をのこす文人である。そのゆえの『立つ』『立つ』という技巧が目につくが、『離別を鹿までも悲しむのか、そのとよもしの中で君を送る』という一首は惜別の情を歌いえているだろう。」(同著)
巻四、五七〇をみてみよう。
■巻四 五七〇歌■
題詞は、「大宰帥大伴卿被任大納言臨入京之時府官人等餞卿筑前國蘆城驛家歌四首」< 大宰帥(だざいのそち)大伴卿、大納言(だいなごん)に任(ま)けらえて京(みやこ)に入る時に臨み、府の官人ら、卿を筑前(つくしのみちのくち)の国蘆城(あしき)の駅家(うまや)にして餞(せん)する歌四首>である。
◆山跡邊 君之立日乃 近付者 野立鹿毛 動而曽鳴
(麻田連陽春 巻四 五七〇)
≪書き下し≫大和(やまと)へ君が発(た)つ日の近づけば野に立つ鹿も響(とよ)めてぞ鳴く
(訳)大和へと君が出発される日が近づいたので、心細いのか、野に立つ鹿までがあたりを響かせて鳴いています。(同上)
(注)旅人の帰京は天平二年(730年)十二月である。鹿は十一月、十二月には鳴かない。かつての遊んだ時を連想したものか。
五六九・五七〇歌の左注は、「右二首大典麻田連陽春」<右の二首は、大典(だいてん)麻田連陽春(あさだのむらぢやす)>である。
五六八~五七一の歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その899)」で紹介している。
➡ こちら899
「このように見てくると、旅人の歌がある現実の空しさを歌ったのは、それが単に辺境にあったからだというだけでは足りないことに気づく。旅人も右の陽春同様懐風藻に一篇の漢詩をのこす文人である。またその和歌はたくみに漢文学の素養をとり入れたもので、かつそれをいささかも露骨にしない点に、より深い素養を思わせるものがある。それでいてこれらの人と比較したときの和歌の心深さは、旅人がすぐれた詩人だったことを示している。その詩魂があってこそ、辺境が旅人により高き文芸の境地を拓(ひら)かせたのである。」(同著)
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」