■ふじ■
●歌は、「藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君」である。
●歌碑は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。
●歌をみていこう。
三二九、三三〇歌の題詞は、「防人司佑大伴四綱歌二首」<防人司佑(さきもりのつかさのすけ)大伴四綱(おほとものよつな)が歌二首>である。
◆藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君
(大伴四綱 巻三 三三〇)
≪書き下し≫藤波(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
(訳)ここ大宰府では、藤の花が真っ盛りになりました。奈良の都、あの都を懐かしく思われますか、あなたさまも。(同上)
(注)「思ほすや君」:大伴旅人への問いかけ。(伊藤脚注)
この三三〇歌を含む三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。参加者は、小野老(おののおゆ)、大伴四綱(おおとものよつな)、大伴旅人、沙弥満誓(さみまんぜい)、山上憶良である。
三二八から三三七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。
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この宴席の状況を歌を列挙して鳥瞰してみよう。
■小野老
三二八 あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
■大伴四綱
三二九 やすみしし我が大君の敷きませる国の中には都し思ほゆ
三三〇 藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
■大伴旅人
三三一 我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ
三三二 我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため
三三三 浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも
三三四 忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため
三三五 我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵しありこそ
■沙弥満誓
三三六 しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ
■山上憶良
三三七 憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむぞ
この筑紫の地での宴席が開かれる少し前に奈良の都の空気に触れて来た小野老が「咲く花のにほふがごとく今盛りなり」と絵巻に書かれたがごとき美しい都の情景を詠う。
宴席の場に、面々の奈良の都への郷愁が一気に噴き出す。
四綱は、郷愁にかられ「都し思ほゆ」と自分の思いを詠い、旅人に「都を思ほすや君」と問いかけるのである。
旅人は、四綱の問いに「奈良の都を見ずかなりなむ」と奈良の都への思いを、自分の年を考え、弱弱しく本音でつぶやくのである。そして「象の小川」、「古りにし里」、「香具山」、「(吉野の)夢のわだ瀬」と望郷の思いを詠うのである。
宴席が郷愁の念で重々しくなってきたので、沙弥満誓が、筑紫の女性を「筑紫の綿」と譬え筑紫も捨てたものではないと筑紫の現実に引き戻そうと詠うのである。
最後に、憶良が、場の雰囲気を壊さないというより和ませつつ「今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむぞ」と詠って退出するのである。
これだけで一つの歌物語ができ上っているのである。
大宰帥たる大伴旅人が、気心の知れた仲間たちの宴席ということもあり、年からくる将来の不安を踏まえ弱弱しくも本音で奈良の都への思いを詠うのところが親しみを覚える。
気心知れた仲間たちの前で本音をさらけ出すが、次のような展開では、大宰帥大伴旅人として毅然たる態度で臨んでいるのである。
この展開をみてみよう。
題詞「大宰少貮石川朝臣足人歌一首」<大宰少貮(だざいのせうに)石川朝臣足人(いしかはのあそみたるひと)が歌一首>の次の歌に対してである。
◆刺竹之 大宮人乃 家跡住 佐保能山乎者 思哉毛君
(石川足人 巻六 九五五)
≪書き下し≫さす竹の大宮人(おほみやひと)の住む佐保(さほ)の山をば思(おも)ふやも君
(訳)奈良の都の大宮人たちが、自分の家として住んでいる佐保の山、その山のあたりを懐かしんでおられますか、あなたは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)さすたけの【刺す竹の】分類枕詞:「君」「大宮人」「皇子(みこ)」「舎人男(とねりをとこ)」など宮廷関係の語にかかる。「さすだけの」とも。竹の旺盛(おうせい)な生命力にかけて繁栄を祝ったものか。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)佐保の山:山麓に大伴氏はじめ貴族の邸宅があった。(伊藤脚注)
旅人は、石川足人に対しては、あまり親しみは持っていないようである。梅花の宴に石川足人の名前はあがっていない。
旅人は答えて詠う。
題詞は、「帥大伴卿和歌一首」< 帥(そち)大伴卿(おほとものまへつきみ)が和(こた)ふる歌一首>である
◆八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
(大伴旅人 巻六 九五六)
≪書き下し≫やすみしし我(わ)が大君(おほきみ)の食(を)す国は大和(やまと)もここも同(おな)じとぞ思ふ
(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君がお治めになる国、その国は、大和もここ筑紫(つくし)も変わりはないと思っています。(同上)
(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(学研)
(注)をす【食す】他動詞:①お召しになる。召し上がる。▽「飲む」「食ふ」「着る」「(身に)着く」の尊敬語。②統治なさる。お治めになる。▽「統(す)ぶ」「治む」の尊敬語。 ※上代語。(学研)
先の気心の知られた仲間内の宴席の旅人はここにはいない、大宰帥大伴旅人として「大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ」とずばり言い切っているのである。
山上憶良も大宰府で望郷の意を込め都に戻りたいと、上司の太宰帥である大伴旅人に訴えているのである。
日本挽歌や貧窮問答歌などを詠った山上憶良でなく、「奈良の都に召上げたまはね」と上司である旅人に甘えているのである。
題詞は、「敢布私懐歌三首」<敢(あ)へて私懐(しくわい)を布(の)ぶる歌三首>である。
■八八〇歌 天離る鄙に五年住まひつつ都のてぶり忘らえにけり
■八八一歌 かくのみや息づき居らむあらたまの来経行く年の限り知らずて
■八八二歌 我が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げたまはね
旅人が大納言として都へ戻ったのは天平二年であるが、その翌年に亡くなっている。旅人の配慮がどのようになされたのかはわからないが、天平四年に憶良は奈良の都に召還されたのであった。そして憶良も天平五年に亡くなったのである。
この憶良の歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その902)」で紹介している。
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かわいらしい憶良である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」