万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2588)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(山上憶良 1-63)」、「士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして(山上憶良 6-978)」、「松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ(山上憶良 5-868)」、「風交じり雨降る夜の雨交じり雪降る夜はすべもなく寒くしあれば堅塩を取りつづしろひ・・・山上憶良   5-892」、「神代より言ひ伝て来らくそらみつ大和の国は皇神の厳しき国言霊の幸はふ国と・・・山上憶良 5-894」である。

 

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「山上憶良」を詠み進もう。

 「旅人の周辺の人物として、もっともすぐれた作をのこしたのは、いうまでもなく山上憶良である。・・・憶良は持統の死の年に遣唐少録として海を渡り、慶雲のころに帰国する。その帰国に際しての歌が(巻一、六三)(歌は省略)である。・・・大和思慕のこころである。このとき無位であった憶良は渡唐の功によって正六位下(のち従五位下)となり臣(おみ)という姓(かばね)もあたえられ、霊亀二年(七一六)四月、元正の時代には伯耆守(ほうきのかみ)となる。・・・大宰府に下ったのはその後、神亀三年(七二六)にころで、旅人にやや遅れて天平四年(七三二)に帰京したらしい。筑前国司がその任であった。」(同著)

 

 巻一、六三歌をみてみよう。

■巻一 六三歌■

題詞は、「山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌」<山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(だいたう)に在る時に、本郷(ほんがう)を憶(おも)ひて作る歌>である。

(注)ほんがう【本郷】:①その人の生まれた土地。故郷。②ある郷の一部で、最初に開けた土地。③郡司の庁、また、郷役所のあった場所。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは①の意

 

◆去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武

       (山上憶良 巻一 六三)

 

≪書き下し≫いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ

 

(訳)さあ者どもよ、早く日の本の国、日本(やまと)へ帰ろう。大伴(おおとも)の御津の浜辺の松も、われらを待ち焦がれていることであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)こども【子供・子等】名詞:①(幼い)子供たち。▽自分の子にも、他人の子にもいう。②(自分より)若い人たちや、目下の者たちに、親しみをこめて呼びかける語。 ⇒参考:「ども」は複数を表す接尾語。現代語の「子供」は単数を表すが、中世以前に単数を表す例はほとんど見られない。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)御津:難波津。遣唐使の発着した港。(伊藤脚注)

 

「42歳で遣唐使書記に抜擢され」遣唐使の一員として唐に渡り、日本へ帰国する折の送別の宴会で詠まれたという憶良の巻一 六三歌は、『日本人が外国で詠んだ最初の歌』」(辰巳正明氏「山上憶良」<笠間書院>)である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1959)」で紹介している。

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 「万葉集は憶良についてもこの大宰府時代の歌を中心として載せ、帰京後は数編の長歌、漢文を付け加えている。その天平五年の死に近く、重病に沈んだときの歌、(巻六、九七八)(歌は省略)の悲痛な一首を最後として長い生涯をおえる。・・・もはや死を覚悟した憶良の『須(しまらく)ありて』という、しばらくの沈黙は、その生涯への回想の無限の感慨を物語っていよう。その物思いの後に口吟した一首であれば、これは空しく死んでいく士われへの、悔恨の一首だったのであろう。」(同著)

 

 巻六、九七八歌をみてみよう。

■巻六 九七八歌■

題詞は、「山上臣憶良沈痾之時歌一首」<山上臣憶良(やまのうえのおみおくら)、沈痾(ちんあ)の時の歌一首>である。

 

◆士也母 空應有 萬代尓 語継可 名者不立之而

       (山上憶良 巻六 九七八)

 

≪書き下し≫士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継(つ)ぐべき名は立てずして

 

(訳)男子たるもの、無為に世を過ごしてよいものか。万代までも語り継ぐにたる名というものを立てもせずに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

(注)「名をたてる」ことを男子たる者の本懐とする、中国の「士大夫思想」に基づく考え。

 

左注は、「右一首山上憶良臣沈痾之時 藤原朝臣八束使河邊朝臣東人 令問所疾之状 於是憶良臣報語已畢 有須拭涕悲嘆口吟此歌」<右の一首は、山上憶良の臣が沈痾(ちんあ)の時に、藤原朝臣八束(ふじはらのおみやつか)、河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)を使はして疾(や)める状(さま)を問はしむ。ここに、憶良臣、報(こた)ふる語(ことば)已(を)畢(は)る。しまらくありて、涕(なみた)を拭(のご)ひ悲嘆(かな)しびて、この歌を口吟(うた)ふ>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1152)」で紹介している。

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 「憶良のノートだったと思われる巻五という一巻は、元来途中までだった憶良のノートのあとに、単独に残された憶良の作をつけ加えたものだが、その単独の憶良の漢文や漢詩、貧窮(びんぐ)について問答の形をとって作った長歌(巻五、八九二・八九三)や遣唐使におくる長歌(巻五、八九四~八九六)は、すべて時の政府の高官に対して提出されたものらしい。ことに貧・老・病は、時の政府が積極的に取り上げて救恤(きゅうじゅつ)しようとした対象であり、憶良はこのときすでに筑前国守の任を離れていたにもかかわらず、心ある某(なにがし)にあえてこれをさし出して訴えたものらしい。伯耆守をふり出しにすごした十余年の国司生活は、その退職後もなお、このように訴えずにはおかなかったのである。いわば、骨太な男―硬骨漢(こうこつかん)といった姿を憶良の中に認めることができる。」(同著)

 

巻五、八九二・八九三歌ならびに巻五、八九四~八九六歌をみてみよう。

 

■■巻五 八九二・八九三歌■■

■巻五 八九二歌■

 題詞は、「貧窮問答歌一首 幷短歌」<貧窮問答(びんぐうもんだふ)の歌一首 幷せて短歌>である。

 

◆風雑雨布流欲乃雨雑雪布流欲波為部母奈久寒之安礼婆堅塩乎取都豆之呂比糟湯酒宇知須ゝ呂比弖之叵夫可比鼻毗之毗之尒志可登阿良農比宜可伎撫而安礼乎於伎弖人者安良自等富己呂倍騰寒之安礼婆麻被引可賀布利布可多衣安里能許等其等伎曽倍騰毛寒夜須良乎和礼欲利母貧人乃父母波飢寒良牟妻子等波乞ゝ泣良牟此時者伊可尒之都〻可汝代者和多流天地者比呂之等伊倍杼安我多米波狭也奈里奴流日月波安可之等伊倍騰安我多米波照哉多麻波奴人皆可吾耳也之可流和久良婆尒比等ゝ波安流乎比等奈美尒安礼母作乎綿毛奈伎布可多衣乃美留乃其等和〻氣佐我礼流可ゝ布能尾肩尒打懸布勢伊保能麻宜伊保乃内尒直土尒藁解敷而父母波枕乃可多尒妻子等母波足乃方尒囲居而憂吟可麻度柔播火氣布伎多弖受許之伎尒波久毛能須可伎弖飯炊事毛和須礼提奴延鳥乃能杼与比居尒伊等乃伎提短物乎端伎流等云之如楚取五十戸長我許恵波寝屋度麻イ弖来立呼比奴可久婆可里須部奈伎物可世間乃道

 

≪書き下し≫風交(まじ)り 雨降る夜(よ)の 雨交(まじ)り 雪降る夜(よ)は すべもなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を とりつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻(か)き撫(な)でて 我(あ)れをおきて 人はあらじと 誇(ほこ)ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) ありのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我(わ)れよりも 貧(まづ)しき人の 父母(ちちはは)は 飢(う)ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞(こ)ふ乞(こ)ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝(な)が世(よ)は渡る 天地(あめつち)は 広しといへど 我(あ)がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)かしといへど 我(あ)がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我(あ)のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並(なみ)に 我(あ)れも作(つく)るを 綿もなき 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬(ひせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解(と)き敷きて 父母(ちちはは)は 枕(まくら)の方(かた)に妻子(めこ)どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居(ゐ)て 憂(うれ)へさまよひ かまどには 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣(す)かきて 飯炊(いひかし)く ことも忘れて ぬえ鳥(どり)の のどよひ居(を)るに いとのきて 短き物を 端(はし)切ると いへるがごとく しもと取る 里長(さとをさ)が声は 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道(みち)

 

(訳)風にまじって雨の降る夜、その雨にまじって雪の降る夜は、何とも処置なく寒くてならぬので、堅塩をかじったり糟汁(かすじる)をすすったりして、しきりに咳きこみ鼻をぐすぐす鳴らし、ろくすっぽありもしないひげをかき撫でては、おれほどの人物はほかにあるまいと力み返ってみつけれど、それでも寒くてやりきれないので、麻ぶとんをひっかぶり、布の袖無(そでなし)をありったけを着重ねるのだが、それでもやっぱり寒い夜であるのに、我らよりもっと貧しい人の父母は、さぞかしひもじくて寒がっていることであろう。妻や子は、きっと物をせがんで泣いていることであろう。こんな時には、いったいどのようにして、そなたはこの世を凌(しの)いでいるのか。ようぞ問うてくださった、天地は広いというが、私のためには狭くなっているのか。日月は明るいというが、私のためには照っては下さらないのか。世の人みんながそうなのか。私だけがそうなのか。幸いにも人として生まれたのに、人並みに私も働いているのに、綿もない布の袖無の海松(みる)のように破れ下がったぼろだけを肩にうちかけ、つぶれたような傾(かし)いだ家の中で、地べたに藁を解いて敷き、父や母は私の枕の方に、妻や子は足の方に、お互い身を寄せ合って愚痴を言ったりうめき合ったりし、かまどには火の気を吹き立てることもできず、甑(こしき)には蜘蛛の巣を懸けて、飯を炊くことなどとっくに忘れてしまって、とらつぐみが鳴くようにひいひい悲鳴をあげている、それなのに、格別に短い物のその端をさらに切り詰めるという諺(ことわざ)のように、笞(むち)をかざす里長(さとおさ)の声は、寝屋の戸までやって来てわめき立てている。この世の中、こんな所はいやなところ、身も細るような所と思う次第でありますが、捨ててどこかに飛び去るわけにもゆきません。私ども人間は、所詮(しよせん)鳥ではありませんので。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)かたしほ【堅塩】名詞:未精製の固まっている塩。「きたし」とも。[反対語] 泡塩(あわしほ)。(学研)

(注)つづしろふ【嘰ろふ】他動詞:少しずつ食べ続ける。 ⇒参考:動詞「つづしる」の未然形に古い反復継続の助動詞「ふ」が付いた「つづしらふ」の転。(学研)

(注)かすゆざけ【糟湯酒】名詞:酒かすを湯にとかした飲み物。貧しい者が酒の代用とした。(学研)

(注)しはぶく【咳く】自動詞:①せきをする。②(訪問などの合図に)せきばらいをする。(学研)ここでは①の意

(注)びしびし 副詞:ぐすぐすと。▽鼻水をすすり上げる音の形容。 ⇒参考:上代語。上代の和語には濁音で始まる語はなかったとされるが、擬声語・擬態語は例外(学研)

(注)あさぶすま【麻衾】名詞:麻製の粗末な寝具。(学研)

(注)ぬのかたぎぬ【布肩衣】名詞:「布」で作った、袖(そで)のない衣服。下層階級の人が用いた。(学研)

(注)飢ゑ寒ゆらむ:飢え凍えているだろう。「寒ゆ」はヤ行上二段動詞。(伊藤脚注)

(注)乞ふ乞ふ:物をせがみながら。動詞終止形を重ねると継続態となる。(伊藤脚注)

(注)汝が世は渡る:ここまで問。次句から答え。(伊藤脚注)

(注)天地は:以下八句、よくぞお尋ね下さったという気息がこもる。(伊藤脚注)

(注)わくらばなり【邂逅なり】形容動詞:たまたまだ。偶然だ。まれだ。▽多く「わくらばに」の形で副詞的に用い、めったにないさまを表す。 ⇒参考:「わくらばに」の形で副詞とする説があるが、これは、用例がほとんど「わくらばに」という連用形であること、しかも、和歌によく用いられる歌語であって、他の活用形がほとんどないことによる。しかし、「わくらばの立ち出(い)でも絶えて」(『更級日記』)〈まれな外出もなくなって。〉のような例も、少ないながら見られるので、形容動詞とする。(学研)

(注)我れも作るを:せっせと働いているのに。(伊藤脚注)

(注)わわく 自動詞:破れ乱れる。ぼろぼろになる。 ※上代語。(学研)

(注)かかふ【襤褸】名詞:ぼろ布。(学研)

(注)伏廬:竪穴住居の掘立小屋か。(伊藤脚注)

(注)曲廬:柱の歪んだ小屋か。(伊藤脚注)

(注)囲み居て:互いに身を寄せ合って。(伊藤脚注)

(注)憂へさまよひ:愚痴を言ったりうめき合ったりして。(伊藤脚注)

(注)ほけ【火気】①火の気。また、煙。②湯気 (ゆげ) 。(goo辞書)ここでは①の意

(注)ぬえどりの【鵼鳥の】分類枕詞:鵼鳥の鳴き声が悲しそうに聞こえるところから、「うらなく(=忍び泣く)」「のどよふ(=か細い声を出す)」「片恋ひ」にかかる。(学研)

(注)いとのきて 副詞:とりわけ。特別に。 ※上代語。(学研)

(注)しもと 名詞:【笞・楚】(木の細い枝などで作った)刑罰に用いる、むち。また、杖(つえ)。(学研)

(注)さとをさ【里長】名詞:「里(さと)」の長。 ※上代語。(学研)

(注)世の中の道:このはかない世の中を生きて行くということは。(学研)

 

 

 

■巻五 八九三歌■

◆世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆

       (山上憶良 巻五 八九三)

 

≪書き下し≫世の中を厭(う)しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 

(訳)この世の中、こんな所はいやな所、身も細るような所と思う次第でありますが、捨ててどこかに飛び去るわけにもゆきません。私ども人間は、所詮(しょせん)鳥ではありませんので。(同上)

 

左注は、「山上憶良頓首謹上」<山上憶良頓首(とんしゅ)謹上

(注)とんしゅ【頓首】[名](スル)《「とんじゅ」とも》:①中国の礼式で、頭を地面にすりつけるように拝礼すること。ぬかずくこと。②手紙文の末尾に書き添えて、相手に対する敬意を表す語。「—再拝」(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

 

 

■■巻五 八九四~八九六歌■■

題詞は、「好去好來歌一首 反歌二首」<好去好來(かうきよかうらい)の歌一首 反歌二首>である。

 

■巻五 八九四■

 ◆神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理 今世能 人母許等期等 目前尓 見在知在 人佐播尓 満弖播阿礼等母 高光 日御朝庭 神奈我良 愛能盛尓 天下 奏多麻比志 家子等 撰多麻比天 勅旨<反云大命> 載持弖 唐能 遠境尓 都加播佐礼 麻加利伊麻勢 宇奈原能 邊尓母奥尓母 神豆麻利 宇志播吉伊麻須 諸能 大御神等 船舳尓 <反云布奈能閇尓> 道引麻志遠 天地能 大御神等 倭 大國霊 久堅能 阿麻能見虚喩 阿麻賀氣利 見渡多麻比 事畢 還日者 又更 大御神等 船舳尓 御手行掛弖 墨縄遠 播倍多留期等久 阿遅可遠志 智可能岫欲利 大伴 御津濱備尓 多太泊尓 美船播将泊 都々美無久 佐伎久伊麻志弖 速歸坐勢

       (山上憶良 巻五 八九四)

 

≪書き下し≫神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の大朝廷(おほみかど) 神(かむ)ながら 愛(め)での盛りに 天(あめ)の下(した) 奏(まを)したまひし 家の子と 選ひたまひて 勅旨(おほみこと)<反(かへ)して「大命」といふ> 戴き持ちて 唐国(からくに)の 遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海(うみ)原の 辺(へ)にも沖にも 神(かひ)づまり うしはきいます もろもろの 大御神(おほみかみ)たち 船舳(ふなのへ)に<反して「ふなのへに」といふ> 導きまをし 天地(あめつち)の 大御神たち 大和の 大国御魂(おほくにみたま) ひさかたの 天(あま)のみ空ゆ 天翔(あまがけ)り 見わたしたまひ 事終(をは)り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船舳(ふなのへ)に 御手(みて)うち懸けて 墨縄(すみなは)を 延(は)へたるごとく あぢかをし 値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津(みつ)の浜びに 直(ただ)泊てに 御船は泊てむ 障(つつ)みなく 幸(さき)くいまして 早(はや)帰りませ

 

(訳)神代の昔から言い伝えて来たことがある。この大和の国は、皇祖の神の御霊(みたま)の尊敬極まりない国、言霊(ことだま)が幸いをもたらす国と、語り継ぎ言い継いで来た。このことは今の世の人も悉く目のあたりに見、かつ知っている。大和の国には人がいっぱい満ち満ちているけれども、その中から、畏(かしこ)くも日の御子天皇(すめらのみこと)の、とりわけ盛んな御愛顧のままに、天下の政治をお執りになった名だたるお家の子としてお取立てになったので、あなたは勅旨(おおみこと)を奉じて、大唐の遠い境に差し向けられて御出発になる。ご出発になると、岸にも沖にも鎮座して大海原を支配しておられるもろもろの大御神たちは、御船の舳先に立ってお導き申し、天地の大御神たち、中でも大和の大国魂の神は、天空をくまなく駆けめぐってお見わたしになり、使命を終えてお帰りになる日には、再び大御神たちが御船の舳先に御手を懸けてお引きになり、墨縄をぴんと張ったように、値嘉岬から大伴の御津の浜辺に、真一文字に御船は到着するであろう。障りなく無事においでになって、一刻も早くお帰りくださいませ。(同上)

(注)そらみつ:枕詞。「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。(学研)

(注)言霊の幸はふ国:言霊が振い立って、言葉の内容どおりに実現させる良き国。(学研)

(注の注)さきはふ 【幸ふ】自動詞:幸福になる。栄える。(学研)

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)

(注)選ひたまひて:特別お取立てになったので。(伊藤脚注)

(注)かむづまる【神づまる】自動詞:神としてとどまる。鎮座する。(学研)

(注)うしはく【領く】他動詞:支配する。領有する。 ※上代語。(学研)

(注)へ【舳】名詞:(船の)へさき。船首。[反対語] 艫(とも)。(学研)

(注)大国御魂:今も天理市新泉水町にある大和(おおやまと)神社の祭神。(伊藤脚注)

(注)御手うち懸けて:御手を懸けてお引きになり。(伊藤脚注)

(注)すみなは【墨縄】名詞:「墨壺(すみつぼ)」の糸巻き車に巻いてある麻糸。墨糸。(学研)

(注)あぢかをし:「値嘉」の枕詞か。(伊藤脚注)

(注)値嘉の崎:長崎県五島列島平戸島およびその周辺の島々。当時、ここからが故国日本とされた。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻五 八九五歌■

◆大伴 御津松原 可吉掃弖 和礼立待 速歸坐勢

       (山上憶良 巻五 八九五)

 

≪書き下し≫大伴の御津(みつ)の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早(はや)帰りませ          

 

(訳)大伴の御津の松原を掃き清めては、私どもはひたすらお待ちしましょう。早くお帰り下さいませ。(同上)

(注)我れ立ち待たむ:「立ち」は立ち出でての意。(伊藤脚注)

 

 

 

 

■巻五 八九六歌■

◆難波津尓 美船泊農等 吉許延許婆 紐解佐氣弖 多知婆志利勢武

       (山上憶良 巻五 八九六)

 

≪書き下し≫難波津に御船泊(は)てぬと聞こえ来(こ)ば紐解き放(さ)けて立ち走りせむ

 

(訳)難波津に御船が着いたとわかりましたなら、うれしさのあまり私は帯紐を解き放したままで、何はさておき躍り上がって喜ぶことでしょう。(同上)

 

 左注は、「天平五年三月一日良宅對面獻三日 山上憶良謹上 大唐大使卿記室」<天平五年の三月の一日に、良が宅にして対面す。献(たてまつ)るは三日なり。 山上憶良謹上   大唐大使卿(だいたうたいしのまへつきみ)記室>である。

(注)天平五年:七三三年

(注)良が宅:憶良宅で対面した。(伊藤脚注)

(注)大唐大使卿:遣唐大使丹比真人広成。天平四年八月大使、翌五年四月難波を出発。天平七年三月、憶良没後に帰京。(伊藤脚注)

 

 

 この歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その57改)」で紹介している。

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奈良県天理市新泉町大和神社万葉歌碑(山上憶良 5-894) 20190414撮影

 

奈良県天理市新泉町大和神社社号碑と鳥居 20190414撮影

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「goo辞書」