万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2079~2081)―高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(85~87)―万葉集 巻十九 四一四〇、四一四三、四一六四、

―その2079―

●歌は、「我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも」である。

高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(85)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(85)である。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「天平勝寶二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首」<天平勝宝(てんぴやうしようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る二首>である。四一三九、四一四〇歌の二首である。四一三九歌は「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」で巻十九の巻頭歌である。いずれも、家持が目の前の実景を踏まえて詠んだ歌と言うより「漢詩的風景」を頭の中に描き詠んだものと思われる。

(注)天平勝宝二年:750年

(注)巻十九は、この年三月から天平勝宝五年二月までの歌を収める。家持が自信を誇った歌巻で、末四巻は巻十九を核にしつつ成立したらしい。(伊藤脚注)。

 

◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母

       (大伴家持 巻十九 四一四〇)

 

≪書き下し≫我(わ)が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも

 

(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)はだれ【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

家持は天平十八年(746年)から天平勝宝三年(751年)まで、越中国守ととして越中生活を送るのである。この間、中国文学や歌の勉強を行い歌人大伴家持が形成されていったといっても過言ではないといわれている。

 

(注)すもも【酸桃/李】:バラ科の落葉小高木。葉は長楕円形。春、白色の5弁花が密集して咲く。果実は桃に似てやや小さく、黄赤色に熟し、少し酸味があり、食用。中国の原産。古くから日本でも栽培され、ソルダムサンタローザ・巴旦杏(はたんきょう)などの品種を日本スモモと総称する。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

スモモの花 (weblio辞書 植物図鑑より引用させていただきました。)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その497)」で紹介している。

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―その2080―

●歌は、「もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花」である。

高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(86)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(86)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆物部乃 八十▼嬬等之 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花

       (大伴家持 巻十九 四一四三)

     ※▼は「女偏に感」⇒「▼嬬」で「をとめ」

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)娘子(をとめ)らが汲(う)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花

 

(訳)たくさんの娘子(おとめ)たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子(かたかご)の花よ。(同上)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(学研)

(注)「堅香子」は、カタクリの花のこととされています。雪が解けて、程なくすると向かいあった二枚の葉を出し、葉の間からつぼみを一個だけつけた花茎が伸び、サクラより少し早く、薄い紅紫色をした六弁の小さな花を咲かせます。自然の姿では多くが群生し、家持が「大勢の乙女たち」と詠んでいるのは、かたかごの花そのもののことではないかという 説もあります。高岡の人々を中心とした活動がみのって350円切手の図柄として採用されたこともありました。平成7年には高岡市の花となりました。(高岡市万葉歴史館HP)

 

「堅香子(かたくり)」は高岡市の「市の花」である。

 

 この歌については、高岡市の勝興寺の寺井の跡の歌碑とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その823)」で紹介している。

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―その2081―

●歌は、「ちちの実の父の命ははそ葉の母の命おほろかに心尽くして思ふらむその子なれやも・・・」である。

高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(87)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(87)である。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「慕振勇士之名歌一首 并短歌」<勇士の名を振(ふる)はむことを慕(ねが)ふ歌一首 幷(あは)せて短歌」である。

 

◆知智乃實乃 父能美許等 波播蘇葉乃 母能美己等 於保呂可尓 情盡而 念良牟 其子奈礼夜母 大夫夜 無奈之久可在 梓弓 須恵布理於許之 投矢毛知 千尋射和多之 劔刀 許思尓等理波伎 安之比奇能 八峯布美越 左之麻久流 情不障 後代乃 可多利都具倍久 名乎多都倍志母

      (大伴家持 巻十九 四一六四)

 

≪書き下し≫ちちの実の 父の命(みこと) ははそ葉(ば)の 母の命(みこと) おほろかに 心尽(つく)して 思ふらむ その子なれやも ますらをや 空(むな)しくあるべき 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)振り起し 投矢(なげや)持ち 千尋(ちひろ)射(い)わたし 剣(つるぎ)大刀(たち) 腰に取り佩(は)き あしひきの 八(や)つ峰(を)踏(ふ)み越え さしまくる 心障(さや)らず 後(のち)の世(よ)の 語り継ぐべく 名を立つべしも

 

(訳)ちちの実の父の命も、ははそ葉の母の命も、通り一遍にお心を傾けて思って下さった、そんな子であるはずがあろうか。されば、われらますらおたる者、空しく世を過ごしてよいものか。梓弓の弓末を振り起こしもし、投げ矢を持って千尋の先を射わたしもし、剣太刀、その太刀を腰にしっかと帯びて、あしひきの峰から峰へと踏み越え、ご任命下さった大御心のままに働き、のちの世の語りぐさとなるよう、名を立てるべきである。(同上)

(注)ちちのみの【ちちの実の】分類枕詞:同音の繰り返しで「父(ちち)」にかかる。(学研)

(注)ははそばの【柞葉の】分類枕詞:「ははそば」は「柞(ははそ)」の葉。語頭の「はは」から、同音の「母(はは)」にかかる。「ははそはの」とも。(学研)

(注)おほろかなり【凡ろかなり】形容動詞:いいかげんだ。なおざりだ。「おぼろかなり」とも。(学研)

(注)や 係助詞《接続》種々の語に付く。活用語には連用形・連体形(上代には已然形にも)に付く。文末に用いられる場合は活用語の終止形・已然形に付く。 ※ここでは、文中にある場合。(受ける文末の活用語は連体形で結ぶ。):①〔疑問〕…か。②〔問いかけ〕…か。③〔反語〕…(だろう)か、いや、…ない。(学研) ここでは、③の意

(注)さし【差し】接頭語:動詞に付いて、意味を強めたり語調を整えたりする。「さし仰(あふ)ぐ」「さし曇る」(学研)

(注)まく【任く】他動詞:①任命する。任命して派遣する。遣わす。②命令によって退出させる。しりぞける。(学研) ここでは①の意

 

 四一六四、四二六五歌の左注は、「右の二首は、山上憶良臣が作る歌に追(お)ひて和(こた)ふ」である。

(注)山上憶良の九七八歌をさす。

 

 憶良の九七八歌もみてみよう。

 

 題詞は、「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、沈痾(ちんあ)の時の歌一首」である。

(注)ちんあ【沈痾】〘名〙: いつまでも全快の見込みのない病気。ながわずらい。痼疾。宿病。宿痾。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

◆士也母 空應有 萬代尓 語継可 名者不立之而

        (山上憶良 巻六 九七八)

 

≪書き下し≫士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継(つ)ぐべき名は立てずして

 

(訳)男子たるもの、無為に世を過ごしてよいものか。万代までも語り継ぐにたる名というものを立てもせずに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)「名をたてる」ことを男子たる者の本懐とする、中国の「士大夫思想」に基づく考え。「名」は政治上の栄誉だが、文学上の功(いさお)をも示す。(伊藤脚注)。

 

左注は、「右の一首は、山上憶良の臣が沈痾(ちんあ)の時に、藤原朝臣八束(ふじはらのおみやつか)、河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)を使はして疾(や)める状(さま)を問はしむ。ここに、憶良臣、報(こた)ふる語(ことば)已(を)畢(は)る。しまらくありて、涕(なみた)を拭(のご)ひ悲嘆(かな)しびて、この歌を口吟(うた)ふ。」である。

(注)この一首を辞世として、憶良はまもなく他界したらしい。(伊藤脚注)。

 

九七八歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その89改)」で紹介している。

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四一五九歌から四一六五歌までの歌群の総題は、「季春三月九日擬出擧之政行於舊江村道上属目物花之詠并興中所作之歌」<季春三月の九日に、出擧(すいこ)の政(まつりごと)に擬(あた)りて、古江の村(ふるえのむら)に行く道の上にして、物花(ぶつくわ)を属目(しょくもく)する詠(うた)、并(あは)せて興(きよう)の中(うち)に作る歌>である。

 

 四一五九歌から四一六五歌までの歌群についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その867)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 植物図鑑」

★「JP日本郵便HP」

★「高岡市万葉歴史館HP」