万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その69改)―奈良県桜井市箸中車谷 県道50号線沿い―万葉集 巻七 一〇八七

●歌は、「痛足河、河波立ちぬ巻目の由槻が嶽に雲居立てるらし」である。

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奈良県桜井市箸中車谷万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良県桜井市箸中車谷 県道50号線沿いにある。

 県道をゆっくり車を走らせて探したときは見つからなかったが、車を止めて、歩いて探したのが正解であった。道から少し川沿いにあるので車からは見落す位置にあった。

 

●歌をみていこう。

 

◆痛足河 ゝ浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志

         (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇八七)

 

≪書き下し≫穴師川(あなしがは)川波立ちぬ巻向(まきむく)の弓月が岳(ゆつきがたけ)に雲居(くもゐ)立てるらし

 

(訳)穴師の川に、今しも川波が立っている。巻向の弓月が岳に雲が湧き起っているらしい。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は「雲を詠む」であり、一〇八八の左注に「右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出」(右の二首は柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ)とある。

 

 もう一首をみてみよう。

◆足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡

          (柿本人麻呂 巻七 一〇八八)

 

≪書き下し≫あしひきの山川(やまがは)の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立わたる

 

(訳)山川(やまがわ)の瀬音(せおと)が高鳴るとともに、弓月が岳に雲立わたる。(同上)

(注)なへ(接続助詞):《接続》活用語の連体形に付く。〔事柄の並行した存在・     進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。(学研)

 

 中西 進氏は、「万葉の心」(毎日新聞社)のなかで、「驟雨いたらんとする前の、緊迫した情景を耳と目にとらえたものである。(中略)名状しがたい迫力がこの歌の美しさであろう。」と述べておられる。「あしひきの山川の瀬の鳴る」と「弓月が岳に雲立わたる」を「なへに」でつなぎ、論理性がないなかで感情に訴えるそこに万葉集の魅力があると言われている。

 確かに、単純に訳して字面を追っただけでは「それで、どうなるの?」と突っ込みを入れたくなる。しかし、自分がその場にいるとして、情景を思い描きつつ、驟雨の状況を勘案していくと時間軸による迫力が加わってくる。この2首が逐次的であるとすると、川波が立ち、弓月が岳に雲が湧き起り、次の展開では、瀬音が高まり、(風も強くなり)、雲が立渡る、次の瞬間、雨が・・・となる。

 

 堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」のなかで。「この歌は、水の信仰の深い斎槻が嶽(ゆづきがたけ)の神に献じたともいうべき、本格的な万葉きっての自然詠である。」と絶賛されている。「夏の日照りがつづくと、巻向、穴師の人たちは、お神酒を携えて、斎槻が嶽に登り、その頂上池畔に祭られている神祠に供えて雨を祈ったという。穴師川は斎槻が嶽信仰のための、禊の場だったという。

 「高鳴る山河の瀬の音を耳にしたとき、人麻呂の心は、たちわたる斎槻が嶽の雲に、雨を祈った上古大和人への心に動いていただろう。民間の素朴な祈念を歌の上にあらわしたのである。」とも。

 

 「万葉集」というのは、いわば歌の博物館のようなもの。それぞれの歌は、それぞれの時代に、それぞれの場所で生まれたものである。歌を本当に理解するためには、常に歴史の中に、時代の中に、そしてまた、生まれた風土の中に置いて考えるべきである。

(犬養 孝著「万葉の人びと」新潮文庫より)

 

 万葉集の歌を本当に理解するためには、常に歴史の中に、時代の中に、そしてまた、生まれた風土の中に置いて考える必要があることを痛感させられた。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

※20230409一部改訂

万葉歌碑を訪ねて(その68改)―奈良県桜井市箸中車谷山辺の道―万葉集 巻二 一五七

●歌は、「神山の山邊真蘇木綿みじか木綿かくのみ故に長くと思ひき」である。

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奈良県桜井市箸中車谷山の辺の道万葉歌碑(高市皇子

 

●歌碑は、奈良県桜井市箸中車谷 県道50号線から山の辺の道に入ってすぐのところにある。

 

●歌をみていこう。

 

◆神山之 山邊真蘇木綿    短木綿 如此耳故尓 長等思伎

                 (高市皇子 巻二 一五七)

 

≪書き下し≫三輪山(みわやま)の山邊(やまべ)真蘇木綿(まそゆふ)短木綿(みじかゆふ)かくのみゆゑに長くと思ひき

(訳)三輪山の麓に祭る真っ白な麻木綿(あさゆふ)、その短い木綿、こんなに短いちぎりであったのに、私は末長くとばかり思い頼んでいたことだった。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)真蘇木綿(まそゆふ):麻を原料とした木綿 (ゆう)

                  (コトバンク デジタル大辞泉

 

 題詞「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」<十市皇女(といちのひめみこ)の薨(こう)ぜし時に、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の作らす歌三首>のうちの一首である。

 

 他の二首をみてみよう。

 

◆三諸之 神之神須疑 巳具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多

                  (高市皇子 巻二 一五六)

 

≪書き下し≫みもろの神の神杉(かむすぎ)巳具耳矣自得見監乍共(第三、四句、訓義未詳)寝(い)ねる夜(よ)ぞ多き

    ※第三、四句:①こぞのみをいめにはみつつ

           ②いめにだにみむちすれども

           ③よそのみをいめにはみつつ

           ④いめにのみみえつつともに

 

(訳)神の籠(こも)る聖地大三輪の、その神のしるしの神々しい杉、巳具耳矣自得見監乍共、いたずらに寝られない夜が続く(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

◆山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴

                   (高市皇子 巻二 一五八)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく

(訳)黄色い山吹が咲き匂っている山の清水、その清水を汲みに行きたいと思うけれど、どう行ってよいのか道がわからない。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)「山吹」に「黄」を、「山清水」に「泉」を匂わす。

 

 左注は、「紀曰七年戌寅夏四月丁亥朔癸巳十市皇女卒然病發薨於宮中」とある。

左中の書き下しは、「紀には「七年戌寅(つちのえとら)の夏の四月丁亥(ひめとゐ)の朔(つきたち)の癸巳(みずのとみ)に、十市皇女、にはかに病(やまひ)発(おこ)りて宮の中(うち)の薨(こう)ず」といふ。

 

 この歌碑のある山辺の道をしばらく進むと桧原神社に出る。

 桧原神社からほぼ西に二上山が遠望できる。山を眺めていると、大伯皇女が弟大津皇子二上山に葬られたとき哀傷(かなし)みて作られた歌「うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟(いろせ)とわが見む」が頭に浮かんでくる。

 悲劇のあとの妹、弟に対するうつそみの兄、姉の「情」がひしひしと伝わって来る。

 

 十市皇女に関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その38改)」に紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 県道50号線の穴師川の小橋の手前に車を止め、山の辺の道を眺めると歌碑らしきものが見えるので、歩いて確かめに行った。(写真の手前の灰色の道が県道50号線で山裾のラインが山の辺の道。中央付近に見えるのが歌碑)

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県道50号線から山の辺の道にみえる歌碑


 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

万葉歌碑を訪ねて(その67改)―奈良県桜井市箸中車谷(山の辺の道)穴師川小橋付近―万葉集 巻七 一二六九

●歌は、「巻向の山邊とよみて行く水のみなあわの如し世の人われは」である。

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奈良県桜井市箸中車谷万葉歌碑(柿本人麻呂

 

●歌碑は、奈良県桜井市箸中車谷(山の辺の道)穴師川小橋付近、県道50号線沿いにある。

 

◆巻向之 山邊響而 往水之 三名沫如 世人吾等者

               (柿本人麻呂 巻七 一二六九)

 

≪書き下し≫巻向の山辺響(とよ)みて行く水の水沫(みなわ)のごとし世の人我れは

(訳)巻向の山辺を鳴り響かせて流れて行く川、その川面の水泡のようなものだ。うつせみの世の人であるわれは。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)とよみ【響み】:大きな音や声が鳴り響くこと。また、人が大声を上げて騒ぐこと。大笑い。「どよみ」とも。

                           

 堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」の中で、この歌について、「仏教的無常観ではない。このはかなさは、水垢離をとる川の水泡に感じた、さわやかな寂寥感とみるべきだ。一種の空虚感である。穴師川の磐に激して流れる水の泡沫の、瞬間を味わったかなしみだろう。『水泡の如し』と切ったところに、人間の空虚感がある。神を祭る際のみそぎの水の泡沫と同じ清爽感である。」と述べられている。

(注)水垢離(みずごり):神仏に祈願するため、冷水を浴びて体のけがれを去り、清浄にすること。

 

 この日(4月22日)県道50号線から山の辺の道に入り、桧原神社に車を止めた。山の辺の道に入ってすぐに、ルームミラーに、道端の歌碑らしいものが写っている。細い道なので車を止めようがない。しばらく行くと神社が見えて来た。駐車場の車を止める。まず、「神社近く」とある柿本人麻呂歌碑を探す。見当たらないので、聞くことに。社務所では、御朱印をいただく女性が二人いた。終わるのを待って、柿本人麻呂の歌碑を尋ねたが残念ながらわからないとのことであった、井寺池のことを教えてもらいそちらを優先した。順調に回れたので、駐車場で、桜井市HPの歌碑めぐりの地図を見直す。50号線沿いにもそこそこの数の歌碑がある。再挑戦を決める。ちょうど、タクシーが上って来た。山の辺の道を引き返すより道幅は広そうと判断し、急がば廻れと、井寺の池から山を下り国道169号線に戻り、再度50号線を登ることにする。しかしこの選択の方が危険度は高かった。下り阪なのにほぼ直角に左折するところがある。ガードレール無し。よそ見していたらドスンの危険性大。しばらく行くと、車幅いっぱいの鉄製の橋が待っていた。ゆっくり、ゆっくり進む。途中、大神神社の大鳥居を遠望できるため池の近くで休憩する。

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大神神社の大鳥居の遠望

 漸く、169号線から県道50号線に。歌碑を見落すまいとややスピードを落として走った。穴師川の小橋手前に車を止める。山の辺の道の歌碑らしきものを歩いて確認に行くため車を降りる。なんと、車の後方に歌碑がある。それが、今回の歌碑であった。ここを基点に足で歌碑を巡った。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 (創元社

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「weblio古語辞書」

 

※20190409朝食関連記事削除、一部改訂

 

万葉歌碑を訪ねて(その66改)―井寺池農道脇―万葉集 巻七 一〇九二

●歌は、「鳴神の音のみ聞きし巻向の桧原の山を今日見つるかも」である。

 

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奈良県桜井市井寺池東側の農道脇万葉歌碑(柿本人麻呂

●この歌碑は、井寺池から少し離れた農道脇にある。 

 

●歌をみていこう。 

 

◆動神之 音耳聞 巻向之 檜原山乎 今日見鶴鴨

               (柿本人麻呂 巻七 一〇九二)

 

≪書き下し≫鳴る神の音のみ聞きし巻向の檜原(ひはら)の山を今日(けふ)見つるかも

(訳)噂にだけ聞いていた纏向の檜原の山、その山を、今日この目ではっきり見た。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)なるかみ【鳴る神】:かみなり。雷鳴。

    「かみなり」は「神鳴り」。「いかづち」は「厳(いか)つ霊(ち)」から

    出た語で、古代人が雷を、神威の現れと考えていたことがわかる。

 

 当時、巻向の檜原の山と言えば、誰一人知らないものはいないほどであったのだろう。雷鳴のような評判を聞いているとの歌いだしが物語っている。

 

 題詞は「詠山」である。

 一〇九四の歌の左注に「右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出」とある。

 他の二首も見てみよう。

 

◆三毛侶之 其山奈美尓 兒等手乎 巻向山者 継之宜霜

               (柿本人麻呂 巻七 一〇九三)

 

≪書き下し≫みもろのその山なみに子らが手を巻向山(まきむくやま)は継(つ)ぎのよろしも

(訳)三輪山のその山並(やまなみ)にあって、いとしい子が手をまくという名の巻向山は、並び具合がたいへんに好ましい。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 

(注)みもろ【御諸・三諸・御室】:神が降臨して宿る神聖な所。磐座(いわくら)(=神野語座所)のある山や、森・岩窟(がんくつ)など、特に、「三輪山(みわやま)にいうこともある。また、神坐や神社。「みむろ」とも。 ※「み」は接頭語(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」の中で、「山の辺の道を歩くひとびとは、巻向の珠城宮の故地、珠城山古墳のあたりから、三輪山(みもろ山)と、巻向山の山裾が、交叉しているようすを眺めて、(中略)あまりにもなごやかな山のならび具合に、この歌のこころを味あうだろう」と述べておられる。機会を作って見てみたいものである。

 

 

◆我衣 色取染 味酒 三室山 黄葉為在

               (柿本人麻呂 巻七 一〇九四)

 

≪書き下し≫我が衣ににほひぬべくも味酒(うまさけ)三室(みむろ)の山は黄葉(もみち)しにけり

(訳)私の着物が美しく染まってしまうほどに、三輪の山は見事に黄葉している。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)ぬべし 分類連語:①〔「べし」が推量の意の場合〕きっと…だろう。…てしまうにちがいない。②〔「べし」が可能の意の場合〕…できるはずである。…できそうだ。③〔「べし」が意志の意の場合〕…てしまうつもりである。きっと…しよう。…てしまおう。④〔「べし」が当然・義務の意の場合〕…てしまわなければならない。どうしても…なければならない。 ⇒なりたち 完了(確述)の助動詞「ぬ」の終止形+推量の助動詞「べし」(学研)

 

 

 農道と言っても、登り坂になっている。歌碑は坂を上り切った平坦なところにあると思いきや、坂の途中の草むらの中にあった。急いで登っていたので危うく見落すところであった。

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急な坂道の農道

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「weblio古語辞書」

 

※20210802朝食関連記事削除、一部改訂

万葉歌碑を訪ねて(その65改)―奈良県桜井市桧原井寺池畔―万葉集 巻十三 三二二二

奈良県桜井市桧原井寺池畔には、柿本人麻呂2つ、天智天皇、作者未詳の計4つの万葉歌碑がある。古事記の倭建命の歌碑もある。今日は作者未詳の歌碑の紹介である。

 

●万葉歌碑を訪ねて―その65―

 「三諸は人の守る山本辺はあしび花咲き未辺は椿花咲くうらぐはし山ぞ泣く児守る山」

 

この歌碑は、奈良県桜井市桧原井寺池畔にある。

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奈良県桜井市井寺池畔万葉歌碑(作者未詳)

 井寺池を上池と下池の仕切る堤を渡り切った上池側にひっそりと建てられている。ほぼ、天智天皇の歌碑の反対側になる。

 

歌をみていこう。

◆三諸者 人之守山 本邊者 馬酔木花開 末邊方 椿花開 浦妙 山曽 泣兒守山

                 (作者未詳 巻十三 三二二二)

 

≪書き下し≫みもろは 人の守(も)る山 本辺(もとへ)は 馬酔木花咲く 末辺(すゑへ)は 椿花咲く うらぐわし 山ぞ 泣く児守る山

(訳)みもろの山は、人が大切に守っている山だ。麓のあたりには、一面に馬酔木の花が咲き、頂のあたりには、一面に椿の花が咲く。まことにあらたかな山だ。泣く子さながらに人がいたわり守る、この山は。

(注)みもろ【御諸・三諸・御室】:神が降臨して宿る神聖な所。磐座(いわくら)(=神野語座所)のある山や、森・岩窟(がんくつ)など、特に、「三輪山(みわやま)にいうこともある。また、神坐や神社。「みむろ」とも。

(注)うらぐはし【うら細し・うら麗し】:心にしみて美しい。見ていて気持ちが良い。

すばらしく美しい。

(注)山の末(やまのすゑ):山の頂。また、山の奥。(コトバンク「精選版日本国語大辞典」)

 

 中西 進氏は「万葉の心」(毎日新聞社)のなかで、「そもそも『大和』という宛て字は平和をたたえた文字で、『やまと』ということばは、「山処(やまと)」つまり山のあるところという意味である。」(中略)「このことばは、広く野や海を知っている人間の名づけたものであるにちがいない。(彼ら)から見れば、まさに「大和」は「山処」であった。」と述べておられる。

 さらに「『万葉集』に大和の歌の多いことは、勢い、山の文学が多いことになろう。そして大和賛美は、山への賛美を不可欠にしていることにもなろう。」神が山に降臨すると信じられていたことなども考えあわせると、山々は、万葉びとにとって、まず聖なるものであったに違いない。この歌に関して同氏は、「三輪山の歌であろうが、この尊敬や信愛に、彼らの山への情熱は残りなく表れていると思われる。」と述べておられる。

 三輪山は、「神名備山」とも「三諸山」とも呼ばれた。神名備は「神な辺」であり、神の宿るところ、三諸は「御室」でやはり神の籠るるところを意味している。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「コトバンク:精選版日本国語大辞典

★「weblio古語辞書」

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

 

※20231231朝食記事削除 一部改訂

 

万葉歌碑を訪ねて(その64改)―奈良県桜井市桧原井寺池畔―万葉集 巻一 十三

●歌は、「香具山は畝傍を惜しと耳成と相争ひき神代よりかくにあるらし古もしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき」である。

 

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奈良県桜井市井寺池畔万葉歌碑(天智天皇

●歌碑は、奈良県桜井市桧原井寺池畔、上池と下池を仕切る堤を渡り切ったあたりの左手にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相格良思吉

        (中大兄皇子 巻一 十三)

 

≪書き下し≫香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)を惜(を)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしえ)も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき

 

(訳)香具山は、畝傍をば失うには惜しい山だと、耳成山と争った。神代からこんな風であるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取りあって争うのであるらしい。(伊藤 博著「萬葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

「雲根火雄男志等」を「畝傍を愛(を)し」と読むか「畝傍雄々し」と読むかの議論があり、一般には「を愛(を)し」と読まれることが多いが、伊藤博氏のように「畝傍(うねび)を惜(を)し」と読む説もある。

  

 どの山が男で、どの山が女かについても諸説がある。堀内民一著「大和万葉―その歌の風土」(創元社)に詳しいので列挙してみる。

【仙覚説】香具山は女山。最初、香具山は耳梨の男山に心寄せていたが、畝火の男らしい姿に惹かれるようになった。「相あらそひき」は、耳梨山をおろそかにして、畝火山にひかれようとする香具山と、それを阻止して元通り自分に靡かせようとする耳梨山との争いだとする。

【契沖説】男山、女山の分け方は仙覚と同じだが、初句を「香具山をば」と解釈し、女山の香具山を得ようと、「畝火のををしき」と耳梨山とが争ったことになる。そして、畝火山の雄々しさが、この場合はかえって、荒々しさとして、山山から嫌悪される理由になる。反歌では、香具山と耳梨山が逢ったことになる。

【木下幸文説】畝火山を女山とする説。「雄男志」は、「を愛(を)し」の意の仮名とする解釈。武田祐吉斎藤茂吉博士同説。

折口信夫説】女山の香具山と耳梨山とが、の畝火山を争ったとみる。女同士の夫(つま)争いである。沢潟久博士も同説。

【下河辺長流説】人間界の女を三つの男山同士が争ったとする。土屋文明氏はこの説をとっている。

 

 題詞は、「中大兄近江宮御宇天皇三山歌」<中大兄(なかのおほえ)近江宮に天の下しらしめす天皇の三山の歌>である。

そして、反歌二首(十四、十五歌)がある。

 

反歌もみていこう。

 

◆高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良

      (中大兄皇子 巻一 十四)

 

≪書き下し≫香具山と耳成山と闘(あ)ひし時立ちて見に来(こ)し印南国原(いなみくにはら)

 

(訳)香具山と耳成山とが妻争いをした時、阿菩大神(あぼのおおみかみ)がみこしをあげて見にやって来たという地だ、この印南国原は。

 

◆渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曽

      (中大兄皇子 巻一 十五)

 

≪書き下し≫海神(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)さし今夜(こよい)の月夜(つくよ)さやけくありこそ

 

(訳)海神(わたつみ)のたなびかしたまう豊旗雲(とよはたくも)に、今しも入日(いりひ)がさしている。おお、今宵の月世界は、まさしくさわやかであるぞ。

(注)わたつみ【海神】名詞:①海の神。②海。海原。 ⇒参考:「海(わた)つ霊(み)」の意。「つ」は「の」の意の上代の格助詞。後に「わだつみ」とも。(学研)ここでは②の意

(注)とよはたくも【豊旗雲】:旗のようにたなびく美しい雲。

(注)入日さし:彼方に入り隠れる日が最後の光を強くさし放っている。現在の情景を述べる中止法。(伊藤脚注)

(注の注)【中止法】:日本語の表現法の一。「昼働き、夜学ぶ」の「働き」や、「冬暖かく、夏涼しい」の「暖かく」などのように述語となっている用言を連用形によっていったん切り、あとへ続ける方法。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)こそ 終助詞:《接続》動詞の連用形に付く。〔他に対する願望〕…てほしい。…てくれ。 ※上代語。助動詞「こす」の命令形とする説もある。(学研)

(注の注)ここの「こそ」は断定の終助詞。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首歌今案不似反歌也 但舊本以此歌載於反歌 故今猶載此次亦紀日 天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子」<右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。ただし、旧本、この歌をもちて反歌に載(の)す。この故(ゆゑ)に、今もなほこの次(つぎて)に載す。また、紀には「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)の四年乙巳(きのとみ)に、天皇を立てて皇太子(ひつぎのみこ)となす」といふ>である。

(注)右の一首:通過する地をほめる前二首(十三、十四歌)に対し、航行の安全のために月明を予祝した歌。額田王斉明天皇に代わって中大兄の前二首に和したものか。(伊藤脚注)

(注)旧本:巻一の原本。(伊藤脚注)

(注)天豊財重日足姫天皇斉明天皇の名 

(注)先の四年:皇極天皇の四年(645年)

(注の注)皇極天皇(第35代:在位642~645年)は重祚して斉明天皇(第37代在位655~661年)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―そのうたの風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉の大和路」 犬養 孝/文・入江泰吉/写真 (旺文社文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

 

※20220828朝食関連記事削除、一部改訂

令和元年スタート! 万葉歌碑を訪ねて(その63改)―奈良県桜井市桧原井寺池畔―万葉集 巻七 一一一八

令和元年五月一日である。

新たな気持ちで万葉集に取り組んでいくつもりである。

 

 

●歌は、「いにしへにありけむ人もわが如か三輪の桧原にかざし折りけむ」である。

 

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奈良県桜井市井寺池畔万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良県桜井市桧原井寺池畔にある。 

 

●歌をみていこう。

 

◆古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜原尓 挿頭折兼

                 (柿本人麻呂 巻七 一一一八)

 

≪書き下し≫いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の檜原にかざし折けむ

(訳)遠く過ぎ去った時代にここを訪れた人も、われわれのように、三輪の檜原(ひはら)で檜の枝葉を手折って挿頭(かざし)にさしたことであろうか。(伊藤 博著「萬葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)かざし折けむ:生命力を身につけるため、檜の枝を髪にさしたであろうか。

(注の注)かざし【挿頭】名詞:花やその枝、のちには造花を、頭髪や冠などに挿すこと。また、その挿したもの。髪飾り。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 古代の人は、成長する植物に威大な生命力を感じ、呪力がこもっていると信じていた。祭りなどに参加する人たちは、精進潔斎し、種々の植物の挿頭(黄葉・梅・萩・あざさ・桜・柳・藤など)、蘰(菖蒲草・青柳・桜・稲穂・橘なそ)をつけて参加した。

 

 序詞は「詠葉」である。

 

 桜井市のHPの「万葉歌碑めぐり」をみると、井寺池畔に歌碑が5つある。

 桧原神社から西にだらだらと、大和盆地の景観を眺めながら、10分ほど坂を下っていくと井寺(いでら)池がある。池は二つに分かれ、井寺上池・井寺下池と呼ばれている。

 桜井市観光協会HPによると、「 井寺池そのものの歴史はよくわかっていませんが、大三輪町史によると井寺という名前からもわかるように元々このあたりにお寺があって、下池の北東の瓦片が散在する場所が井寺跡ではないかといわれています。また「箸中名所実記」という古書には井照寺という寺の記載があり関連が注目されます。 」とある。

 

 

 

 井寺池の上池と下池を分かつ堤の中ほどに、古事記の倭建命の歌碑がある。

「大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和し美し」

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奈良県桜井市桧原井寺池畔古事記歌碑(倭建命)

(訳)大和は国の中で一番良いところである。幾重にもかさなりあった青い垣根のような山やまにかこまれた大和はほんとうにうるわしいところであります。(桜井市HPより)

 

 檜原神社へは、国道169号線を南下、巻野内交差点を左折、県道50号線(大和高田桜井線)を東へ進む。4kmほど行ったところで纏向川と交差する。そこを過ぎてすぐのところに三叉路がある。「笠山荒神・左矢印」と「檜原神社・右矢印」の案内板がある。右斜め後ろ方向に曲がり山の辺の道を進む。5分ほどで檜原神社が見えてくる。神社沿いに進み、神社の正面を右折、左側に「桧原お御休処」がある。その先の右側に駐車場がある。

檜原神社正面から西側は二上山が遠望できる絶景ポイントである。

倭建命の歌碑の所からの景色も同様である。

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倭建命の歌碑付近からの二上山遠望

 檜原神社大神神社の摂社である。

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檜原神社からの帰途大神神社の大鳥居をみる

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「桜井市観光協会HP」

 

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