万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その61改,62改)―春日大社北参道沿い―万葉集 巻八 一五三七、一五三八

―その61―

 

●歌は、「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花」である。

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春日大社境内万葉歌碑(山上憶良)<七種の花>

●歌碑は、春日大社北参道沿いにある。

 

●歌をみていこう。

 

◆秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花  其一

                  (山上憶良 巻八 一五三七)

 

≪書き下し≫秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)の花  その一

 

(訳)秋の野に咲いている花、その花を、いいか、こうやって指(および)を折って数えてみると、七種の花、そら、七種の花があるんだぞ。(伊藤 博著「萬葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 

 

 

―その62― 

●歌は、「萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花」である。

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春日大社境内万葉歌碑(山上憶良)<朝顔の花>

 ●歌碑は、その61の歌碑とほぼ並んで、春日大社北参道沿いにある。

 

◆芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝顔之花  其二

                  (山上憶良 巻八 一五三八)

      ※「朝顔」と「顔」の字を用いているが、「白の下に八」であるが、

        漢字が見当たらなかったため「顔」としている。

 

≪書き下し≫萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花  その二

 

(訳)一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこの花、うんさよう、五つにおみなえし。ほら、それにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。(伊藤 博著「萬葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 

 一五三七歌に「其一」、一五三八歌に「其二」となっているのは、組歌で一つの内容をなす謡いものであることを示している。

 

 春日大社万葉植物園と参道の歌碑を巡ったのは4月16日であった。

 平城宮跡歴史公園の朱雀門ひろばにある駐車場(交通ターミナル)に車を止め、ぐるっとバスを利用する。大宮通りルートである。「奈良春日野フォーラム甍前」で降りる。(100円/人)

 平日であるが、観光立国を目指すだけあって、ぐるっとバスも海外勢の実効支配下に。

バスの中から北参道にある小さな歌碑が二つ確認できた。バスを降りて歩き出すと、またしても海外勢の団体が。鹿はかしこく海外からの来客に丁寧に頭を下げている。

歌碑めぐりを終え、帰りのバス停へと向かう。先に二人が待っていた。日本語だ!ほっとする。

 ぐるっとバスで、平城宮跡歴史公園に戻る。ここは以前とはかなり様相が異なっている。駐車場が整備され、食事処(天平うまし館)、土産物処(天平みつき館)ができている。まえは、遣唐使展示船がアスファルトのうえにあったが、船は水に浮かぶ形に変わっていた。しかも船べりと水面のところに煙幕がはられている。こうも変わるんだ。

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遣唐使展示船


 もっとも、以前は駐車料金は無料であったが、時間制(200円/時間)に変わっていた。天平みつき館あるいは天平うまし館を利用すれば、一時間分が無料になる。

みつき館で大判の三笠焼を買って帰ったのであった。

 

この記事を書いているのは、平成31年4月30日である、

明日からは、「令和」である。

平成最後の日に田尻の海洋釣堀に行ってきたのである。

万葉集関連以外の記事は削除するなど順次改訂していますが、平成最後の日の釣行なのでご容赦ください。万葉集に関わる元号「令和」を迎える記念すべき日の行事なので。)

 

●海洋釣堀

 小筏を借り切り、親子3代で攻める。エサは、練餌、イワシ、キビナゴ、シラサエビ、青虫である。釣果は4人で17尾。内訳は、鯛12尾、シマアジ3尾、イサギ1尾、石鯛1尾であった。中でも圧巻は石鯛(エサは青虫)、刺身にしたが、半端じゃないうまさであった。

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釣り開始前の海上釣堀

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大漁!!

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石鯛

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「国営平城宮跡歴史公園HP」

★「万葉ゆかりの地を訪ねて~万葉歌碑めぐり~」(奈良市HP)

 

※20210511朝食関連記事削除、一部改訂。

万葉歌碑を訪ねて(その59改、60改)―奈良県桜井市金屋、春日大社神苑 萬葉植物園―万葉集 巻十二 三一〇一

―その59,60―

●歌は、「紫は灰刺すものぞ海石榴市の八十の衢に逢へる児や誰」である。

 

●歌碑は、奈良県桜井市金屋 海拓榴市観音に通ずる道の三叉路にある。

 

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奈良県桜井市金屋 海拓榴市観音に通ずる道の三叉路の万葉歌碑

●同歌の歌碑が、奈良市春日野町 春日大社神苑 萬葉植物園内にもある。

 なお、この歌碑には、問答歌である三一〇一、三一〇二が刻されている。

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奈良市春日野町 春日大社神苑 萬葉植物園内万葉歌碑

歌をみていこう。

 

◆紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十衢尓 相兒哉誰

                  (作者未詳 巻十二 三一〇一)

 

≪書き下し≫紫(むらさき)は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばきち)の八十(

やそ)の衢(ちまた)に逢(あ)へる子や誰(た)れ

 

(訳)紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢(ちまた)で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)

 

 「問答歌」であり、この歌と次の歌がセットになっている。

◆足千根乃 母之召名乎 雖白 路行人乎 孰跡知而可

                  (作者未詳 巻十二 三一〇二)

 

≪書き下し≫たらちねの母が呼ぶ名を申(まを)さめど道行く人を誰と知りてか

 

(訳)母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申し上げたらよいのでしょうか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)

 

 桜井市金屋の海拓榴市観音に通ずる道の三叉路にある歌碑の隣に、東海自然歩道の立て看板があり、「海拓榴市」について説明がしてある。「ここ金屋のあたりは古代の市海拓榴市があったところです。そのころは三輪・石上を経て奈良への山の辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥地方への磐余(いわれ)の道・大阪河内和泉から竹ノ内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便もあり大いににぎわいました。春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣(うたがき)は有名です。後には伊勢・長谷詣が盛んになるにつれて宿場町として栄えました」とある。

 この場所から、約200m南には大和川がある。大和川は大阪湾にそそいでおり、説明にある大阪難波からの舟の便もここを通っていたのであろう。

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大和川にかかる「うまいで橋」

●大和には古道の衢(ちまた)に海拓榴市(つばいち)や軽市(かるいち)が生まれた。都城の成立に伴い官市も設けられた。

 平城京には東市と西市があった。

 東市については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その23改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

東(ひみかしの) 市之殖木乃(いちのうえきの) 木足左右(こだるまで) 不相久美(あはずひさしみ) 宇倍戀尓家利(うべこひにけり)

                    (門部王 巻三 三一〇)

 

ちなみに、西市に関しては、西の市で勝手に吟味もしないで買った絹は失敗だったという嘆きの歌がある。

 

西の市にただひとり出(い)でて目並(めなら)べず買ひてし絹の商(あき)じこりかも                   (作者未詳 巻七 一二六四)

 

 

 

 

 

 昭和7年開園。約300種の萬葉植物を植栽する、我国で最も古い萬葉植物園である。園内は、約9,000坪であり、「萬葉園・五穀の里・椿園・藤の園」に大きく分けられている。

 万葉ゆかりの植物の前に、説明碑(植物の萬葉名、現代名、学名、植物の解説)とその植物ゆかりの万葉集の歌が展示されている。

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萬葉植物園案内碑

 

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万葉ゆかりの植物の説明と歌

 

(参考資料)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「万葉の大和路」 犬養 孝 文・入江泰吉 写真 (旺文社文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「春日大社 神苑 萬葉植物園 パンフレット」

 

万葉歌碑を訪ねて(その58改)―奈良県天理市中山町長岳寺北山の辺の道沿い―万葉集 巻二 二一二

万葉歌碑を訪ねて―その58―

●歌は、「衾ぢを引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし」である。

 「泣血哀慟歌」と呼ばれる歌群の中の短歌である。

 

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奈良県天理市中山町山の辺の道沿い万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良県天理市中山町長岳寺北山の辺の道沿いにある。

 

●歌をみていこう。

 

◆衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑往者 生跡毛無

          (柿本人麻呂 巻二 二一二)

 

≪書き下し≫衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)行けば生けりともなし

(訳)衾道よ、その引手の山にあの子を置き去りにして、山道をたどると、生きているとも思えない。

(注)ふすまぢを【衾道を】:地名「引手の山」にかかる枕詞。

     「衾道」を地名と見なし、これを枕詞としない説もある。(goo辞書)

 

 この歌は、題詞「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首幷短歌」(柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟(きふけつあいどう)して作る歌二首幷(あは)せて短歌)とあり、二群の長反歌になっているうちの一首である。「二〇七(長歌)、二〇八、二〇九(反歌)」と「二一〇(長歌)、二一一、二一二(反歌)」の二群である。さらに「或本の歌に日はく」とあり、長歌一首と短歌三首が収録されている。

 

 柿本人麻呂が活躍したのは、天武・持統・文武の三代である。

天武朝における人麻呂の作歌活動は、万葉集の中に収められている「柿本朝臣人麻呂歌集によって知られる。短歌・旋頭歌・長歌計三百六十余首を含むという。

口誦から記載への過渡期であることから、この人麻呂歌集が万葉集に与えた影響は計り知れないという。

また、歌の作り方というか作詩法が前代と著しく異なっている。たとえば、枕詞の多用であるといわれる。口誦の形式を利用しながら、あらたにそれを詩的に高揚させていることが指摘されている。

 人麻呂は「宮廷歌人」である。「私」の感情で歌をうたうのではなく、「公」の立場でうたうのである。しかし、この歌碑にある反歌を含む歌群は、妻の死を悲しむことを歌いうることを示したということが万葉集に対し大きなインパクトを与えたと考えられている。

 神野志隆光氏は「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」のなかで、「妻の死は私的なものです。それを歌にするとはどういうことか。伊藤博『歌俳優の哀歌』(塙書房)が、『この二首の文体は、終始、他人を意識し他人に語りかけたような表現を採用している』とのべたことが本質を衝いています。伊藤は『歌による私小説とでも称すべき性格』とも言いましたが、いいなおせば、妻の死を歌うことが、他者に示す歌として可能であるものとして実現して見せたということです。」

 このように、「泣血哀慟歌」をも収録していることが、万葉集万葉集たる所以であろう。

 柿本人麻呂歌集の「略体」書記についても、神野志隆光氏は、文字表現の可能性をひらく試みだと指摘されている。これに関しては別の機会に取り上げてみたい。

 

 万葉集における柿本人麻呂の位置づけは計り知れないものがある。これまで人麻呂といえば、「東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」の歌くらいしか頭になかったが、少し万葉集をかじってみると万葉集万葉集たる所以を確固たるものにしている影響力のすごさに驚かされる。まだまだ理解しえないことが多々あるが、一歩、一歩近づいていきたい。

 

 

 国道169号線の中山を東側に折れると、登りの細い道になる。農道を塗装した感じの道である。しばらく行くと、道端に物置らしきものがあり、その前が比較的広くなっているので、そこに車を止め、山の辺の道を頼りに歩いて歌碑を探す。南北の道沿いに杏?の木が植わっており、鮮やかなピンク色の花をつけている。十字路を抜けると、開けた見晴らしの良い場所に出る。道沿いに木の囲いがあり中にテーブルとベンチが備わっている、そこでお年をめしたご婦人が二人お弁当を食べている。

その前に、歌碑がひっそりと建てられていた。

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山の辺の道と歌碑

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と世界」 神野志隆光 著

                     (東京大学出版会

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「goo辞書」

万葉歌碑を訪ねて(その57改)―奈良県天理市新泉町の大和神社―万葉集 巻五 八九四~八九六

●歌は、「好去好来歌一首反歌二首」である。

 

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奈良県天理市新泉町大和神社境内万葉歌碑(山上憶良

●歌碑は、奈良県天理市新泉町の大和神社にある。

 

長歌ならびに反歌二首をみてみよう。
 

 題詞は、「好去好來(かうきよかうらい)歌一首反歌二首」である。

 

 ◆神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理 今世能 人母許等期等 目前尓 見在知在 人佐播尓 満弖播阿礼等母 高光 日御朝庭 神奈我良 愛能盛尓 天下 奏多麻比志 家子等 撰多麻比天 勅旨<反云大命> 載持弖 唐能 遠境尓 都加播佐礼 麻加利伊麻勢 宇奈原能 邊尓母奥尓母 神豆麻利 宇志播吉伊麻須 諸能 大御神等 船舳尓 <反云布奈能閇尓> 道引麻志遠 天地能 大御神等 倭 大國霊 久堅能 阿麻能見虚喩 阿麻賀氣利 見渡多麻比 事畢 還日者 又更 大御神等 船舳尓 御手行掛弖 墨縄遠 播倍多留期等久 阿遅可遠志 智可能岫欲利 大伴 御津濱備尓 多太泊尓 美船播将泊 都々美無久 佐伎久伊麻志弖 速歸坐勢

           (山上憶良 巻五 八九四)

 

≪書き下し≫神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の大朝廷(おほみかど) 神(かむ)ながら 愛(め)での盛りに 天(あめ)の下(した) 奏(まを)したまひし 家の子と 選ひたまひて 勅旨(おほみこと)<反(かへ)して「大命」といふ> 戴き持ちて 唐国(からくに)の 遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海(うみ)原の 辺(へ)にも沖にも 神(かひ)づまり うしはきいます もろもろの 大御神(おほみかみ)たち 船舳(ふなのへ)に<反して「ふなのへに」といふ> 導きまをし 天地(あめつち)の 大御神たち 大和の 大国御魂(おほくにみたま) ひさかたの 天(あま)のみ空ゆ 天翔(あまがけ)り 見わたしたまひ 事終(をは)り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船舳(ふなのへ)に 御手(みて)うち懸けて

墨縄(すみなは)を 延(は)へたるごとく あぢかをし 値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津(みつ)の浜びに 直(ただ)泊てに 御船は泊てむ 障(つつ)みなく 幸(さき)くいまして 早(はや)帰りませ

 

(訳)神代の昔から言い伝えて来たことがある。この大和の国は、皇祖の神の御霊(みたま)の尊敬極まりない国、言霊(ことだま)が幸いをもたらす国と、語り継ぎ言い継いで来た。このことは今の世の人も悉く目のあたりに見、かつ知っている。大和の国には人がいっぱい満ち満ちているけれども、その中から、畏(かしこ)くも日の御子天皇(すめらのみこと)の、とりわけ盛んな御愛顧のままに、天下の政治をお執りになった名だたるお家の子としてお取立てになったので、あなたは勅旨(おおみこと)を奉じて、大唐の遠い境に差し向けられて御出発になる。ご出発になると、岸にも沖にも鎮座して大海原を支配しておられるもろもろの大御神たちは、御船の舳先に立ってお導き申し、天地の大御神たち、中でも大和の大国魂の神は、天空をくまなく駆けめぐってお見わたしになり、使命を終えてお帰りになる日には、再び大御神たちが御船の舳先に御手を懸けてお引きになり、墨縄をぴんと張ったように、値嘉岬から大伴の御津の浜辺に、真一文字に御船は到着するであろう。障りなく無事においでになって、一刻も早くお帰りくださいませ。(伊藤 博著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)そらみつ:枕詞。「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。

        「そらにみつ」とも。

(注)さきはふ【幸ふ】:自動詞➡幸福になる。栄える。 

他動詞➡幸福を与える。栄えさせる。

(注)さはに【多に】:たくさん。

(注)かむづまる【神づまる】:神としてとどまる。鎮座する。

(注)うしはく【領久】:支配する。領有する。

(注)あぢかをし:値嘉の枕詞か

(注)値嘉の崎(美祢良久の崎=三井楽)

    「好去好來に歌」は、第九次遣唐大使多治比真人広成に山上憶良が贈った

    「つつがなく無事に出発されて、早くお帰り下さい」という送別の歌である。

    「値嘉」は平戸から五島列島にかけてを指し、「値嘉の崎」は遣唐使の寄港

    地であった三井楽を指すといわれる。

       (平成21年度第3回長崎ゆかりの文学企画展)

          資料「長崎と古典文学~万葉集から去来まで~」より)

 

 反歌

◆大伴 御津松原 可吉掃弖 和礼立待 速歸坐勢

       (山上憶良 巻五 八九五)

 

≪書き下し≫大伴の御津(みつ)の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早(はや)帰りませ          

 

(訳)大伴の御津の松原を掃き清めては、私どもはひたすらお待ちしましょう。早くお帰り下さいませ。(伊藤 博著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 
◆難波津尓 美船泊農等 吉許延許婆 紐解佐氣弖 多知婆志利勢武

       (山上憶良 巻五 八九六)


≪書き下し≫難波津に御船泊(は)てぬと聞こえ来(こ)ば紐解き放(さ)けて立ち走りせむ

 

(訳)難波津に御船が着いたとわかりましたなら、うれしさのあまり私は帯紐を解き放したままで、何はさておき躍り上がって喜ぶことでしょう。(伊藤 博著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「天平五年三月一日良宅對面獻三日 山上憶良謹上 大唐大使卿記室」<天平五年の三月の一日に、良が宅にして対面す。献(たてまつ)るは三日なり。 山上憶良謹上   大唐大使卿(だいたうたいしのまへつきみ)記室>である。

 

 大和神社は、HPによると、日本最古の神社で、御祭神は日本大國魂(やまとおおくにたま)大神。奈良時代、朝廷の命により、唐の国へ渡って学ぶ唐遣使が、出発に際して、同神社に参詣し、交通安全を祈願したとある。

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大和神社鳥居と神社碑

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大和神社拝殿

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞書」

★「『平成21年度第3回長崎ゆかりの文学企画展』資料

          『長崎と古典文学~万葉集から去来まで~』」

★「大和神社HP」

 

※20211023朝食関連記事削除、一部改訂

万葉歌碑を訪ねて(その55改、56改)―天理市西長柄町長柄運動公園、山辺御縣坐神社

奈良公園大神神社に出かける時、なら山大通りを進み、奈良阪町北を右折し旧ドリームランド前を通るが、右折して次の信号の手前に、バス停「奈保山御陵」がある。この道の東側に奈保山東陵(なほやまひがしのみささぎ)がある。元明天皇の陵である。ちなみに奈保山西陵は、元正(げんしょう)天皇の陵である。第四三代、四四代と続いた女帝の陵が、奈保山東陵、奈保山西陵である。

 

●万葉歌碑を訪ねて―その55、56―                                         

「飛ぶ鳥明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ」

 

この歌碑は、天理市西長柄町長柄運動公園にある。

 

 

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天理市西長柄町長柄運動公園万葉歌碑(元明天皇

 また、山辺御縣坐神社(やまべみあがたいます神社)にもこの歌の歌碑がある。

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山辺御縣坐神社万葉歌碑(元明天皇

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山辺御縣坐神社鳥居と神社碑

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山辺御縣坐神社社殿

歌をみていこう。

 

◆飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武

                 (元明天皇 巻一 七八)

≪書き下し≫飛ぶ鳥 明日香の里を置きて去(い)なば 君があたりは見えずかもあらむ 

(訳)飛ぶ鳥鎮め給う明日香の里よ、この里をあとにして行ってしまったなら、君のいらっしゃるあたりは、見えなくなってしまうのではなかろうか。<大切な君のいらっしゃるあたりなのに、ここをもう見ないで過ごすことになるというのか>(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)とぶとりの【飛ぶ鳥の】枕詞:①地名の「あすか(明日香)」にかかる。

                 ②飛ぶ鳥が速いことから、「早く」にかかる。

 

題詞は、「和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧楽宮時御輿停長屋原廻望古郷作歌 一書云太上天皇御製」

≪書き下し≫和銅三年庚戌(かのえいぬ)の春の二月に、藤原の宮より寧楽(なら)の宮に遷(うつ)る時に、御輿(みこし)を長屋原(ながやのはら)に停(とど)め、古郷(ふるさと)を廻望(かへりみ)て作らす歌 一書には太上天皇御製といふ

 

(注)長屋原:天理市南部。藤原・平城両京の東京極を結ぶ中つ道の中間。

   ここで旧都への手向けの礼が行われた。

 

左注は、「一云君之當乎不見而香毛安良牟」

 

 第 43代の天皇 (在位 707~715) 。奈良朝第1代の女帝。名は阿閇 (あべ) 。天智天皇の第4皇女。母は蘇我姪娘 (そがのめいいらつめ) 。天武天皇の皇太子草壁皇子の妃となり氷高皇女 (→元正天皇) ,軽皇子 (→文武天皇 ) を産んだ。草壁皇子文武天皇が夭折し,その皇子 (のちの聖武天皇) が幼少であったため即位した。おもな事績は,和銅1 (708) 年の和同開珎の鋳造、同3年の平城京遷都,同5年の『古事記』,および翌年の風土記の編纂などである。霊亀1 (715) 年,位を氷高皇女に譲る。陵墓は奈良市奈良坂町の奈保山東陵。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

(注)氷高皇女:ひたかのひめみこ

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」

★「Weblio古語辞書」

 

※20240306朝食記事削除一部改訂

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その54改)―石上神宮外苑―万葉集 巻十 一九二七

●歌は、「石上布留の神杉神びにし我れやさらさら恋にあひにける」である。

 

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石上神宮外苑万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、石上神宮外苑にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆石上 振乃神杉 神備西 吾八更ゝ 戀尓相尓家留

                 (作者未詳 巻十 一九二七)

 

≪書き下し≫石上(いそのかみ)布留(ふる)の神杉(かむすぎ)神(かむ)びにし我(あ)れやさらさら恋にあひにける

 

(訳)石上の布留の社の年経た神杉ではないが、老いさらばえてしまった私が、今また改めて、恋の奴にとっつかまってしまいました。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)石上布留の神杉:奈良県天理市石上神宮一帯。上二句は序。「神びにし」を起す。(伊藤脚注)

(注)神びにし:下との関係では年老いるの意。(伊藤脚注)

(注)さらさら【更更】副詞:①ますます。改めて。②〔打消や禁止の語を伴って〕決して。(学研)ここでは①の意

 

●「石上」は、奈良県天理市石上付近に布留の地が属して「石の上布留」と並べて呼ばれたことから、布留と同音の「古(ふ)る」「振る」などにかかる枕詞として使われている。ちなみに石上神宮奈良県天理市布留町384にある。

 天理市の万葉歌碑には、「石上 振る」の歌い出しの歌が多いのでどのくらいあるのかと万葉集を繰ってみた。全部で8首が収録されていた。しかし、うち1首は、地名の石上でなく、人名であった。左大臣石上麻呂の第三子の石上乙麻呂が女性問題で土佐に流されたときに作られた歌である。 石上氏の卿であるから、「石上 振乃尊(みこと)」と詠ったのである。

 

◆石上 振乃山有 杉村乃 思過倍吉 君尓有名國  

         (丹生王 巻三 四二二)

 

≪書き下し≫)石上 布留の山なる 杉群(すぎむら)の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに

 

(訳)石上の布留の山にある杉の木の群れ、その杉のように、私の思いから過ぎ去って忘れてしまえるお方ではけっしてないのに。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

◆石上 零十方雨二 将關哉 妹似相武登 言義之鬼尾 

        (大伴宿祢像見 巻四 六六四)

 

≪書き下し≫石上 降るとも雨に つつまめや 妹に逢はむと 言ひてしものを

 

(訳)石上の布留というではないが、いくら降りに降っても、雨などに閉じこめられていられるものか。あの子に逢おうと言ってやったんだもの。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)つつむ【恙む・障む】:障害にあう。差し障る。病気になる。

 

◆石上 振之早田乎 雖不秀 縄谷延与 守乍将居 

       (作者未詳 巻七 一三五三)

  

 一三五三歌は、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その52改)」で紹介している。

 ➡ 

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◆石上 振乃早田乃 穂尓波不出 心中尓 戀流比日

               (抜気大首 巻九 一七六八)

 

≪書き下し≫石上(いそのかみ)布留(ふる)の早稲田(わさだ)の穂(ほ)には出(い)でず心のうちに恋ふるこのころ

 

(訳)石上の布留の早稲田の稲が他にさきがけて穂を出す、そんなように軽々しく表に出さないようにして、心の中で恋い焦がれているこのごろだ。(同上)

(注)いそのかみ【石の上】分類枕詞:今の奈良県天理市石上付近。ここに布留(ふる)の地が属して「石の上布留」と並べて呼ばれたことから、布留と同音の「古(ふ)る」「降る」などにかかる。「いそのかみ古き都」(学研)

(注)上二句は序。「穂に出づ」を越す。

 

 

◆石上 振神杉 神成 戀我 更為鴨 

      (作者未詳 巻十一 二四一七)

 

≪書き下し≫石上 布留の神杉(かむすぎ) 神さびて 恋をも我(あ)れは さらにするかも

 

(訳)石上の布留の年古りた神杉、その神杉のように古めかしいこの年になって、私はあらためて苦しい恋に陥っている。

 

◆石上 振之高橋 高ゝ尓 妹之将待 夜曽深去家留 

        (作者未詳 巻十二 二九九七)

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その51改)」で紹介している。

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 次の歌は、歌い出しは「石上 振乃」であるが、題詞にあるように「石上乙麻呂卿(いそのかみおとまろのまへつきみ) 土佐の国に配(なが)さゆる時の歌三首」とあり、石上布留の殿様が女性問題で土佐に流されたことを物語風に仕立てたものである。

 

◆石上 振乃尊者 弱女乃 或尓縁而 馬自物 縄取附 肉自物 笑圍而 王 命恐 

天離 夷部尓退 古衣 又打山従 還來奴香聞 

        (作者未詳 巻六 一〇一九)

 

≪書き下し≫石上 布留の命(みこと)は、たわや女(め)の 惑(まど)ひによりて 馬じもの 綱取り付け 鹿じもの 弓矢囲みて 大君の 命(みこと)畏(かしこ)み 天離(あまざか)る 鄙(ひな)辺に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土山(まつちやま) より 帰り來ぬかも

 

(訳))石上布留の命は、たわやかな女子(おなご)の色香に迷ったために、まるで、馬であるかのように縄をかけられ、鹿であるかのように弓矢で囲まれて、大君のお咎めを恐れ畏んで遠い田舎に流されていく。古衣をまた打つという真土山、その国境の山から、引き返してこないものだろうか。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 (注)まつちやま【真土山/待乳山】:奈良県五條市和歌山県橋本市との境にある山。吉野川(紀ノ川)北岸にある。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク

 

※20111116朝食関連記事削除、一部改訂。

※20230407一部改訂

万葉歌碑を訪ねて(その53改)―奈良県天理市櫟本町和爾下神社―万葉集 巻十六 三八二四

●歌は、「さす鍋に湯沸かせ子ども櫟津の檜橋より来む狐に浴むさむ」である。

 

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奈良県天理市櫟本町和爾下神社境内万葉歌碑(長忌寸意吉麻呂)

●この歌碑は、奈良県天理市櫟本町和爾下(わにした)神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 檜橋従来許武 狐尓安牟佐武

                  (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二四)

 

≪書き下し≫さし鍋(なべ)に湯沸(わ)かせ子ども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来(こ)む狐(きつね)に浴(あ)むさむ

 

 

(訳)さし鍋の中に湯を沸かせよ、ご一同。櫟津(いちいつ)の檜橋(ひばし)を渡って、コムコムとやって来る狐に浴びせてやるのだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)さすなべ【(銚子)】:柄と注口(つぎぐち)のついた鍋、さしなべ。(weblio辞書)

(注)長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ):持統・文武朝の歌人。物名歌の名人。

 

 題詞は、「長忌寸意吉麻呂歌八首」とある。(三八二四~三八三一)

左注は、「右一首傳云 一時衆集宴飲也 於時夜漏三更 所聞狐聲 尓乃衆諸誘奥麻呂曰關此饌具雜器狐聲河橋等物 但作謌者 即應聲作此謌也」<右の一首は、伝へて云はく、ある時、衆(もろもろ)集(つど)ひて宴飲す。時に、夜漏三更(やらうさんかう)にして、狐の声聞こゆ。すなはち、衆諸(もろひと)意吉麻呂(おきまろ)を誘(いざな)ひて曰はく、この饌具、雜器、(ざうき)狐聲(こせい)河橋(かけう)等の物の関(か)けて、ただに歌を作れ といへれば、すなはち、声に応へてこの歌を作るといふ>

 

(注)やろう【夜漏】:夜の時刻をはかる水時計。転じて、夜の時刻。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)さんかう【三更】名詞:時刻の名。「五更(ごかう)」の第三。午後十二時。また、それを中心とする二時間。「丙夜(へいや)」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 このような事物の名を歌の意味とは無関係に詠み込んだ遊戯的な和歌のことを物名歌という。

 

 

 八首の中から他の二つをあげてみる。

 

◆一二之目(いちにのめ) 耳不有(のみにはあらず) 五六三(ごろくさむ) 四佐倍有来(しさへありける) 雙六乃佐叡(すぐろくのさえ)

                  (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二七)

 

(訳)一、二の黒目だけじゃない。五、六の黒目、三と四の赤目さえあったわい。双六の賽ころには。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

◆玉掃(たまばはき) 苅来鎌麻呂(かりこかままろ) 室乃樹(むろのきと) 與棗本(なつめがもとと) 可吉将掃為(かきはかむため)

                   (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八三〇)

 

(訳)鎌麿よ、玉掃を刈り取って来なさい。むろの木と棗の木の下を掃こうと思うから。

 

 この歌については、「ザ・モーニングセット190213(万葉の小径シリーズ―その35なつめ)」で取り上げている。

「(前略)それにしても風変わりな歌である。確かに刈り来(カリコ)鎌麿(カママロ)かき掃かむ(カキハカム)には、カ音のリズムはあるけれど、歌の内容は何もなく、ただ命令口調で伝えているだけの歌に過ぎない実はこの歌には条件がついていて、「玉掃、鎌、天木香、棗」を詠むことを指示され、この互いに無関係の四つのものを、ある関連をつけて即座に歌うのが条件であった。長意吉麿(ながのおきまろ)は、鎌を人名の鎌麿とし、玉掃の枝を鎌という名を持つ男に刈り取ってくるように命じ、それで作った箒(ほうき)で、天木香(むろ)と棗の木の下を掃こうと歌ったのである。その点では意味が一応通っており、リズム感もある即興歌と言えよう。作者長意吉麿は、正しくは長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)といい、忌寸(いみき)という姓から渡来系の人と見られ、実に手慣れた歌人である。」(万葉の小径歌碑 なつめ)

 

  • 物名歌(ぶつめいか)

和歌の分類の一つ。「もののな」の歌、隠題(かくしだい) の歌ともいう。事物の名を歌の意味とは無関係に詠み込んだ遊戯的な和歌。動植物名,地名,食品名などが多い。物名は1つに限らず,十二支を2首の歌に詠み入れた例 (「拾遺集」) もあり,また「をみなへし」を折句にした例 (「古今集」) など特異なものもある。その萌芽は『万葉集』巻十六の長忌寸意吉麻呂 (ながのいみきおきまろ) の歌にみられる。(中略)

また『古今集』『拾遺集』『千載集』には「物名」の部立が設けられた。鎌倉時代以降は衰えた。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 )

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書」

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典」

 

※210701朝食関連記事削除、一部改訂