―その59,60―
●歌は、「紫は灰刺すものぞ海石榴市の八十の衢に逢へる児や誰」である。
●歌碑は、奈良県桜井市金屋 海拓榴市観音に通ずる道の三叉路にある。
●同歌の歌碑が、奈良市春日野町 春日大社神苑 萬葉植物園内にもある。
なお、この歌碑には、問答歌である三一〇一、三一〇二が刻されている。
歌をみていこう。
◆紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十衢尓 相兒哉誰
(作者未詳 巻十二 三一〇一)
≪書き下し≫紫(むらさき)は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばきち)の八十(
やそ)の衢(ちまた)に逢(あ)へる子や誰(た)れ
(訳)紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢(ちまた)で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
「問答歌」であり、この歌と次の歌がセットになっている。
◆足千根乃 母之召名乎 雖白 路行人乎 孰跡知而可
(作者未詳 巻十二 三一〇二)
≪書き下し≫たらちねの母が呼ぶ名を申(まを)さめど道行く人を誰と知りてか
(訳)母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申し上げたらよいのでしょうか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
桜井市金屋の海拓榴市観音に通ずる道の三叉路にある歌碑の隣に、東海自然歩道の立て看板があり、「海拓榴市」について説明がしてある。「ここ金屋のあたりは古代の市海拓榴市があったところです。そのころは三輪・石上を経て奈良への山の辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥地方への磐余(いわれ)の道・大阪河内和泉から竹ノ内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便もあり大いににぎわいました。春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣(うたがき)は有名です。後には伊勢・長谷詣が盛んになるにつれて宿場町として栄えました」とある。
この場所から、約200m南には大和川がある。大和川は大阪湾にそそいでおり、説明にある大阪難波からの舟の便もここを通っていたのであろう。
●大和には古道の衢(ちまた)に海拓榴市(つばいち)や軽市(かるいち)が生まれた。都城の成立に伴い官市も設けられた。
平城京には東市と西市があった。
東市については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その23改)」で紹介している。
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東(ひみかしの) 市之殖木乃(いちのうえきの) 木足左右(こだるまで) 不相久美(あはずひさしみ) 宇倍戀尓家利(うべこひにけり)
(門部王 巻三 三一〇)
ちなみに、西市に関しては、西の市で勝手に吟味もしないで買った絹は失敗だったという嘆きの歌がある。
西の市にただひとり出(い)でて目並(めなら)べず買ひてし絹の商(あき)じこりかも (作者未詳 巻七 一二六四)
昭和7年開園。約300種の萬葉植物を植栽する、我国で最も古い萬葉植物園である。園内は、約9,000坪であり、「萬葉園・五穀の里・椿園・藤の園」に大きく分けられている。
万葉ゆかりの植物の前に、説明碑(植物の萬葉名、現代名、学名、植物の解説)とその植物ゆかりの万葉集の歌が展示されている。
(参考資料)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「万葉の大和路」 犬養 孝 文・入江泰吉 写真 (旺文社文庫)