万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて―その124の3―万葉の時代に梅が中国から輸入され、当時の貴族たちがこぞって梅を自分の庭に植えたので、宴会などでの歌の素材にもってこいであったのだろう(万葉歌碑を訪ねて―その124の3―)

●梅は万葉集の中で約一二〇首歌われている。桜などに較べて山野の梅が歌われることはまれで、そのほとんどが庭に咲く梅である。飛鳥・藤原の時代には、梅の歌はまず歌われていない。一二〇首もの梅の歌は、そのほとんどが平城京へ遷都して後の歌である。万葉の時代に梅が中国から輸入され、当時の貴族たちがこぞって梅を自分の庭に植えたからであろう。」庭木である梅は、宴会の時などには歌の素材としてもってこいであった。(ブログ拙稿「ザ・モーニングセット190209万葉の小径シリーズーその31うめ」参照)

太宰府天満宮「曲水の園」(イメージ写真)

 

●万葉歌碑を訪ねて―その124の3―

今回も、筑紫歌壇梅花宴の続きの歌(八二二~八二八)をみていこう。

 

 

◆阿乎夜奈義  烏梅等能波奈乎  遠理可射之  能弥弖能々知波  知利奴得母與斯  [笠沙弥]

 

 

≪書き下し≫青柳(あをやなぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬとも良し  [笠沙弥(かさのさみ)]

               (笠沙弥 巻八 八二一)

 

(訳)青柳に梅の花を手折りかざして、相ともに飲んだその後なら、散ってしまってもかまわない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

■笠沙弥:笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)。出家して満誓と号。万葉集には、沙弥満誓、造筑紫観音寺別当(ざうつくしくわんおんじのべつたう)、造筑紫観世音寺別当(ざうつくしくわんぜおんじのべつたう)、満誓沙弥の呼称で九首が収録されている。

 

 

◆和何則能尓  宇米能波奈知流  比佐可多能  阿米欲里由吉能  那何列久流加母  [主人]

               (大伴旅人 巻八 八二二)

 

奈良県橿原市南浦町万葉の森の歌碑の歌であり、「万葉歌碑を訪ねて―その124の1―」でとりあげているので、ここでは省略する。

 

 

◆烏梅能波奈  知良久波伊豆久  志可須我尓  許能紀能夜麻尓  由企波布理都々 

 [大監伴氏百代]

              (伴氏百代 巻八 八二三)

 

≪書き下し≫梅の花散らくはいづくしかすがにこの城(き)の山に雪は降りつつ [大監(だいげん)伴氏百代(ばんじのももよ)]

 

(訳)梅の花が雪のように散るというのはどこなのでしょう。そうは申しますものの、この城の山にはまだ雪が降っています。その散る花はあの雪なのですね。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)城の山:大野山

(注)大監(だいげん):〘名〙 大宰府の判官のうちの上位の二人。正六位下相当。

下に少監がある。

※令義解(718)職員「大監二人。〈掌下糾二判府内一。審二署文案一。

勾二稽失一。察中非違上〉」(コトバンク 精選版日本国語大辞典より)

 

■伴氏百代:大伴宿祢百代(おほとものすくねももよ)。万葉集には、七首収録されている。

 

 

◆烏梅乃波奈  知良麻久怨之美  和我曽乃々  多氣乃波也之尓  于具比須奈久母

  [小監阿氏奥嶋]

              (阿氏奥嶋 巻八 八二四)

 

≪書き下し≫梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林にうぐひす鳴くも [少監(せうげん)阿氏奥嶋(あじのおきしま)]

 

(訳)梅の花の散るのを惜しんで、この我らが園の竹の林で、鴬(うぐいす)がしきりに鳴いている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)少監:〘名〙 令制の官職で、大宰府の第三等官(判官(じょう))のうち下位の職。大監(だいげん)と同じく、治安の監督をし、文書の起草などをつかさどった。定員二名。従六位上に相当。

※令義解(718)職員「少監二人。〈掌同二大監一〉」

 

 

◆烏梅能波奈  佐岐多流曽能々  阿遠夜疑遠  加豆良尓志都々  阿素▼久良佐奈  [小監土氏百村]               ▼「田+比」=び

                (土氏百村 巻八 八二五)

 

≪書き下し≫梅の花咲きたる園の青柳をかづらにしつつ遊び暮らさな  [小監(せうげん)土氏百村(とじのももむら)] 

 

(訳)梅の花の咲いているこの園の青柳、この青柳を縵(かづら)にしながら、今日一日を楽しく遊びくらそうよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

■土氏百村:土師宿祢百村とすれば養老五年(七二一年)退朝の後東宮に侍す。万葉集にはこの歌のみ収録されている。

 

 

◆有知奈▼久  波流能也奈宜等  和我夜度能  烏梅能波奈等遠  伊可尓可和可武   [大典史氏大原]                ▼「田+比」=び

                 (史氏大原 巻八 八二六)

 

≪書き下し≫うち靡(なび)く春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか分(わ)かむ  [大典(だいてん)史氏大原(しじのおほはら)]

 

(訳)しなやかな春の柳とこの我らの庭前の梅の花の趣と、その優劣をそうして分けられようぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)大典:律令制で、大宰府の主典(さかん)で少典の上に位するもの。(コトバンク デジタル大辞泉より)

 

■史氏大原:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆波流佐礼婆  許奴礼我久利弖  宇具比須曽  奈岐弖伊奴奈流  烏梅我志豆延尓  [小典山氏若麻呂]

                 (山氏若麻呂 巻八 八二七)

 

≪書き下し≫春されば木末隠(こぬれがく)りてうぐひすぞ鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづえ)に  [少典(せうてん)山氏若麻呂(さんじのわかまろ)]

 

(訳)春がやってくると、梢がくれに鴬が鳴いては飛び移って行く。枝の下枝あたりに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)少典:律令制で、大宰府の主典(さかん)で大典(たいてん)の下に位するもの。

コトバンク デジタル大辞泉

 

■山氏若麻呂:山口忌寸若麻呂(やまぐちのいみきわかまろ) 万葉集には二首(巻四 五六七・巻八 八二七)が収録されている。

 

 

◆比等期等尓  乎理加射之都ゝ  阿蘇倍等母  伊夜米豆良之岐  烏梅能波奈加母  [大判事丹氏麻呂]

             (丹氏麻呂 巻八 八二八)

 

≪書き下し≫人ことに折りかざしつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも  [大判事(だいはんじ)丹氏麻呂(たんじのまろ)]

 

(訳)人それぞれに手折りかざして賞(め)で遊ぶけれども、ますます心ひかれる花だ、この梅の花は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)大判事:律令制で、刑部(ぎょうぶ)省や大宰府の上級の判事。

中判事の上(コトバンク デジタル大辞泉より)

 

■丹氏麻呂:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 (學燈社

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「 コトバンク デジタル大辞泉

★「コトバンク 精選版日本国語大辞典

 

※20230225朝食関連記事削除、一部改訂

万葉歌碑を訪ねて―その124の2―山上憶良は、大宰府の地で上司である大伴旅人に、「天離(あまざか)る鄙(ひな)に五年(いつとせ)住まひつつみやこのてぶり忘らえにけり」(巻五 八八〇)ならびに「奈良の都に召上(めさ)げたまはね」(同八八二)と都に戻りたいと訴えたのは、現在のサラリーマン社会にも通じる心境である。(万葉歌碑を訪ねて―その124の2―)

 

 「梅花宴」の歌を順次みていく。「八一五~八二〇歌」

 

◆武都紀多知  波流能吉多良婆  可久斯許曽  烏梅乎乎岐都ゝ  多努之岐乎倍米

[大貮紀卿]

 

≪書き下し≫正月(むつき)立ち春の来(き)たらばかくしこそ梅を招きつつ楽(たの)しき終(を)へめ  [大弐(だいに)紀卿(きのまへつきみ)] 

               (紀卿 巻八 八一五)

 

(訳)正月になり春がやってきたなら、毎年このように梅の花を迎えて、楽しみの限りを尽くそう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)大弐(だいに):律令制で、大宰府の次官(すけ)のうち、最上位のもの。権帥(ごんのそち)を欠くときに実務を執った(コトバンク デジタル大辞泉より)

 

■紀卿:万葉集にはこの一首のみ収録されている。未詳。紀朝臣男子か。

 

 

◆烏梅能波奈  伊麻佐家留期等  知利須義受  和我覇能曽能尓  阿利己世奴加毛 [少貳小野大夫]

                 (小野老 巻八 八一六)

 

≪書き下し≫梅の花今咲けるごと散ろ過ぎず我(わ)が家(へ)の園(その)にありこせぬかも  [少弐(せうに)小野大夫(をののまへつきみ)]

 

(訳)梅の花よ、今咲いているように散りすぎることなく、この我らの園にずっと咲き続けてほしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)少弐(せうに):律令制で、大宰府(だざいふ)の次官(すけ)のうち、下位のもの。大弐の下で庶務をつかさどった。のちに世襲となり、氏の名となった。すないすけ。(コトバンク デジタル大辞泉より)

(注)ありこせぬかも:あってくれないかな

 

■小野大夫:小野老朝臣(をののおゆあそみ)。万葉集には三首(巻三 三二八・巻六 九五八)収録されている。「あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり(三二八歌)は、有名。三二八~三三七歌は同じ宴席の歌。小野老の歌に触発され三二九~三三五歌は奈良の都の望郷歌である。

 

 

◆烏梅能波奈  佐吉多流僧能々  阿遠也疑波  可豆良尓須倍久  奈利尓家良受夜  [少貳粟田大夫]

              (粟田大夫 巻八 八一七)

              

≪書き下し≫梅の花咲きたる園の青柳はかづらにすべくなりにけらずや  [少弐粟田大夫(あはたのまへつきみ)]

 

(訳)梅の花の咲き匂うこの園の青柳は美しく芽ぶいて、梅のみならずこれも縵(かずら)にできるほどになったではないか。

(注)かづら:髪飾り。つる草や、やなぎ・ゆり・稲穂などを髪に巻きつけて飾りと

したもの。元来は植物の生命力を我が身に移そうとするまじないで行われた。

         (weblio古語辞典 学研全訳古語辞典より)

 

■粟田大夫:万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武  [筑前守山上大夫]

                (山上大夫 巻八 八一八)

 

≪書き下し≫春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日(はるひ)暮らさむ [筑前守(つくしのみちのくちのかみ)山上大夫(やまのうへのまへつきみ)]

 

(訳)春が来るとまっ先に咲く庭前の梅の花、この花を、ただひとり見ながら長い春の一日を暮らすことであろうか。

 

■山上大夫:筑前国山上憶良 万葉集には多数の歌が収録されている。貧窮問答歌等庶民的歌風。大宰府で望郷の意を込め都に戻りたいと上司である大伴旅人に「敢えて私懐を布(の)ぶる歌」、「天離(あまざか)る鄙(ひな)に五年(いつとせ)住まひつつみやこのてぶり忘らえにけり」(巻五 八八〇)ならびに「奈良の都に召上(めさ)げたまはね」(同八八二)は、現在のサラリーマン社会にも通じる心境である。

 

 

◆余能奈可波 古飛斯宜志恵夜 加久之阿良婆 烏梅能波奈尓母 奈良麻之勿能怨

[豊後守大伴大夫]

            (大伴大夫 巻八 八一九)

 

≪書き下し≫世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを  [豊後守(とよくにのみちのしりのかみ)大伴大夫(おほとものまへつきみ)]

 

(訳)おっしゃるとおり、人の世は恋心が尽きず辛いものです。こんなことなら、いっそ梅の花にでもなりたいものです。

 

■大伴大夫:大伴宿祢三依? 大伴大夫としてはこの一首のみが万葉集に収録されているが、大伴宿祢三依であるとすれば、さらに四首が収録されていることになる。

 

 

◆烏梅能波奈  伊麻佐可利奈理  意母布度知  加射之尓斯弖奈  伊麻佐可利奈理  [筑後守葛井大夫]

              (葛井大夫 巻八 八二〇)

 

≪書き下し≫梅の花今盛りなりと思ふどちかざしにしてな今盛りなり [筑後守(つくしのみちのしりのかみ)葛井大夫(ふぢゐのまへつきみ)]

 

(訳)梅の花は今がまっ盛りだ。気心知れた皆の者の髪飾りにしよう。梅の花は今がまっ盛りだ。

 

■葛井大夫:葛井連大成(ふぢゐのむらじおほなり)万葉集には三首(巻八 八二〇・巻四五七六・巻六 一〇〇三)収録されている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「太陽 特集万葉集」 (平凡社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

 梅雨なか、雨をさけるように橿原市と明日香村の万葉歌碑を巡って来た。県立万葉文化館ならびに犬養万葉記念館にも行ってきたのである。

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県立万葉文化館

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犬養万葉記念館

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「万葉は青春のいのち」の碑(犬養万葉記念館前)

 

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万葉歌碑を訪ねて(その124の1改)―奈良県橿原市南浦町万葉の森(4)―万葉集 巻八 八二二

大伴旅人の歌は、万葉集には、七〇首ほど収録されているが、そのほとんどは九州の大宰府で作られたものである。

 大伴旅人が大宰師(だざいのそち)となって九州に赴任したほぼ同じころ、山上憶良筑前国守となって九州に赴任。小野老(おののおゆ)や歌人沙弥満誓(さみまんせい)がおり、大和をしのぐ筑紫歌壇を形成したのである。令和の出典となった旅人主催の梅花宴の歌群はまさに筑紫歌壇が生み出したものといえよう。

 

●歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」である。

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(大伴旅人

 ●歌碑は奈良県橿原市南浦町万葉の森(4)にある。万葉の森歌碑第4弾である。

 

 歌をみていこう。

◆和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 [主人]           (大伴旅人 巻八 八二二)

 

≪書き下し≫我(わ)が園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも  主人

 

(訳)この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥かな天空から雪が流れて来るのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも:梅花を雪に見立てている。六朝以来の漢詩に多い。

(注)主人:宴のあるじ。大伴旅人

 

この歌を、含む八一五~八四八歌の梅花歌三二首の題詞が、「令和」の出典となったものであり、時の歌と言えよう。

 

 この歌群の歌については、これまでも何度か取り上げたことがある。

歌群全体を紹介したことはなかったので、今回はすべての歌をみていこう。

 万葉集を訪ねて―その124の1―では、「題詞ならびに序」と宴の主催者、大伴旅人の八二二歌を取り上げる

 

 題詞は、「梅花歌卅二首并序」<梅花(ばいくわ)の歌三十二首幷(あわ)せて序>である。

 

 序は、「天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠」

 

≪序の書き下し≫天平二年の正月の十三日に、師老(そちらう)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会(うたげ)を申(の)ぶ。

時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(くゆ)らす。しかのみにあらず、曙(あした)の嶺(みね)に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾(かたぶ)く、夕(ゆふへ)の岫(くき)に露結び、鳥は縠(うすもの)に封(と)ぢらえて林に迷(まと)ふ。庭には舞ふ新蝶(しんてふ)あり、空には帰る故雁(こがん)あり。

ここに、天(あめ)を蓋(やね)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし、膝(ひざ)を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(げん)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(きん)を煙霞(えんか)の外(そと)に開く。淡然(たんぜん)自(みづか)ら放(ゆる)し、快然(くわいぜん)自ら足る。

もし翰苑(かんゑん)にあらずは、何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す、古今それ何ぞ異(こと)ならむ。よろしく園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して、いささかに短詠(たんえい)を成すべし。

 

(訳)天平二年正月十三日、師の老の邸宅に集まって宴会をくりひろげた。

折しも、初春の佳(よ)き月で、気は清く澄みわたり風はやわらかにそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている。そればかりか、明け方の峰には雲が往き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋(きぬがさ)をさしかけたようであり、夕方の山洞(やまほら)には霧が湧き起り、鳥は霧の帳(とばり)に閉じ込められながら林に飛び交うている。庭には春生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋来た雁が帰って行く。

そこで一同、天を屋根とし地を座席とし、膝を近づけて盃(さかずき)をめぐらせる。一座の者みな恍惚(こうこつ)として言を忘れ、雲霞(うんか)の彼方(かなた)に向かって胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。

ああ、文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭(やまと)の歌を詠むがよい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)天平二年:西暦七三〇年

(注)くき(岫):①山のほら穴。②山の峰。

(注)翰苑(かんえん):①文章や手紙 ②「翰林院」に同じ。 ③中国、唐初の類書。張楚金の撰。日本に蕃夷部一巻が現存。

(注)詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す:漢詩にも好んで落梅の作を詠んでいる。

(注)園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して:この庭園の梅を題として。

 

 大伴旅人の歌は、万葉集には、七〇首ほど収録されているが、そのほとんどは九州の大宰府で作られたものである。

 神龜四,五年ごろ、大伴旅人大宰師(だざいのそち)となって九州に赴任。ほぼ同じころ、山上憶良筑前国守となって九州に赴任している。憶良67歳という。旅人は64歳という年齢であった。「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり」と詠んだ小野老(おののおゆ)がおり、また観世音寺にも優れた歌人沙弥満誓(さみまんせい)がおり、大和をしのぐ歌壇を形成したのである。旅人と憶良は互いに影響を与えながら代表的な歌を数々残して行くのである。旅人は名門大伴氏に生まれ、その歌には、唐風の教養が優雅ににじみ出ている。憶良も、遣唐使として大陸に渡った経歴があり、歌いぶりは、貧窮問答歌に代表されるような庶民的な色彩が強かったのである。彼らを中心に「筑紫歌壇」が形成されていったと言えるのである。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「太陽 特集 万葉集」 (平凡社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典」

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

 

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万葉歌碑を訪ねて(その123改)―奈良県橿原市南浦町橿原万葉の森(3)―万葉集 巻十八 四一〇九

●歌は、「紅はうつろふものぞ橡のなれにし衣になほしかめやも」である。

 

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、奈良県橿原市南浦町橿原万葉の森(3)にある。

 

●歌をみていこう。

◆久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母

                 (大伴家持 巻十八 四一〇九)

 

≪書き下し≫紅(くれなゐ)はうつろふものぞ橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ)になほしかめやも

 

(訳)見た目鮮やかでも紅は色褪(あ)せやすいもの。地味な橡(つるばみ)色の着古した着物に、やっぱりかなうはずがありものか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)紅:紅花染め。左夫流子の譬え。

(注)橡:①くぬぎの実。「どんぐり」の古名。

     ②染め色の一つ。①のかさを煮た汁で染めた、濃いねずみ色。

      上代には身分の低い者の衣服の色として、中古には四位以上の

      「袍(はう)」の色や喪服の色として用いた。

      古くは「つるはみ」。(Weblio古語辞典「学研全訳古語辞典」)

(注)橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ):橡染の着古した衣。妻の譬え。

 

 この歌の題詞は、「教喩史生尾張少咋歌一首并短歌」<史生尾張少咋(ししやうをはりのをくひ)を教へ喩(さと)す歌一首幷(あは)せて短歌>

 前文と長歌反歌三首で構成されている。

 

前文からみてみよう。

 

「七出例(しちしゆつれい)に云(い)はく、

『ただし、一条を犯さば、すなはち出(い)だすべし。七出なくして輙(たやす)く棄(す)つる者は、徒(づ)一年半』といふ。

 (注)七出例:夫の意志で離婚できる妻側の七つの欠陥に関する条例。すなわち、

    子がない、姦通、舅姑い使えない、悪口を言って他人に害を与える、

    盗竊、嫉妬、悪疾の七つ。 「七去」ともいう。

 (注)すなはち出(い)だすべし:即座に離婚せよ。

 (注)徒(づ):懲役刑

 

三不去(さんふきよ)に云はく、

『七出を犯すとも、棄つべくあらず。違(たが)ふ者は杖(ぢやう)一百。ただし奸(かん)を犯したると悪疾(あくしち)とは棄つること得(う)』といふ。

 (注)三不去(さんふきよ):七出に該当しても離婚できぬ三つの場合。

    舅姑の喪事(三年)を助けた者、娶って後に高貴の位となった者、

    現在帰る家のない者は離婚できない。

 

兩妻例(りやうさいれい)に云はく、

『妻有りてさらに娶(めと)る者は徒一年、女家(ぢよか)は杖一百にして離(はな)て』といふ。

  (注)兩妻例(りやうさいれい):重婚関係の条例

  (注)女家(ぢよか):女性。唐律に見える語。

 

詔書に云(のりたま)はく、

『義夫節婦を愍(めぐ)み賜ふ』とのりたまふ。

 

謹(つつし)みて案(かむが)ふるに、先(さき)の件(くだり)の数条は、法(のり)を建つる基(もと)にして、道を化(をし)ふる源なり。しかればすなはち、義夫の道は、情存して別(べち)なく、一家財を同じくす。あに旧(ふる)きを忘れ新しきを愛(うつく)しぶる志あらめや。ゆゑに数行の歌を綴(つづ)り作(な)し、旧きを棄つる惑(まと)ひを悔(く)ひしむ。その詞に日(い)はく。

  (注)情存して別(べち)なく:情を抱いて家族に普く施し。

  (注)一家財を同じくす:一家で財産を共にし、経済上家族を差別しない

              ことにある。

 

◆於保奈牟知 須久奈比古奈野 神代欲里 伊比都藝家良久 父母乎 見波多布刀久 妻子見波 可奈之久米具之 宇都世美能 余乃許等和利止 可久佐末尓 伊比家流物能乎 世人能 多都流許等太弖 知左能花 佐家流沙加利尓 波之吉余之 曽能都末能古等 安沙余比尓 恵美ゝ恵末須毛 宇知奈氣支 可多里家末久波 等己之へ尓 可久之母安良米也 天地能 可未許等余勢天 春花能 佐可里裳安良牟等 末多之家牟 等吉能沙加利曽 波奈礼居弖 奈介可須移母我 何時可毛 都可比能許牟等 末多須良无 心左夫之苦 南吹 雪消益而 射水河 流水沫能 余留弊奈美 左夫流其兒尓 比毛能緒能 移都我利安比弖 尓保騰里能 布多理雙坐 那呉能宇美能 於支乎布可米天 左度波世流 支美我許己呂能 須敝母須敝奈佐   言佐夫流者遊行女婦之字也

              (大伴家持 巻十八 四一〇六)

 

≪書き下し≫大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神代(かみよ)より 言い継(つ)ぎけらく 父母を 見れば尊(たふと)く 妻子(めこ)見れば 愛(かな)しくめぐし うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立(ことだ)て ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の子(こ)と 朝夕(あさよひ)に 笑(ゑ)みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくは とこしへに かくしもあらめや 天地(あめつち)の 神(かみ)言寄(ことよ)せて 春花の 盛もあらむと 待たしけむ 時の 盛りぞ 離れ居て 嘆かす妹(いも)が いつしかも 使(つかひ)の来(こ)むと 待たすらむ 心寂(さぶ)しく 南風(みなみ)吹き 雪消(ゆきげ) 溢(はふ)りて 射水川(いみづかは) 流る水沫(みなわ)の 寄るへなみ 佐夫流(さぶる)その子に 紐(ひも)の緒(を)の いつがり合ひて にほ鳥の ふたり並び居(ゐ) 奈呉(なご)の海の 奥(おき)を深めて さどはせる 君が心の すべもすべなさ   左夫流と言ふは遊行女婦が字なり

 

(訳)大汝命と少彦名命(みこと)が国土を造り成したもうた遠い神代の時から言い継いできたことは、「父母は見ると尊いし、妻子は見るといとしくいじらしい。これがこの世の道理なのだ」と、こんな風(ふう)に言ってきたものだが、それが世の常の人の立てる誓いの言葉なのだが、

言葉どおりに、ちさの花の真っ盛りの頃に、いとしい奥さんと朝に夕に、時にほほ笑み時に真顔で、溜息まじりに言い交した、「いつまでもこんな貧しい状態が続くということがあろうか、天地の神々がうまく取り持って下さって、春の花の盛りのように栄える時もあろう」という言葉をたよりに奥さんが待っておられた、その盛りの時が今なのだ。離れていて溜息ついておられるお方が、いつになったら夫の使いが来るのだろうとお待ちになっているその心はさぞさびしいことだろうに、ああ、南風が吹き雪解け水が溢れて、射水川の流れに浮かぶ水泡(みなわ)のように寄る辺もなくてうらさびれるという、左夫流と名告るそんな娘(こ)なんぞに、紐の緒のようにぴったりくっつきあって、かいつぶりのように二人肩を並べて、奈呉の海の底に深さのように、深々と迷いの底にのめりこんでおられるあなたの心、その心の何とまあ処置のしようのないこと。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 他の短歌(反歌)二首もみていこう。題詞は、「反歌三首」である。

◆安乎尓与之 奈良尓安流伊毛我 多可ゝゝ尓 麻都良牟許己呂 之可尓波安良司可

             (大伴家持 巻十六 四一〇七)

 

≪書き下し≫あをによし奈良にある妹が高々(たかたか)に待つらむ心しかにはあらじか

 

(訳)あの遠い奈良の家にいるお方が、高々と爪先立てて待っている心、その心のいじらしさ、妻のこころとはそういうものではあるまいか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 

◆左刀妣等能 見流目波豆可之 左夫流兒尓 佐度波須伎美 美夜泥之理夫利

             (大伴家持 巻十六 四一〇八)

 

≪書き下し≫里人(さとびと)の見る目恥づかし左夫流子(さぶるこ)にさどはす君が宮出後姿(みやでしりぶり)

 

(訳)里人の見る目を思うと、この私まで恥ずかしくなる。左夫流子に血迷っていられるあなたが、いそいそと退朝して行くうしろ姿は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 大伴家持といえば女性遍歴が有名であるが、越中守時代、部下の史生尾張少咋(ししやうをはりのをくひ)を教へ喩(さと)す歌一首幷(あは)せて短歌を作っているのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「Weblio古語辞典(学研全訳古語辞典)」

 

※210604朝食関連記事削除、一部改訂

 

万葉歌碑を訪ねて(その122改と番外編)―奈良県橿原市南浦町万葉の森(2)―万葉集 巻二 二三一

●歌碑めぐりの歌碑の紹介は、奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(笠金村)である。番外編として、平城宮跡東院庭園めぐりと長屋王邸跡説明板の撮影に1万歩超えの歴史ウォーキング。


●歌は、「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」である。 

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(笠金村)

●歌碑は、奈良県橿原市南浦町万葉の森にある。

 

●歌をみてみよう。


◆高圓之 野邊秋芽子 徒 開香将散 見人無尓
       (笠金村 巻二 二三一)

≪書き下し≫高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに

(訳)高円の野辺の秋萩は、今はかいもなくは咲いて散っていることであろうか。見る人もいなくて。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)いたずらに:無駄に。成果を伴わないさま。

 

 題詞は、「霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首幷短歌」<霊龜元年歳次(さいし)乙卯(きのとう)の秋の九月に、志貴皇子(しきのみこ)の薨ぜし時に作る歌一首幷(あは)でて短歌>である。この歌は、短歌二首の一首である。

 なお、この歌については、ブログ拙稿「万葉の歌碑を訪ねて―その19―」で取り上げているので、そちらを参考にしていただければと思います

 

(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫
★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

 

「番外編」


平城宮東院庭園と長屋王邸跡
 平城京跡もいろいろと整備が進んできている。
 奈良県HPによると、隣接する国営公園部分を含む「朱雀門ひろば」等の整備が進んだことから、平成30年3月24日に、「平城宮跡歴史公園」をオープンさせたとある。
 平城宮ひろばには5つの舘がある。「平城宮いざない館」、「天平 みつき館」、「天平うまし館」、「天平みはらし館」、「天平つどい館 」である。そして 、復原遣唐使船などがある広大な公園である。
 6月26日は朝から上天気。以前から、行きたいと思っていた、平城宮跡の東側に位置する「東院庭園」を訪ねてみることにした。

 西大寺から平城京跡を横断する形で歴史を感じながらのウォーキングである。「平城宮跡資料館」正面から左手に大極殿を右手に朱雀門を見る形で東に向かう。

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平城宮跡資料館

大極殿朱雀門のほぼ真ん中あたりに建造中の建物があり、これもみたいと思っていた。近づいてみると、「第一次大極殿院南門復原」と工事の覆いに書かれており、完成予想図が等寸大で描かれていた。

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第一次大極殿院南門復原工事

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南門復原工事現場と大極殿を望む




時折工事車両と行き交う。
 歌姫街道に通じるみやと通りを越え、さらに東南方向に進む。やがて東院庭園駐車場が見えて来る。その先に庭園出入口のある「西建物」が正面に現れる。

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庭園出入口の西建物(正面)

 

その手前「東院南門」から、今の「ミ・ナーラ」(旧そごう、旧イトーヨーカ堂)の建物が見える。長屋王邸跡である。

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東院南門からミ・ナーラを望む



 入口をはいると、発掘された瓦などが展示されている。中でも目をひくのが、「隅楼」と呼ばれる建物の柱で、正八角形をしている。しかも、柱の底部には石や木の礎板を据えている。また、底面から30cmほどの位置に貫を通して腕木とし、その下に枕木といった複雑な構造をしており、それがそのまま地下部で発掘されたという。何という建築技術なのだろう。

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発掘された八角柱と基礎部



庭園には池が復原されており当時の面影を偲ばせている。
お約束の「島」もある。

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東院庭園池の眺め

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東院庭園の眺め

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庭園南面大垣



東院庭園を後にし、「ミ・ナーラ」に向かう。

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ミ・ナーラ(旧そごう)


 長屋王邸の遺跡が発掘されたため、「そごう」はデパートでありながら、地下の階がない、食料品関係の売り場が1階にあるという変則デパートであった。
中央北側入り口を入ったところに、遺跡の一部を見せるゾーンがあったが、今はそれもなく、ただ、大宮通りに面した正面入り口に「長屋王邸跡」の説明看板の藻が歴史の証言をはたしているにすぎない状況である。

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長屋王邸跡説明板

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朱雀門三笠山の遠望

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朱雀門扁額


大宮通を歩いて朱雀門の方に向かう。
復原遣唐使船と生駒山を撮影、大阪湾から生駒山を眺めた遣唐使達の思いに馳せた。

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復原遣唐使船と生駒山の遠望



久しぶりに平城京跡を横切る近鉄線の踏切を渡った。踏切手前で、レトロ塗装をした電車が通過した。これも歴史を感じさせる。踏切待ちの時は特急車両とずいぶん楽しませてもらった。

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平城宮跡を横切る近鉄レトロ塗装の電車

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平城宮跡を横切る近鉄特急



10,000歩超えの歴史ウォーキングであった。

 

※20230415朝食関連記事削除、一部改訂

万葉歌碑を訪ねて(その121改)―奈良県橿原市南浦町の橿原万葉の森―万葉集 巻二 一八五

 蘇我氏全盛時代を築いた蘇我馬子は、飛鳥川の傍らに居を構え、当時としては珍しい造園法を取り入れたのである。すなわち、庭の中に池を掘り、池の中に小島を築いたのである。それゆえ、当時の人々は、馬子のことを「島大臣(しまのおとど)」と呼んだのである。蘇我氏誅滅のあと屋敷は、朝廷の管理下におかれ草壁皇子の宮となっていたのである。「草壁皇子の舎人等(とねりら)慟傷(かな)しびて作る歌二三首」からも庭園の情景がうかがい知れるのである。

 

●万葉歌碑を訪ねて―その121―

「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」

 

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(草壁皇子の宮の舎人)

 

 この歌碑は、奈良県橿原市南浦町の橿原万葉の森にある。

 万葉の森は、香具山の東山麓にある。その中に約1kmにわたって、万葉歌碑が9つ点在している径がある。ほぼ真ん中あたりに駐車場がある。駐車場から径を見下ろす形になっている。階段を下りて行き谷底に着いた感じで径を歩く。南側の出入り口までいき引き返す、北側の出入り口の前には古池が広がっている。古池畔にも万葉歌碑があるのだが、ザ~と見わたしたが見つけることができなかった。再び径を引き返し、今度は駐車場を目指しての登り坂となる。

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万葉の森の径

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駐車場横の万葉の森出入口

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万葉の森の径南側出入り口

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万葉の森の径北側出入り口(万葉の森の字がかすれている)

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万葉の森北側南浦町古池(遠くに耳成山

 

歌碑については、北から順番に紹介していくことにする。 

 

歌をみていこう

◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨

                 (草壁皇子の宮の舎人 巻二 一八五)

 

≪書き出し≫水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも

 

(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。

 

 一七一~一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>とある。

 

 持統朝に、皇子尊(みこのみこと)と称したのは草壁皇子高市皇子である。この題詞にいう、皇子尊は草壁皇子である。草壁皇子は死後、日雙斯(ひなめし)と諡(おくりな)せられている。

 草壁皇子は飛鳥の島の宮に住んでおられたという。島の宮は蘇我氏の旧邸宅の後を、宮殿にしたものであったといわれている。飛鳥川などの水を利用した宮殿造りで、蘇我馬子は島大臣(しまのおとど)と呼ばれていた。

 

 島の宮の故地は、今の飛鳥の岡の南の島の庄の地で、飛鳥川に臨んだところで、橘の島の宮ともいわれる。

 橘の島の宮に関しては、コトバンク(世界大百科事典内の橘の島の宮の言及として、「大化改新後になって,天武天皇の皇子,草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が《万葉集》巻二にのこされているが,この歌から皇子の庭園がかなりはっきり知られる。この庭園にも池がうがたれ,荒磯の様を思わせる石組みがあり,石組みの間にはツツジが植えられ,池中には島があり,このために〈橘の島宮〉と称せられたという。このように,池を掘り海の風景を表そうとしたことは,以後の日本庭園にも長く受け継がれる」と載っている。

 舎人たちが作った歌の中からも、池があり、庭石を置いて磯をかたどり、水鳥が放たれ、池辺には岩つつじが咲いていたという「島」=庭園の情景がうかがえるのである。

 

⦿島の宮上(かみ)の池なる放ち鳥荒(あら)びな行きそ君座(いま)さずとも(一七二歌)

⦿み立たしの島の荒磯(ありそ)を今見れば生(お)ひずありし草生ひにけるかも(一八一歌)

⦿水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも(一八五歌)

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の大和路」 犬養 孝/文 入江泰吉/写真 (旺文社文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「國文學 万葉集の詩と歴史」(學燈社

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「コトバンク(世界大百科事典内の橘の島の宮の言及)」

 

  ※20210407朝食関連記事削除

 

草壁

蘇我氏全盛時代を築いた蘇我馬子は、飛鳥川の傍らに居を構え、当時としては珍しい造園法を取り入れたのである。すなわち、庭の中に池を掘り、池の中に小島を築いたのである。それゆえ、当時の人々は、馬子のことを「島大臣(しまのおとど)」と呼んだのである。蘇我氏誅滅のあと屋敷は、朝廷の管理下におかれ草壁皇子の宮となっていたのである。「草壁皇子の舎人等(とねりら)慟傷(かな)しびて作る歌二三首」からも庭園の情景がうかがい知れるのである。

 

●サンドイッチは、サニーレタスと焼き豚。デザートは、バナナの縦切りを十字状に並べ、余白部分をトンプソンとレッドグローブの切合わせを配し、干しぶどうでアクセントをつけた。

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6月26日のザ・モーニングセット

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6月26日のフルーツフルデザート

●万葉歌碑を訪ねて―その121―

「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」

 

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(草壁皇子の宮の舎人)

 

 この歌碑は、奈良県橿原市南浦町の橿原万葉の森にある。

 万葉の森は、香具山の東山麓にある。その中に約1kmにわたって、万葉歌碑が9つ点在している径がある。ほぼ真ん中あたりに駐車場がある。駐車場から径を見下ろす形になっている。階段を下りて行き谷底に着いた感じで径を歩く。南側の出入り口までいき引き返す、北側の出入り口の前には古池が広がっている。古池畔にも万葉歌碑があるのだが、ザ~と見わたしたが見つけることができなかった。再び径を引き返し、今度は駐車場を目指しての登り坂となる。

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万葉の森の径

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駐車場横の万葉の森出入口

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万葉の森の径南側出入り口

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万葉の森の径北側出入り口(万葉の森の字がかすれている)

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万葉の森北側南浦町古池(遠くに耳成山

 

歌碑については、北から順番に紹介していくことにする。 

 

歌をみていこう

◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨

                 (草壁皇子の宮の舎人 巻二 一八五)

 

≪書き出し≫水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも

 

(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。

 

 一七一~一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>とある。

 

 持統朝に、皇子尊(みこのみこと)と称したのは草壁皇子高市皇子である。この題詞にいう、皇子尊は草壁皇子である。草壁皇子は死後、日雙斯(ひなめし)と諡(おくりな)せられている。

 草壁皇子は飛鳥の島の宮に住んでおられたという。島の宮は蘇我氏の旧邸宅の後を、宮殿にしたものであったといわれている。飛鳥川などの水を利用した宮殿造りで、蘇我馬子は島大臣(しまのおとど)と呼ばれていた。

 

 島の宮の故地は、今の飛鳥の岡の南の島の庄の地で、飛鳥川に臨んだところで、橘の島の宮ともいわれる。

 橘の島の宮に関しては、コトバンク(世界大百科事典内の橘の島の宮の言及として、「大化改新後になって,天武天皇の皇子,草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が《万葉集》巻二にのこされているが,この歌から皇子の庭園がかなりはっきり知られる。この庭園にも池がうがたれ,荒磯の様を思わせる石組みがあり,石組みの間にはツツジが植えられ,池中には島があり,このために〈橘の島宮〉と称せられたという。このように,池を掘り海の風景を表そうとしたことは,以後の日本庭園にも長く受け継がれる」と載っている。

 舎人たちが作った歌の中からも、池があり、庭石を置いて磯をかたどり、水鳥が放たれ、池辺には岩つつじが咲いていたという「島」=庭園の情景がうかがえるのである。

 

⦿島の宮上(かみ)の池なる放ち鳥荒(あら)びな行きそ君座(いま)さずとも(一七二歌)

⦿み立たしの島の荒磯(ありそ)を今見れば生(お)ひずありし草生ひにけるかも(一八一歌)

⦿水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも(一八五歌)

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「國文學 万葉集の詩と歴史」(學燈社

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「コトバンク(世界大百科事典内の橘の島の宮の言及)」