万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その124の1改)―奈良県橿原市南浦町万葉の森(4)―万葉集 巻八 八二二

大伴旅人の歌は、万葉集には、七〇首ほど収録されているが、そのほとんどは九州の大宰府で作られたものである。

 大伴旅人が大宰師(だざいのそち)となって九州に赴任したほぼ同じころ、山上憶良筑前国守となって九州に赴任。小野老(おののおゆ)や歌人沙弥満誓(さみまんせい)がおり、大和をしのぐ筑紫歌壇を形成したのである。令和の出典となった旅人主催の梅花宴の歌群はまさに筑紫歌壇が生み出したものといえよう。

 

●歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」である。

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(大伴旅人

 ●歌碑は奈良県橿原市南浦町万葉の森(4)にある。万葉の森歌碑第4弾である。

 

 歌をみていこう。

◆和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 [主人]           (大伴旅人 巻八 八二二)

 

≪書き下し≫我(わ)が園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも  主人

 

(訳)この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥かな天空から雪が流れて来るのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも:梅花を雪に見立てている。六朝以来の漢詩に多い。

(注)主人:宴のあるじ。大伴旅人

 

この歌を、含む八一五~八四八歌の梅花歌三二首の題詞が、「令和」の出典となったものであり、時の歌と言えよう。

 

 この歌群の歌については、これまでも何度か取り上げたことがある。

歌群全体を紹介したことはなかったので、今回はすべての歌をみていこう。

 万葉集を訪ねて―その124の1―では、「題詞ならびに序」と宴の主催者、大伴旅人の八二二歌を取り上げる

 

 題詞は、「梅花歌卅二首并序」<梅花(ばいくわ)の歌三十二首幷(あわ)せて序>である。

 

 序は、「天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧 鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠」

 

≪序の書き下し≫天平二年の正月の十三日に、師老(そちらう)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会(うたげ)を申(の)ぶ。

時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(くゆ)らす。しかのみにあらず、曙(あした)の嶺(みね)に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾(かたぶ)く、夕(ゆふへ)の岫(くき)に露結び、鳥は縠(うすもの)に封(と)ぢらえて林に迷(まと)ふ。庭には舞ふ新蝶(しんてふ)あり、空には帰る故雁(こがん)あり。

ここに、天(あめ)を蓋(やね)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし、膝(ひざ)を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(げん)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(きん)を煙霞(えんか)の外(そと)に開く。淡然(たんぜん)自(みづか)ら放(ゆる)し、快然(くわいぜん)自ら足る。

もし翰苑(かんゑん)にあらずは、何をもちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す、古今それ何ぞ異(こと)ならむ。よろしく園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して、いささかに短詠(たんえい)を成すべし。

 

(訳)天平二年正月十三日、師の老の邸宅に集まって宴会をくりひろげた。

折しも、初春の佳(よ)き月で、気は清く澄みわたり風はやわらかにそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている。そればかりか、明け方の峰には雲が往き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋(きぬがさ)をさしかけたようであり、夕方の山洞(やまほら)には霧が湧き起り、鳥は霧の帳(とばり)に閉じ込められながら林に飛び交うている。庭には春生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋来た雁が帰って行く。

そこで一同、天を屋根とし地を座席とし、膝を近づけて盃(さかずき)をめぐらせる。一座の者みな恍惚(こうこつ)として言を忘れ、雲霞(うんか)の彼方(かなた)に向かって胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。

ああ、文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭(やまと)の歌を詠むがよい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)天平二年:西暦七三〇年

(注)くき(岫):①山のほら穴。②山の峰。

(注)翰苑(かんえん):①文章や手紙 ②「翰林院」に同じ。 ③中国、唐初の類書。張楚金の撰。日本に蕃夷部一巻が現存。

(注)詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す:漢詩にも好んで落梅の作を詠んでいる。

(注)園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して:この庭園の梅を題として。

 

 大伴旅人の歌は、万葉集には、七〇首ほど収録されているが、そのほとんどは九州の大宰府で作られたものである。

 神龜四,五年ごろ、大伴旅人大宰師(だざいのそち)となって九州に赴任。ほぼ同じころ、山上憶良筑前国守となって九州に赴任している。憶良67歳という。旅人は64歳という年齢であった。「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり」と詠んだ小野老(おののおゆ)がおり、また観世音寺にも優れた歌人沙弥満誓(さみまんせい)がおり、大和をしのぐ歌壇を形成したのである。旅人と憶良は互いに影響を与えながら代表的な歌を数々残して行くのである。旅人は名門大伴氏に生まれ、その歌には、唐風の教養が優雅ににじみ出ている。憶良も、遣唐使として大陸に渡った経歴があり、歌いぶりは、貧窮問答歌に代表されるような庶民的な色彩が強かったのである。彼らを中心に「筑紫歌壇」が形成されていったと言えるのである。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「太陽 特集 万葉集」 (平凡社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典」

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

 

※20230225朝食関連記事削除、一部改訂