万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その770)―吉野町楢井 老人福祉センター中荘温泉―万葉集 巻九 一七一三

●歌は、「滝の上の三船の山ゆ秋津辺に来鳴き渡るは誰れ呼子鳥」である。

 

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吉野町楢井 老人福祉センター中荘温泉万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、吉野町楢井 老人福祉センター中荘温泉にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「幸芳野離宮時歌二首」<吉野(よしの)の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時の歌二首>である。

 

◆瀧上乃 三船山従 秋津邊 来鳴度者 誰喚兒鳥

               (作者未詳 巻九 一七一三)

 

≪書き下し≫滝(たき)の上(うへ)の三船(みふね)の山ゆ秋津辺(あきづへ)に来鳴き渡るは誰(た)れ呼子(よぶこ)鳥(どり)

 

(訳)滝の上の三船の山から、ここ秋津のあたりに鳴き渡って来るのは、いったい誰を呼ぶ、呼子鳥なのか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)三船の山:奈良県吉野郡吉野町の宮滝付近の山。舟岡山とも。

(注)よぶこどり【呼子鳥・喚子鳥】名詞:鳥の名。人を呼ぶような声で鳴く鳥。かっこうの別名か。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

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歌碑と歌の解説案内板

もう一首の方もみてみよう。

 

◆落多藝知 流水之 磐觸 与杼賣類与杼尓 月影所見

                (作者未詳 巻九 一七一四)

 

≪書き下し≫落ちたぎち流るる水の岩に触(ふ)れ淀める淀に月の影見ゆ

 

(訳)落ちたぎって逆巻き流れる水が岩に当たって堰き止められ、淀んでいる淀みに、月の影がくっきり映っている。(同上)

 

どちらも、動きの中の静寂な広がりを切り取って絵画にしたためたような歌である。作者未詳とあるが、歌垣等の歌謡から生まれた口誦歌と明らかに異なっている、

 

呼子鳥は万葉集では、九首で詠われている。他の八首もみてみよう。

◆大和(やまと)には鳴きてか来(く)らむ呼子鳥象(さき)の中山呼びぞ越ゆなる

               (高市黒人 巻一 七〇)

 

(訳)故郷大和には、今はもう来て鳴いていることであろうか。ここ吉野では、呼子鳥が象の中山を、妻を呼び立てながら飛び越して行く。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

◆神(かむ)なびの石瀬(いはせ)の社(もり)の呼子鳥いたくな鳴きそ我(あ)が恋まさる

               (鏡王女 巻八 一四一九)

(訳)神なびの石瀬の森の呼子鳥よ、そんなにひどくは鳴かないでおくれ。私のせつない思いがつのるばかりだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

◆世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ

               (大伴坂上郎女 巻八 一四四七)

 

(訳)ふだんなら聞くと身につまされてせつなくなってくる呼子鳥、そんな呼子鳥の声が妙に懐かしく思われる時期とはなった。(同上)

 

◆我(わ)が背子(せこ)を莫越(なこし)の山の呼子鳥君呼び返(かへ)せ夜(よ)の更(ふ)けぬとに

                (作者未詳 巻十 一八二二)

 

(訳)我が背子を越えさせないでと願う、その莫越(なこし)の山の呼子鳥よ、我が君を呼び戻しておくれ、夜の更けないうちに。(同上)

(注)わがせこを【我が背子を】:[枕]我が夫を我が待つの意から、「我が待つ」と同音を含む地名「あが松原」にかかる。一説に「我が背子を我が」までを、松を導く序詞とする。(weblio辞書 デジタル大辞泉) 莫越(なこし)の山(所在未詳)も枕詞。

 

◆春日(かすが)なる羽(は)がひの山ゆ佐保(さほ)の内へ鳴き行くなるは誰(た)れ呼子鳥 

                (作者未詳 巻十 一八二七)

(訳)春日の羽がいの山を通って佐保の里の内へ鳴いていくのは、いったい誰を呼ぶ呼子鳥なのか。(同上)

(注)羽買之山・羽易之山(読み)はがいのやま:[一] 奈良市春日山の北側に連なる若草山のこととも、また西側に連なる三笠山、南側に連なる高円山、それに若草山を加えた三山のことともいわれるなど、諸説がある。※万葉(8C後)一〇・一八二七「春日なる羽買之山(はがひのやま)ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰れ呼子鳥」

[二] 奈良県桜井市穴師にある巻向山につづく龍王山か。※万葉(8C後)二・二一〇「大鳥の羽易乃山(はかひノやま)に吾が恋ふる妹はいますと人の言へば」(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

◆答へぬにな呼び響(とよ)めそ呼子鳥佐保の山辺(やまへ)を上(のぼ)り下(くだ)りに

               (作者未詳 巻十 一八二八)

 

(訳)誰も答えもしないのに、そんなに呼び立てないでおくれ。呼子鳥よ、佐保の山辺を高く飛んだり低く飛んだりして。(同上)

 

◆朝霧(あさぎり)にしののに濡れて呼子鳥三船みふね)の山ゆ鳴き渡る見ゆ

               (作者未詳 巻十 一八三一)

 

(訳)朝霧にぐっしょり濡れて、呼子鳥が、今しも三船の山を鳴き渡っている。(同上)

(注)しののに 副詞:しっとりと。ぐっしょりと。(学研)

 

◆朝霧(あさぎり)の八重山(やへやま)越えて呼子鳥鳴(な)きや汝(な)が来る宿もあらなくに

 

(訳)立ちこめる朝霧のように幾重にも重なる山を越えて、呼子鳥よ、鳴きながらお前はやって来たのか。宿るべき所もないのに(同上)

 

(注)あさぎりの【朝霧の】分類枕詞:朝霧が深くたちこめることから「思ひまどふ」「乱る」「おほ(=おぼろなようす)」などにかかる。(学研)

 

 呼子鳥とは、歌の題材にもってこいの名前の鳥である。

 

 

 葛上白石神社から老人福祉センターまでは約10分のドライブである。国道169号線を吉野川を右手に見ながら走る。

 大きな看板が見えて来る。右折し道路から下る感じで駐車場へ。早かったせいか駐車場入り口にはチェーンがかかっていた。少し広めのスペースに車を止め、歌碑を探そうと歩いて建物を目指す。

暫く行くと、後ろから声を掛けられる。てっきり叱られるのかと思って車の方に戻る。朝の挨拶と万葉歌碑を見に来ました、と告げる。

すると、チェーンを外しながら、案内しますとおっしゃっていただく。

 老人センター入口の吉野川側に歌碑はあった。

 その方は、玄関入口の扉を開け、どうぞ休んで行ってくださいと親切に案内していただく。丁度トイレも探していたところだったので甘えることに。

 老人福祉センターの概要も説明いただく。建屋も建て替え、吉野町からの委託で運営をスタートさせた矢先のコロナ騒動で、今は吉野町民の利用に限定しているとか苦労話もお伺いする。

 館内を案内していただく。風呂場も浴場まで入らせていただき、吉野川を眺めながら楽しめますと丁寧にご説明いただく。さらに大広間、クラブ活動スペース、食堂まで。

 なんだか申し訳ない気分になる。今はコロナ問題で吉野町民に限られているが、落ち着いたら是非とパンフレットもいただく。

 

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老人福祉センター中荘温泉玄関ホール

 コロナ禍であるが、万葉歌碑めぐりで出会った方たちはどなたも親切で、こころ優しく対応していただいている。有難いことである。

 駐車場を出るとき一旦車をとめ、建物に向かって頭を下げた。

 

次の目的地は、吉野歴史館である。近くまで行ったが、左折すべきところを通り過ぎてしまったので、次の信号を右折してからUターンするところを探そうと進むと前方の橋が工事中である。車を左端によせUターンしようと、きょろきょろ 辺りを見回す。何と右手が吉野宮滝野外学校であり左手が河川交流センターであった。驚きである。当然予定を変更し歌碑を探すことに。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その769)―吉野町千股 葛上白石神社―万葉集 巻一 七五

●歌は、「宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに」である。

 

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吉野町千股 葛上白石神社万葉歌碑(長屋王

●歌碑は、吉野町千股 葛上白石神社にある。

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葛上白石神社


 

●歌をみていこう。

 

◆宇治間山 朝風寒之 旅尓師手 衣應借 妹毛有勿久尓

               (長屋王 巻一 七五)

 

≪書き下し≫宇治間山(うぢまやま)朝風寒し旅にして衣貸(ころもかす)すべき妹(いも)もあらなくに

 

(訳)宇治間山、ああ、この山の朝風は寒い。旅先にあって、衣を貸してくれそうな女(ひと)もいないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)          

(注)宇治間山:吉野への途中、奈良県吉野郡吉野町上市東北の山。

(注)衣貸す:共寝をしてくれそうな、の意。

(注)あらなくに:ないことなのに。あるわけではないのに。 ※文末に用いられるときは詠嘆の意を含む。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

この歌は、題詞「大行天皇幸于吉野宮時歌」<大行天皇(さきのすめらみこと)、吉野の宮に幸(いでま)す時の歌>の二首の一首である。

 

 左注は、「右一首長屋王」<右の一首は長屋王(ながやのおほきみ)>である。

 

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歌の解説案内板

 

 長屋王は、「衣貸(ころもかす)すべき妹(いも)もあらなくに」と嘆いているが、山部赤人は旅先で出会った優しい心根の女の歌として次の歌を披露している。こちらもみてみよう。

 

◆秋風乃 寒朝開乎 佐農能岡 将超公尓 衣借益矣

              (山部赤人 巻三 三六一)

 

≪書き下し≫秋風の寒き朝明(あさけ)を佐農(さぬ)の岡(おか)越ゆらむ君に衣(きぬ)貸さましを

 

(訳)秋風の吹くこんな寒い明け方なのに、佐農の岡を今頃は越えているであろうあなた、そのあなたに私の着物をお貸ししておけばよかった。(同上)

(注)佐農の岡:所在未詳

  

 

題詞「大行天皇幸于吉野宮時歌」のもう一首の方もみてみよう。

 

◆見吉野乃 山下風之 寒久尓 為當也今夜毛 我獨宿牟

               (文武天皇 巻一 七四)

 

≪書き下し≫み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜(こよひ)も我(あ)が独り寝む

 

(訳)み吉野の山おろしの風がこんなにも肌寒いのに、ひょっとして今夜も、私はたった独りで寝ることになるのであろうか。(同上)

(注)はたや【将や】副詞:もしかしたら。ひょっとして。▽疑い・危惧(きぐ)の念を強く表す。 ※副詞「はた」に疑問の係助詞「や」が付いて一語化したもの。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右一首或云 天皇御製歌」<右の一首は、或(ある)いは「天皇の御製歌」といふ>である。

 

 

長屋王の歌は万葉集には五首収録されている。

他の四首をみてみよう。

 

◆吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嬬待不得而

               (長屋王 巻三 二六八) 

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)が古家(ふるへ)の里の明日香(あすか)には千鳥鳴くなり妻待ちかねて

 

(訳)あなたの古家(ふるえ)の残る里の、ここ明日香では、千鳥がしきりに鳴いています。我が妻を待ちかねて・・・(同上)

 

左注は、「右今案 従明日香遷藤原宮之後作此歌歟」<右は、今案(かむが)ふるに、明日香より藤原の宮に遷(うつ)りし後に、この歌を作るか>である。

 

 題詞は、「長屋王故郷歌一首」<長屋王が故郷(ふるさと)の歌一首>である。

(注)故郷:694年の藤原遷都後、明日香を訪れての歌らしい。

 

 

次の歌の題詞は、「長屋王駐馬寧楽山作歌二首」<長屋王(ながやのおほきみ)、馬を奈良山に駐(と)めて作る歌二首>である。

 

◆佐保過而 寧樂乃手祭尓 置幣者 妹乎目不離 相見染跡友

               (長屋王 巻三 三〇〇)

 

≪書き下し≫佐保ずぎて奈良の手向けに置く幣へいは妹(いも)を目離(めか)れず相見(あひみ)しめとぞ

 

(訳)佐保を通り過ぎて奈良山の手向けの神に奉る幣は、あの子に絶えず逢わせたまえという願いからなのです。(同上)

(注)佐保:奈良市法蓮町・法連寺町一帯

(注)たむけ【手向け】名詞:神仏に供え物をすること。また、その供え物。旅の無事を祈る場合にいうことが多い。②「手向けの神」の略。③旅立つ人に贈る餞別(せんべつ)。はなむけ。

※参考 本来は、旅人が旅の無事を祈って塞の神に幣を供えることで、旅人は、幣として木綿(ゆう)・布や五色の紙などを細かく切ったものを携行し、神前にまいた。「たむけ」をする場所は、海路にもあったが、多くは陸路の山道を登りつめた所が多かった。中世以降、「たむけ」が「たうげ」へとウ音便化し、「とうげ(峠)」になった。(学研)

 

◆磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尓将出八方

               (長屋王 巻三 三〇一)

 

≪書き下し≫岩が根のこごしき山を越えかねて音(ね)には泣くとも色に出(い)でめやも

 

(訳)根を張る岩のごつごつした山、そんな山を越えるに越えかねて、つい声に出して泣くことはあっても、あの子を思っていることなど、そぶりに出したりはすまい。(同上)

(注)こごし 形容詞:凝り固まってごつごつしている。(岩が)ごつごつと重なって険しい。 ※上代語。(学研)

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ※ なりたち⇒推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」 (学研) 

 

 

◆味酒 三輪乃祝之 山照 秋乃黄葉乃 散莫惜毛

                (長屋王 巻八 一五一七)

 

≪書き下し≫味酒(うまさけ)三輪(みわ)の社(やしろ)の山照らす秋の黄葉(もみぢ)の散らまく惜しも

 

(訳)三輪の社(やしろ)の山を照り輝かしている秋のもみじ、そのもみじの散ってしまうのが惜しまれてならぬ(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)うまさけ【味酒・旨酒】分類枕詞:味のよい上等な酒を「神酒(みわ)(=神にささげる酒)」にすることから、「神酒(みわ)」と同音の地名「三輪(みわ)」に、また、「三輪山」のある地名「三室(みむろ)」「三諸(みもろ)」などにかかる。「うまさけ三輪の山」

参考⇒枕詞としては「うまさけの」「うまさけを」の形でも用いる。(学研)

 

長屋王は、「コトバンク 小学館デジタル大辞泉」によると、「[684~729]奈良前期の政治家。天武天皇の孫。高市皇子の子。聖武天皇のもとで左大臣となり、藤原氏を抑えて皇親政治を推進したが、讒言(ざんげん)により、自殺に追い込まれた。」と記されている。

 

飛鳥から吉野宮滝までグーグルマップで検索してみると、南東方向にほぼ一直線、葛上白石神社は、ほぼ中間点となる。万葉びとの行動力には頭が下がる。

こちらは文明の利器をつかって、次なる目的地、吉野町老人福祉センター中荘温泉をめざす。

 

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拝殿

 

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拝殿と社殿

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

万葉歌碑を訪ねて(その768)―近鉄吉野駅前広場―万葉集 巻一 二七

●歌は。「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」である。

 

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近鉄吉野駅前広場万葉歌碑(天武天皇

●歌碑は、近鉄吉野駅前広場にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は。「天皇幸于吉野宮時御製歌」<天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の御製歌>である。

(注)吉野宮:吉野宮滝付近にあった離宮

 

◆淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

               (天武天皇 巻一 二七)

 

≪書き下し≫淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

(訳)昔の淑(よ)き人がよき所だとよくぞ見て、よしと言った、この吉野をよく見よ。今の良き人よ、よく見よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)淑(よ)き人:立派な人。昔の貴人。ここは、天武天皇と持統皇后を寓している。

(注)良き人:今の貴人をいう。

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近鉄吉野駅


 

 

 「よし」という言葉を重ねることに興じた歌で、八つも重ねられている。このような言葉を重ねる戯れは、大伴坂上郎女の次の歌にも見られる。

 

題詞は、「大伴郎女和歌四首」<大伴郎女が和(こた)ふる歌四首>のうちの一首である。

 

◆将来云毛 不來時有乎 不来云乎 将来常者不待 不來云物乎

               (大伴坂上郎女 巻四 五二七)

 

≪書き下し≫来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを

 

(訳)あなたは、来(こ)ようと言っても来(こ)ない時があるのに、まして、来(こ)まいと言うのにもしや来(こ)られるかと待ったりはすまい。来(こ)まいとおっしゃるのだもの。(同上)

 

これは、題詞「京職藤原大夫贈大伴郎女歌三首 」<京職(きやうしき)藤原大夫が大伴郎女に贈る歌三首>に和(こた)えた歌である。

 

 天武天皇の歌に戻って、「よし」と書き記した文字をあげて見ると、順に「淑」「良」「吉」「好」「芳」「吉」「良」「四来」の八つである。最後の「よくみ」は「四来」ときたので「見」を「三」で締めている。歌い手も書き手も戯れているのである。

 

 万葉集の用字法の一つに「戯書」がある。「義訓の一種で、漢字の意義を遊戯的、技巧的に用いたもの。「出」字は、「山」字を重ねたものと解して「出でば」を「山上復有山者」と書き、掛け算の九九を利用して、「獅子(しし)」を「十六」と書くようなものをいう。」(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 他には「神楽声(ささ)」がある。これは、「仲哀記に『奉り来し御酒ぞ 止さず飲せ 佐々』(歌謡39番)、『この御酒の 御酒の あやに甚楽し 佐々』(歌謡40番)とあり、神楽の囃子詞でササと言っており、「神楽声」をササと訓ませた。」という。(万葉神事語事典 國學院デジタル・ミュージアム) 

このような擬声語お利用した例としては、巻十三 三三二四歌の「喚犬追馬鏡」(まそかがみ)がある。犬を呼ぶときにはママ、馬を追う時にはソソと言ったことによると言われている。複雑なものでは、「火」を「なむ」と読ませる、巻十三 三二九八歌の「二ゝ火四吾妹」(しなむよわぎも)の例がある。「火」は中国の五行説からの方角を表し、その方角の「南」から「ナム」という。「二ゝ」を「し」と掛け算の九九を利用し「よ」を「四」と戯れている。

 

三二九八歌は「戯書」の見本みたいなものである。「八」「二」「四」「七」と漢数字を使っている。みてみよう。

 

◆縦恵八師 二ゝ火四吾妹 生友 各鑿社吾 戀度七目

               (作者未詳 巻十三 三二九八)

 

≪書き下し≫よしゑやし死なむよ我妹‘わぎも)生(い)けりともかくのみこそ我が恋ひわたりなめ

 

(訳)ええいもう、いっそ死んでしまいたいよ。お前さん。生きていたって、どうせこんなありさまで焦がれつづけるだけなのだろうから。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)よしゑやし【縦しゑやし】分類連語:①ままよ。ええ、どうともなれ。②たとえ。よしんば。 ※上代語。  ⇒なりたち副詞「よしゑ」+間投助詞「やし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 他の歌の「よしゑやし」の表記は、吉恵哉(巻十一 二三七八)、忍咲八師(巻十 二三〇一;他の漢数字の表記はなし)、吉哉(巻十 二〇三一)、不欲恵八師(巻十二、三一九一;他の漢数字の表記はなし)である。

 

 

またまた脱線してしまった。天武天皇の歌にもどろう。

 

左注は、「紀日 八年己卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮」<紀には「八年己卯(つちのとう)の五月庚辰(かのえたつ)の朔の甲申(きのえさる)に、吉野の宮に幸(いでま)す」といふ>である。

(注)八年:天武八年(679年)五月五日

 

 左注のとおり、『日本書紀』には、天武八年五月五日に吉野宮へ行幸したこと、翌六日に、草壁(くさかべ)皇子・大津(おおつ)皇子・高市(たけち)皇子・忍壁(おさかべ)皇子四皇子と天智天皇の遺児である川島(かわしま)皇子・志貴(しき)皇子の二皇子ら六皇子に争いをせずお互いに助け合うと盟約させたこと、が記されている。

 なお、天武天皇の四皇子はそれぞれ母親は異なっている。草壁皇子は鵜野讃良皇后(後の持統天皇)、大津皇子は大田皇女、高市皇子は尼子娘、忍壁皇子は宍人臣大麻呂娘である。他には皇子として忍壁皇子の同母弟の磯城皇子、大江皇女の長皇子、弓削皇子そして大蕤娘(おおぬのいらつめ)の穂積皇子がいる。

 

吉野の盟約はある意味、後の大津皇子の悲劇の予兆があったのであろう。

 

 

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万葉歌碑と歌の解説案内板

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉神事語事典」 (國學院デジタル・ミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

                         

 

万葉歌碑を訪ねて(その767)―吉野郡大淀町下渕 鈴ヶ森行者堂―万葉集巻七 一一〇三

●歌は、「今しくは見めやと思ひしみ吉野の大川淀を今日見つるかも」である。

 

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吉野郡大淀町下渕 鈴ヶ森行者堂前万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、吉野郡大淀町下渕 鈴ヶ森行者堂前にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆今敷者 見目屋跡念之 三芳野之 大川余杼乎 今日見鶴鴨

               (作者未詳 巻七 一一〇三)

 

≪書き下し≫今しくは見めやと思ひしみ吉野(よしの)の大川淀(おほかわよど)を今日(けふ)見つるかも

 

(訳)当分は見られないと思っていたみ吉野の大川淀、その淀を、幸い今日はっきりとこの目に納めることができた。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)今しく:当分は。「今しく」は形容詞「今し」の名詞形。

(注)大川淀:吉野川六田の淀。

 

 

巻七 一一〇五歌は、吉野川の六田(むつた)の淀を詠った歌が収録されている。こちらもみてみよう。

 

◆音聞 目者末見 吉野川 六田之与杼乎 今日見鶴鴨

               (作者未詳 巻七 一一〇五)

 

≪書き下し≫音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田(むつた)の淀(よど)を今日見つるかも

 

(訳)噂に聞くだけで、この目で見たこともない、吉野川の六田の淀、その淀を今日やっと見ることができた。(同上)

(注)六田:吉野町六田・大淀町北六田あたり。近くに近鉄吉野線の「六田駅」があるが、今は「むだえき」とよんでいる。

 

六田の淀の清流の風情を詠んだもう一首の方もみてみよう。

 

◆河蝦鳴 六田乃河之 川楊乃 根毛居侶雖見 不飽河鴨

               (絹 巻九 一七二三)

 

≪書き下し≫かはづ鳴く六田(むつた)の川の川楊(かはやなぎ)のねもころ見れど飽(あ)かぬ川かも

 

(訳)河鹿の鳴く六田の川の川楊のではないが、んごろにいくら眺めても、見飽きることのない川です。この川は。(同上)

(注)川楊:川辺に自生する。挿し木をしてもすぐに根付くほどの旺盛な生命力を持っている。ネコヤナギとも言われる。(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会) 

(注)ねもころ【懇】副詞:心をこめて。熱心に。「ねもごろ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌の題詞は、「絹歌一首」<絹が歌一首>である。

(注)絹:伝未詳。土地の遊行女婦か。

 

 南都銀行HPの「見どころ情報」の「石塚遺跡」のところに、行者堂に関する記述が次のように載っている。「大和川吉野川分水嶺・車坂峠の頂上に、近くの地層に含まれる握りこぶしから人の頭ほどの大きさの石を、直径約30mの範囲に積みあげた塚。年代は不明だが、近くから正和4年(1314)の銘文が刻まれた五輪塔の一部が見つかっており、約700年前にはこの地にあったと考えられている(五輪塔は現地に復元されている)。御所方面から大峯山上へとむかう山伏たちが、目前の大峯連山を眺めつつ、石を積んで修行をした行場とも伝える。塚の前にはかつての旧街道が通り、石造りの役行者像を祀る行者堂も建っており、役行者に旅の安全を祈願する場でもあった。」

「行者堂は現在、吉野川沿いの鈴ヶ森公園に移築」された。

 

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行者堂

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行者堂名板

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行者堂由来説明案内板

 泉徳寺から鈴ヶ森行者堂までは約10分のドライブである。予めストリートビューで確認していたガソリンスタンドを右折、すぐに行者堂が目に飛び込んでくる。そこは時間軸を超えた静寂と厳かさを感じさせる空間である。

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立派な歌碑解説案内碑

 歌碑は川側の左手にあり。その隣にも横長の石碑がある。歌碑の解説案内にしては立派な石碑である。そこには、「一一〇三歌と訳、揮毫者名、設置者名などがあり、さらに、大淀町の町名は、この万葉集の歌より選定されたといわれている」と記されている。

 

 行者堂の次は、近鉄吉野駅である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「見どころ情報」 (南都銀行HP)

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その766)―奈良県吉野郡大淀町今木 蔵王権現堂(泉徳寺)仁王門横―万葉集 巻十 一九四四

●歌は、「藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり」である。

 

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奈良県吉野郡大淀町今木 蔵王権現堂(泉徳寺)仁王門横万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、奈良県吉野郡大淀町今木 蔵王権現堂(泉徳寺)仁王門横にある

 

●歌をみていこう。

 

◆藤浪之 散巻惜 霍公鳥 今城岳▼ 鳴而越奈利

   ▼「口(くちへん)+リ」である。「今城岳▼」=今城の岡を

               (作者未詳 巻十 一九四四)

 

≪書き下し≫藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり

 

(訳)藤の花の散るのを惜しんで、時鳥が今城の岡の上を鳴きながら越えている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ふぢなみ【藤波・藤浪】名詞:藤の花房の風に揺れるさまを波に見立てていう語。転じて、藤および藤の花。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注 参考)ふぢなみの【藤波の・藤浪の】( 枕詞 )① 藤のつるが物にからまりつくことから「(思ひ)まつはる」にかかる。 ② 「ただ一目」にかかる。かかり方未詳。枕詞とはしない説もある。③ 波の縁語で、「たつ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

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歌碑説明案内板

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泉徳寺

 渡り鳥であるホトトギスは初夏にわたって来る。田植えの季節である。田植えの時を告げる鳥というのだろう。このような季節的な組み合わせで藤と時鳥が詠まれているのは、万葉集では六首収録されている。

 他の五首もみてみよう。

 

◆霍公鳥 来鳴動 岡邊有 藤浪見者 君者不来登夜

               (作者未詳 巻十 一九九一)

 

≪書き下し≫ほととぎす来(き)鳴(な)き響(とよ)もす岡辺(をかへ)なる藤波(ふぢなみ)見には君は来(こ)じとや

 

(訳)時鳥が来てしきりに声を響かせている岡辺の藤の花、この花を見にさえ、あなたはおいでにならないというのですか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

◆布治奈美波 佐岐弖知理尓伎 宇能波奈波 伊麻曽佐可理等 安之比奇能 夜麻尓毛野尓毛 保登等藝須 奈伎之等与米婆・・・(長歌

               (大伴池主 巻十七 三九九三)

≪書き下し≫藤波は 咲きて散りにき 卯(う)の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも ほととぎす 鳴きし響(とよ)めば・・・

 

(訳)“藤の花房は咲いてもう散ってしまった、卯の花は今が真っ盛りだ”とばかりに、あたりの山にも野にも時鳥がしきりに鳴き立てているので・・・(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

◆敷治奈美能 佐伎由久見礼婆 保等登藝須 奈久倍吉登伎尓 知可豆伎尓家里

               (田辺福麻呂 巻十七 4042

 

≪書き下し≫藤波の咲きゆく見ればほととぎす鳴くべき時に近(ちか)づきにけり

 

(訳)藤の花房が次々と咲いてゆくのを見ると、季節は、時鳥の鳴き出す時にいよいよちかづいたのですね。(同上)

 

 

◆霍公鳥 鳴羽觸尓毛 落尓家利 盛過良志 藤奈美能花  <一云 落奴倍美 袖尓古伎納都 藤浪乃花也>

               (大伴家持 巻十九 四一九三)

 

≪書き下し≫ほととぎす鳴く羽触れにも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花  <一には「散りぬべみ袖に扱入れつ藤波の花>

 

(訳)時鳥が鳴き翔ける羽触れにさえ、ほろほろと散ってしまうよ。もう盛りは過ぎているらしい、藤波の花は。<今にも散りそうなので、袖にしごき入れた、藤の花を>(同上)

 

◆敷治奈美乃 志氣里波須疑奴 安志比紀乃 夜麻保登等藝須 奈騰可伎奈賀奴

               (久米広縄 巻十九 四二一〇)

 

≪書き下し≫藤波の茂りは過ぎぬあしひきの山ほととぎすなどか来鳴かぬ

 

(訳)藤の花の盛りはもう過ぎてしまった。なのに、山の時鳥よ、お前はどうしてここへ来て鳴かないのか。(同上)

 

 

 藤と時鳥、季節の組み合わせ、そして組み合わせのずれに惑う心情、しかし、自然に対する優雅なゆとりさえ感じさせる。

 

 

 今回から「吉野方面シリーズ」である。

大淀町HPによると、「今木地区の蔵王権現堂(泉徳寺) を中心とした一帯は、中世から近世にかけての修験道の歴史と、民間信仰のかたちを残している貴重な場所です。

山上の山門には延宝5年(1677年)の棟木が残っています。もと本寺にあった梵鐘の銘には、「権現応(堂?)跡 小角(おづぬ)草創 洪基歳雋再興至維時(持)明暦3年(1653年)本願海雄」とあって、この頃の住職・海雄さんが山門の整備とあわせて権現堂を再興したようです。

山門口に建つ一対の石灯籠には、『天狗山聖大権現』『宝暦6年(1756年)』の銘があります。この石灯籠は、今木の地域の『神仏習合』(神社と寺院が融合した信仰のかたち)の風習を残す貴重なものです。このころ、権現堂のあたりを指して『てんぐ山』という名前がついていたこともわかります。」と解説されている。

 

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仁王門


 

 そこだけが時が止まったような古びた仁王門に向かって左手に万葉歌碑、右手に斉明天皇の歌碑「今城なる小むれが上に雲たにも著(しる)くし立てば何か嘆かむ(書記歌謡一一六)」がある。

 山門の左右に仁王像がにらみを利かしている。山門の上部中央には天狗が団扇を持って坐している。

 

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斉明天皇の歌碑

 

※※※ 吉野万葉歌碑めぐり ※※※

 

 9月24日「吉野万葉歌碑めぐり」に出かけた。

ルートは、蔵王権現堂(泉徳寺)➡鈴ヶ森行者堂➡近鉄吉野駅➡葛上白石神社➡老人福祉センター中荘温泉➡宮滝野外学校➡河川交流センター➡吉野歴史資料館➡桜木神社➡菜摘十二社神社➡喜佐谷公民館➡下市中央公園、である。

 

 吉野町のHPの「吉野宮のイメージと国文学」のところにある「宮滝周辺の万葉歌碑」のマップと資料を参考に上記のルートを計画した。先達のブログや記録写真なども参考にさせてもらった。

 吉野は万葉集の一つのメッカである。コロナ禍でも桜の時期の交通規制等もあり、これまで躊躇してきたが、思い切って行くことにしたのである。あこがれの吉野である。吉野の万葉歌碑、よしと良く見ての気持ちである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「吉野町HP」

★「吉野郡大淀町HP」

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その765)―海南市名高 海南駅南高架下交差点南西角方向―万葉集 巻七 一三九六

●歌は、「紫の名高の浦のなのりその磯に靡かむ時待つ我れを」である。

 

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海南市名高 海南駅南高架下交差点南西角方向万葉歌碑(旧市役所にあったもの)

●歌碑は、海南市名高 海南駅南高架下交差点南西角方向にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その756)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆紫之 名高浦乃 名告藻之 於礒将靡 時待吾乎

               (作者未詳 巻七 一三九六)

 

≪書き下し≫紫(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)のなのりその礒に靡(なび)かむ時待つ我(わ)れを

 

(訳)名高の浦に生えるなのりその磯に靡く時、その時をひたすら待っている私なのだよ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)むらさきの【紫の】( 枕詞 ):①植物のムラサキで染めた色のにおう(=美シクカガヤク)ことから、「にほふ」にかかる。②ムラサキは染料として名高いことから、地名「名高(なたか)」にかかる。 ③ムラサキは濃く染まることから、「こ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)なのりそ 名詞:海藻のほんだわらの古名。正月の飾りや、食用・肥料とする。 ※和歌では「な告(の)りそ(=告げるな)」の意をかけて用い、また、「名(な)」を導く序詞(じよことば)の一部を構成する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 「名高」、「なのりそ」、「靡く」と「な」がリズミカルにひびく歌である。

 

万葉集 四」(伊藤 博 著 角川ソフィア文庫)の「初句索引」を参考に「紫の」ではじまる万葉集の歌をみてみよう。

なお、「訳」はすべて、伊藤 博 著 「万葉集 一から四」(角川ソフィア文庫)より引用させていただいた。

 

 

◆紫の糸をぞ我(わ)が搓(よ)るあしひきの山橘(やまたちばな)を貫(ぬ)かむと思ひて(作者未詳 巻七 一三四〇)

(訳)紫色の糸を、私は今一生懸命搓り合わせている。山橘の実、あの赤い実をこれに通そうと思って。

(注)「山橘(やまたちばな)を貫(ぬ)く」は、男と結ばれる譬え

 

◆紫の帯(おび)の結びも解きもみずもとなや妹(いも)に恋ひわたりなむ(作者未詳 巻十二 二九七四)

(訳)紫染めの帯の結び目さえ解くこともなく、ただいたずらにあの子に焦がれつづけることになるのか。

 

◆紫の粉潟(こかた)の海に潜(かづ)く鳥玉潜き出(で)ば我(わ)が玉にせむ(作者未詳 巻十六 三八七〇)

(訳)紫の粉(こ)ではないが、その粉潟(こかた)の海にもぐってあさる鳥、あの鳥が真珠を拾い出したら、それは俺の玉にしてしまおう。

(注)「潜(かづ)く鳥」は親の譬え。

(注)「玉」は女の譬え。

(注)「玉潜き出(で)ば」は、親が娘を無事育て上げて、の譬え。

 

◆紫(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)のなのりその礒に靡(なび)かむ時待つ我(わ)れを(作者未詳 巻七 一三九六)

(訳)名高の浦に生えるなのりその磯に靡く時、その時をひたすら待っている私なのだよ。

 

◆紫(むらさき)の名高(なたか)の浦の靡(なび)き藻の心は妹(いも)に寄りにしものを(作者未詳 巻十一 二七八〇)                        

(訳)紫の名高の浦の、波のまにまに揺れ靡く藻のように、心はすっかり靡いてあの子に寄りついてしまっているのに。

(注)上三句は序。「寄りにし」を起こす。

 

◆紫(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)の真砂地(まなごつち)袖のみ触れて寝ずかなりなむ(作者未詳 巻七 一三九二)

(訳)名高の浦の細かい砂地には、袖が濡れただけで、寝ころぶこともなくなってしまうのであろうか。

(注)まなご【真砂】名詞:「まさご」に同じ。 ※「まさご」の古い形。上代語。 ⇒まさご【真砂】名詞:細かい砂(すな)。▽砂の美称。 ※古くは「まなご」とも。「ま」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)真砂土は、愛する少女の譬えか。

 

◆紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも(大海人皇子 巻一 二十一)

(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。

 

◆紫草(むらさき)の根延(ねば)ふ横野(よこの)春野(はるの)には君を懸(か)けつつうぐひす鳴くも(作者未詳 巻十 一八二五)

(訳)紫草(むらさきぐさ)の根を張る横野のその春の野には、あなたを心にかけるようにして、鴬が鳴いている。

 

◆紫のまだらのかづら花やかに今日(けふ)見し人に後(のち)恋いむかも(作者未詳 巻十二 二九九三)

(訳)紫染めのだんだら縵(かずら)のように、はなやかに美しいと今日見たあの人に、あとになって恋い焦がれることだろうな。

 

◆紫の我が下紐の色に出でず恋ひかも痩(や)せむ逢よしもなみ(作者未詳 巻十二 二九七六)

(訳)紫染めの私の下紐の色が外からは見えないように、顔色にも思いを出せないまま、この身は恋ゆえに痩せ細ってゆくのでしょうか。お逢いする手立てもないので。

 (注)上二句は序。「色に出でず」を起こす

 

 「紫の」と詠いだすだけで、なにかしら艶っぽいというか色っぽいというかそういった雰囲気を醸し出すように思える。恋の機微が感じられるのである。

 


 前回、海南市を訪れ歌碑めぐりをしたときに宿題となった旧海南市役所の歌碑、ご対面なるか。

 市役所で聞いてもわからず、WEBやブログで検索、キーワードは「ロータリークラブ」と絞り込み、前日の電話では空振りであったが、係りの方の予定を教えていただき、海南駅で時間調整をし、事務所に戻られる頃合いと電話を掛ける。

 丁寧に教えていただく。どうも、海南駅の南高架下交差点の歌碑(巻十一 二七三〇)の近くのようである。道路反対側の川の側と言うことであった。わからなければもう一度電話してくださいと丁寧に言っていただく。言われた通り、二七三〇歌の歌碑近くまで行く。歌碑から対角線上に、ブログで見た写真の「青色申告・振替納税推進の街」の青色の看板が目に飛び込んできた。間違いない!

 

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歌碑と歌の解説案内板



 交差点をはさんで対角線上に歌碑が2基あるのである。リベンジ成功。ロータリークラブにお礼の電話を入れ一件落着。

 簡単に巡り逢えそうで意外とてこずる歌碑がある。出会えた時の感動といっても、本人にしかわからないと思う。このようなことも読んでいただいた方には心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一から四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その764)―和歌山市 紀三井寺本堂前―万葉集 巻七 一二一三

●歌は、「名草山言にしありけり我が恋ふる千重の一重も慰めなくに」である、

 

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和歌山市 紀三井寺本堂前万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、和歌山市 紀三井寺本堂前にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、一二一二から一二一七歌まで一つの歌群をなしており、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その739)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

◆名草山 事西在来 吾戀 千重一重 名草目名國

               (作者未詳 巻七 一二一三)

 

≪書き下し≫名草山(なぐさやま)言(こと)にしありけり我(あ)が恋ふる千重(ちへ)の一重(ひとへ)も慰(なぐさ)めなくに                        

 

(訳)名草山とは言葉の上だけのことであったよ。私が故郷に恋い焦がれる心の千重に重なるその一つさえも慰めてくれないのだから。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)名草山:和歌山県紀三井寺の山。高さ229m

(注)千重の一重(読み)ちえのひとえ:数多くあるうちのほんの一部分。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

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紀三井寺本堂

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鐘楼

 

 「千重(ちへ)の一重(ひとへ)も」という言い方は、女性のいじらしさを感じさせる。

他の歌もみてみよう。

 

 題詞は、「冬十一月大伴坂上郎女發帥家上道超筑前國宗形郡名兒山之時作歌一首<冬の十一月に、大伴坂上郎女、帥の家を発(た)ちて上(のぼ)り、筑前(つくしのみちのくち)の国の宗像(ぬなかた)の郡(こほり)の名児(なご)の山を越ゆる時に作る歌一首>である。

 

◆大汝 小彦名能 神社者 名著始鷄目 名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 干重之一重裳 奈具佐米七國

                (大伴坂上郎女 巻六 九六三)

 

≪書き下し≫大汝(おほなむち) 少彦名(すくなびこな)の 神こそば 名付(なづ)けそめけめ 名のみを 名児山と負(お)ひて 我(あ)が恋の 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)めなくに

 

(訳)この名児山の名は、神代の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命がはじめて名付けられた由緒深い名だということであるけれども、心がなごむという、名児山という名を背負ってうるばかりで、私の苦しい恋心の、千のうちの一つさえも慰めてはくれないのではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)名児山:福岡県福津市宗像市の間の山

(注)なづけそむ【名付け初む】他動詞:初めて名前を付ける。言いはじめる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

もう一首みてみよう。

◆打延而 思之小野者 不遠 其里人之 標結等 聞手師日従 立良久乃 田付毛不知 居久乃 於久鴨不知 親之 己之家尚乎 草枕 客宿之如久 思空 不安物乎 嗟空 過之不得物乎 天雲之 行莫ゝ 蘆垣乃 思乱而 乱麻乃 麻笥乎無登 吾戀流 千重乃一重母 人不令知 本名也戀牟 氣之緒尓為而

               (作者未詳 巻十三 三二七二)

 

≪書き下し≫うちはへて 思ひし小野(をの)は 、間近(まちか)き その里人(さとひと)の 標(しめ)結(ゆ)ふと 聞きてし日より 立てらくの たづきも知らに 居(を)らくの 奥処(おくか)も知らに にきびにし 我(わ)が家(いへ)すらを 草枕 旅寝(たびね)のごとく 思ふそら 苦しきものを 嘆くそら 過すぐしえぬものを 天雲(あまくも)の ゆくらゆくに 葦(あし)垣(かき)の 思ひ乱れて 乱れ麻(を)の 麻笥(をけ)をなみと 我(あ)が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 人知れず もとなや恋ひむ 息(いき)の緒(を)にして

 

(訳)私がずっと気にかけていた小野は、そのすぐ近くの里人が標縄(しめなわ)を張って我がものとしていると聞いた日から、立ちあがる手がかりもわからず、身を置くあてもわからずお先まっ暗なので、住み慣れた我が家さえも、草を枕の旅寝のように落ち着かず、天雲のようにゆらゆらと心揺れて、葦垣のように千々に思い乱れて、乱れに乱れた麻のように心の収めようもなく、この恋しさの千に一つもあの人に知られないまま恋い焦がれるばかりなのであろうか。息も絶え絶えに。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)うちはへ【打ち延へ】副詞:①ずっと長く。②特に。(学研)

(注)小野:人里の野、ここでは女の譬え

(注)里人:女と同じ里の男

(注)標結ふ:女を占有することの譬え

(注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ※参考⇒古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)

(注)おくか【奥処】名詞:①奥まった所。果て。②将来。 ※「か」は場所の意の接尾語(学研)

(注)にきぶ【和ぶ】自動詞:安らかにくつろぐ。なれ親しむ。(学研)

(注)思ふそら:思う心は不安でならないのに

(注)ゆくらゆくらなり:形容動詞:ゆらゆらと揺れ動く。(学研)

(注)をけ【麻笥】名詞:「績(う)み麻(を)」を入れておく器。檜(ひのき)の薄板を曲げて円筒形に作る。「麻小笥(をごけ)」とも。(学研)

(注)いきのを【息の緒】名詞:①命。②息。呼吸。 ※参考⇒「を(緒)」は長く続くという意味。多くは「いきのをに」の形で用いられ、「命がけで」「命の綱として」と訳される。(学研)

 

 

 予定では、シモツピアーランドの次は、粟嶋神社であったが、ナビ設定時、よく確かめずに「淡島神社」としてしまったようである。ナビ通り走っていると、海南市からはずれ、紀三井寺付近まで来てしまっている。引き返すには時間のロスが大きい。粟島神社は次の機会にすることにし、紀三井寺に変更したのである。

 

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紀三井寺参道と楼門

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三井水のひとつ

 紀三井寺は、西国第2番の札所もあり、名前の由来は、三つの井戸「吉祥水(きっしょうすい)」「楊柳水(ようりゅうすい)」「清浄水(しょうじょうすい)」から来ているという。

楼門をくぐると、231段の参道階段があり、登りきると美しい和歌浦湾が遠望できる。

 この231段の石段は「結縁坂(けちえんざか)」といわれるそうである。

 紀三井寺のHP「紀三井寺の歴史」に次のように書かれている。

「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。

 ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。

困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社宮司の娘『おかよ』でした。

 これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。

 後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。

 紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来『結縁坂』と呼ばれるようになりました。」

 

 楼門のところで拝観料金を支払う。ついでに万葉歌碑の場所を尋ねる。参道を登って左手、本堂の前、と教えていただく。

 参道を見上げた時、途中にありますようにと思ったが、歌碑に巡り逢うには、登りきることが大前提となる。参道左手に「エレベーター設置工事中」の看板が目に入ったが・・・。

 歌の通り、「名草山(なぐさやま)言(こと)にしありけり」である。

 一段、一段、しだいに息が荒くなる。コロナ対策のマスクはポケットにしまいこむ。

 ようやく登りきる。本堂前へ。足がもつれる。植え込みのところにひっそりと歌碑が鎮座していた。

 

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紀三井寺石段

 231段は下りの方が脚への負担が大きい。やっとの思いで楼門のところまで帰って来る。次は、リベンジの旧海南市役所の歌碑である。

 前回果たせなかった歌碑、先達のブログやいろいろなHP等々見直し、キーワード「ロータリークラブ」に絞り込んで、昨日電話をしたが、係りの人は帰られた後だった。

 祈る思いで電話を入れると、係りの人は外出で1時間ほどしたら事務所に戻られるとのことであった。

 海南駅で時間調整することにし、紀三井寺をあとにし、海南駅に向かった。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「紀三井寺の歴史」 (紀三井寺HP)