万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その764)―和歌山市 紀三井寺本堂前―万葉集 巻七 一二一三

●歌は、「名草山言にしありけり我が恋ふる千重の一重も慰めなくに」である、

 

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和歌山市 紀三井寺本堂前万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、和歌山市 紀三井寺本堂前にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、一二一二から一二一七歌まで一つの歌群をなしており、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その739)」で紹介している。

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◆名草山 事西在来 吾戀 千重一重 名草目名國

               (作者未詳 巻七 一二一三)

 

≪書き下し≫名草山(なぐさやま)言(こと)にしありけり我(あ)が恋ふる千重(ちへ)の一重(ひとへ)も慰(なぐさ)めなくに                        

 

(訳)名草山とは言葉の上だけのことであったよ。私が故郷に恋い焦がれる心の千重に重なるその一つさえも慰めてくれないのだから。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)名草山:和歌山県紀三井寺の山。高さ229m

(注)千重の一重(読み)ちえのひとえ:数多くあるうちのほんの一部分。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

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紀三井寺本堂

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鐘楼

 

 「千重(ちへ)の一重(ひとへ)も」という言い方は、女性のいじらしさを感じさせる。

他の歌もみてみよう。

 

 題詞は、「冬十一月大伴坂上郎女發帥家上道超筑前國宗形郡名兒山之時作歌一首<冬の十一月に、大伴坂上郎女、帥の家を発(た)ちて上(のぼ)り、筑前(つくしのみちのくち)の国の宗像(ぬなかた)の郡(こほり)の名児(なご)の山を越ゆる時に作る歌一首>である。

 

◆大汝 小彦名能 神社者 名著始鷄目 名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 干重之一重裳 奈具佐米七國

                (大伴坂上郎女 巻六 九六三)

 

≪書き下し≫大汝(おほなむち) 少彦名(すくなびこな)の 神こそば 名付(なづ)けそめけめ 名のみを 名児山と負(お)ひて 我(あ)が恋の 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)めなくに

 

(訳)この名児山の名は、神代の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命がはじめて名付けられた由緒深い名だということであるけれども、心がなごむという、名児山という名を背負ってうるばかりで、私の苦しい恋心の、千のうちの一つさえも慰めてはくれないのではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)名児山:福岡県福津市宗像市の間の山

(注)なづけそむ【名付け初む】他動詞:初めて名前を付ける。言いはじめる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

もう一首みてみよう。

◆打延而 思之小野者 不遠 其里人之 標結等 聞手師日従 立良久乃 田付毛不知 居久乃 於久鴨不知 親之 己之家尚乎 草枕 客宿之如久 思空 不安物乎 嗟空 過之不得物乎 天雲之 行莫ゝ 蘆垣乃 思乱而 乱麻乃 麻笥乎無登 吾戀流 千重乃一重母 人不令知 本名也戀牟 氣之緒尓為而

               (作者未詳 巻十三 三二七二)

 

≪書き下し≫うちはへて 思ひし小野(をの)は 、間近(まちか)き その里人(さとひと)の 標(しめ)結(ゆ)ふと 聞きてし日より 立てらくの たづきも知らに 居(を)らくの 奥処(おくか)も知らに にきびにし 我(わ)が家(いへ)すらを 草枕 旅寝(たびね)のごとく 思ふそら 苦しきものを 嘆くそら 過すぐしえぬものを 天雲(あまくも)の ゆくらゆくに 葦(あし)垣(かき)の 思ひ乱れて 乱れ麻(を)の 麻笥(をけ)をなみと 我(あ)が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 人知れず もとなや恋ひむ 息(いき)の緒(を)にして

 

(訳)私がずっと気にかけていた小野は、そのすぐ近くの里人が標縄(しめなわ)を張って我がものとしていると聞いた日から、立ちあがる手がかりもわからず、身を置くあてもわからずお先まっ暗なので、住み慣れた我が家さえも、草を枕の旅寝のように落ち着かず、天雲のようにゆらゆらと心揺れて、葦垣のように千々に思い乱れて、乱れに乱れた麻のように心の収めようもなく、この恋しさの千に一つもあの人に知られないまま恋い焦がれるばかりなのであろうか。息も絶え絶えに。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)うちはへ【打ち延へ】副詞:①ずっと長く。②特に。(学研)

(注)小野:人里の野、ここでは女の譬え

(注)里人:女と同じ里の男

(注)標結ふ:女を占有することの譬え

(注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ※参考⇒古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)

(注)おくか【奥処】名詞:①奥まった所。果て。②将来。 ※「か」は場所の意の接尾語(学研)

(注)にきぶ【和ぶ】自動詞:安らかにくつろぐ。なれ親しむ。(学研)

(注)思ふそら:思う心は不安でならないのに

(注)ゆくらゆくらなり:形容動詞:ゆらゆらと揺れ動く。(学研)

(注)をけ【麻笥】名詞:「績(う)み麻(を)」を入れておく器。檜(ひのき)の薄板を曲げて円筒形に作る。「麻小笥(をごけ)」とも。(学研)

(注)いきのを【息の緒】名詞:①命。②息。呼吸。 ※参考⇒「を(緒)」は長く続くという意味。多くは「いきのをに」の形で用いられ、「命がけで」「命の綱として」と訳される。(学研)

 

 

 予定では、シモツピアーランドの次は、粟嶋神社であったが、ナビ設定時、よく確かめずに「淡島神社」としてしまったようである。ナビ通り走っていると、海南市からはずれ、紀三井寺付近まで来てしまっている。引き返すには時間のロスが大きい。粟島神社は次の機会にすることにし、紀三井寺に変更したのである。

 

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紀三井寺参道と楼門

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三井水のひとつ

 紀三井寺は、西国第2番の札所もあり、名前の由来は、三つの井戸「吉祥水(きっしょうすい)」「楊柳水(ようりゅうすい)」「清浄水(しょうじょうすい)」から来ているという。

楼門をくぐると、231段の参道階段があり、登りきると美しい和歌浦湾が遠望できる。

 この231段の石段は「結縁坂(けちえんざか)」といわれるそうである。

 紀三井寺のHP「紀三井寺の歴史」に次のように書かれている。

「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。

 ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。

困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社宮司の娘『おかよ』でした。

 これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。

 後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。

 紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来『結縁坂』と呼ばれるようになりました。」

 

 楼門のところで拝観料金を支払う。ついでに万葉歌碑の場所を尋ねる。参道を登って左手、本堂の前、と教えていただく。

 参道を見上げた時、途中にありますようにと思ったが、歌碑に巡り逢うには、登りきることが大前提となる。参道左手に「エレベーター設置工事中」の看板が目に入ったが・・・。

 歌の通り、「名草山(なぐさやま)言(こと)にしありけり」である。

 一段、一段、しだいに息が荒くなる。コロナ対策のマスクはポケットにしまいこむ。

 ようやく登りきる。本堂前へ。足がもつれる。植え込みのところにひっそりと歌碑が鎮座していた。

 

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紀三井寺石段

 231段は下りの方が脚への負担が大きい。やっとの思いで楼門のところまで帰って来る。次は、リベンジの旧海南市役所の歌碑である。

 前回果たせなかった歌碑、先達のブログやいろいろなHP等々見直し、キーワード「ロータリークラブ」に絞り込んで、昨日電話をしたが、係りの人は帰られた後だった。

 祈る思いで電話を入れると、係りの人は外出で1時間ほどしたら事務所に戻られるとのことであった。

 海南駅で時間調整することにし、紀三井寺をあとにし、海南駅に向かった。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「紀三井寺の歴史」 (紀三井寺HP)