万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その763)―海南市下津町 シモツピアーランド入口―万葉集 巻十二 三〇七二

●歌は、「大崎の荒磯の渡り延ふ葛のゆくへもなくや恋ひわたりなむ」である。

 

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海南市下津町 シモツピアーランド入口万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、海南市下津町 シモツピアーランド入口にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆大埼之 有礒乃渡 延久受乃 徃方無哉 戀度南

               (作者未詳 巻十二 三〇七二)

 

≪書き下し≫大崎(おほさき)の荒礒(ありそ)の渡り延(は)ふ葛(くず)のゆくへもなくや恋ひわたりなむ

 

(訳)大崎の荒磯の渡し場、その岩にまといつく葛があてどもなく延びるように、これからどうなるのか見通しもないまま恋い焦がれつづけることになるのか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)大崎:和歌山市加太の岬。

(注)上三句は序。「ゆくへもなく」を起こす。

 

 歌碑は、和歌山県海南市下津町大崎シモツピアーランド入口にある。この「大崎」という地名にちなんで歌碑が建てられたようである。伊藤 博氏は脚注で「この歌の大崎は、和歌山市加太の岬」とされている。前後の歌をみても、小生には、海南か加太か判断しようがない。

 

 ここでは、「葛(くず)」に焦点を合わせて書き進むことにする。

 葛を詠った歌は、万葉集では十七首収録されている。万葉びとにとって生活に役立つ植物だったからである。これに関しては、奈良県HPの「はじめての万葉集 vol.28」に詳しく書かれているので引用させていただく。歌は、「真田葛延(まくずは)ふ 夏野(なつの)の繁く かく恋(こ)ひばまことわが命(いのち)常(つね)ならめやも 作者未詳 巻十 一九八五歌(訳:ま葛ののびる夏野のように、しきりにこれほど恋うていたなら、本当に、私の命はどうかなってしまうのではないだろうか。)」である。そして解説がなされている。

 「夏から秋にかけて、河川敷や郊外の歩道、高速道路の路肩などに大きな葉っぱと長いツルが特徴的な植物を目にしたことはありませんか?紅紫色の香しい花房がついている時もあります。それが葛(くず)です。

 葛は『万葉集』に詠まれており、古代から身近にある植物でした。強靭なツルが長くのびた様子をあらわす『真田葛延ふ』は永く絶えないことを比喩した表現です。『かく恋ひ』はそんな葛のツルが夏野に生い茂るように、絶えず思い続ける恋をいいます。苦しい恋ですね。

 繁殖力が旺盛ですので現在は厄介な雑草と化している葛ですが、じつはとても生活に役立つ植物でもあります。

 たとえば、根は薬用や食用になります。葛根湯(かっこんとう)や葛粉(くずこ)はご存知ですね。なかでも吉野の本葛は高級和菓子の原料となることから全国的にも有名です。ちなみに古代の甘味料に『甘葛(あまずら)』がありますが、これは蔓(つる)(一説にはアマチャヅル)から抽出したもので、葛が原料ではありません。

 葉にはアミノ酸が豊富に含まれ、食べることができます。家畜の飼料として利用していた地域もあったそうです。また裏面が白いため、風に吹かれると遠くからも目立って、独特の風情があります。

 ツルからは良質の繊維がとれ、これを紡いで織ったものを葛布(かっぷ)といい、絹のような美しい光沢があります。今も静岡県掛川(かけがわ)で数軒の工房がその技術を伝えています。

 このように、葛には無駄な部分がほとんどないといってよいでしょう。有効に利用したいものですね。(本文 万葉文化館 小倉久美子)」とある。

 また、「葛」の名前の由来について、吉野町の国栖(くず)という地域が、その昔、葛粉の産地であったことに由来するといわれていると書かれている。

 

 「葛の裏風」という言葉があるように、葛の葉は少しの刺激にも反応し裏返って白い葉を見せる性質がある。このことから、心(うら)・恨み・うらめし、などにかかる枕詞「葛の葉の」が生まれたという。

 

次の歌もおもしろいのでみてみよう。

 

◆水茎之 岡乃田葛葉緒 吹變 面知兒等之 不見比鴨

               (作者未詳 巻十二 三〇六八)

 

≪書き下し≫水茎(みづくき)の岡の葛葉(くずは)を吹きかへし面(おも)知る子らが見えぬころかも

 

(訳)岡の葛(くず)の葉を風が吹き返して裏葉の白さが目につくように、はっきりと顔を見知っているあの子がいっこうに姿を見せない今日このごろだ。(同上)

(注)上三句は序。「面知る」を起こす。白い裏が見えるの意。

 

 一〇二三歌の歌碑のあるY字型三叉路から、葛が這うような上り道を登って来たのである。事前にストリートビューで検証しているので楽勝であった。シモツピアーランドは海釣り公園である。入り口と書いているが、ここから下って施設にいくのである。

 歌碑のあるところは、海が遠望できこちらも風光明媚な所である。

 

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海を背景にした万葉歌碑

歌碑と風景を堪能して、次の目的地、粟嶋神社に向かうことに。ここで、立神社に続いて、今回2度目のナビインプット間違いをしてしまい、あきらめざるをえなくなってしまったのである。

カーナビで、一字一字仮名入力していき、やっと候補の選択になったとき「淡島神社 和歌山」で確定しまったようである。カーナビに従って車を走らせていると、紀三井寺付近まで来てしまっている。仕方なく、粟島神社を次の機会にまわし、紀三井寺へと変更したのである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「はじめての万葉集 vol.28」 (奈良県HP)

 

万葉歌碑を訪ねて(その762)―海南市下津町大崎―万葉集 巻六 一〇二三

●歌は、「大崎の神の小浜は狭けども百舟人も過ぐと言はなくに」である。

 

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海南市下津町大崎万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、海南市下津町大崎にある。

 

●歌をみていこう。

 この歌は、題詞「石上乙麻呂卿配土左國之時歌三首幷短歌」<石上乙麻呂卿(いそのかみのおとまろのまへつきみ)土佐の国(とさのくに)に配(なが)さゆる時の歌三首 幷せて短歌>の一〇一九から一〇二三歌の歌群のうちの反歌である。

この歌群の歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その761)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆大埼乃 神之小濱者 雖小 百船純毛 過迹云莫國

               (作者未詳 巻六 一〇二三)

 

≪書き下し≫大崎(おほさき)の神の小浜(をばま)は狭(せば)けども百舟人(ももふなびと)も過ぐと言はなくに

 

(訳)ここ大崎の神の小浜は狭い浜ではあるけれど、どんな舟人も楽しんで、この港を素通りするとは言わないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)大崎:和歌山県海南市下津町大崎。近世までここから四国に渡った。

(注)もも【百】接頭語:数の多いことをさす。「もも枝(え)」「もも度(たび)」。 ※多くの場合、「百」は実数ではなく、比喩(ひゆ)的に用いられる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

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歌碑の歌の解説歌碑案内板

 

 明日香村からこの辺りまでをグーグル地図でルート検索してみると、約85km、徒歩17時間30分とでる。

ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その761)」でも書いたが、浮気して流罪に問われた夫を紀州まで見送りに行き、神に祈り「急 令變賜根 本國部尓(どうか一日も早くお帰えしください。もともとの国大和の方に)」(一〇二〇歌)と願う妻のいじらしさ。夫の方は妻の気持ちをどのように思っているいるのだろう。

 本人の立場での歌とはいえ、一〇二二歌(長歌)では、「父公尓 吾者真名子叙 妣刀自尓 吾者愛兒叙」と詠うも、妻に対しては一言もないのである。

  歌碑の解説案内板にあるように、「大崎はその頃から舟人の必ず立ち寄るという風光明媚な地であった。」のである。この短歌も、風光明媚な小浜を素通りする悲嘆を述べており妻への気持ちは微塵もないのである。

石上乙麻呂は、天平十一年(739年)、従四位下左大弁の時に、藤原宇合の未亡人久米若売に通じた罪で土佐に流されたのである。二年後の天平十三年頃許されている。

 

得生寺からは、有田川にそってほぼ西に進み、有田市宮崎交差点を右折、国道42号線を下津方面に向かう。下津町の上交差点を左折海岸に沿う形で現地に。

 下津港は、紀伊国屋文左衛門船出の地といわれ、みかん及び材木などの集散地として栄えたところである。今回は立ち寄らなかったが、「紀伊国屋文左衛門船出の碑」がある。そこから海岸線を約3分ほど行くとY字型の三叉路にでる。この三叉路の左手に海を背に万葉歌碑がある。

この歌碑のあるポケットパーク的なところに「和歌山県の朝日・夕陽100選」の碑が建てられている。選定ポイントとして、「大崎万葉歌碑から望む大崎湾に沈む夕陽は、あたり一面を深紅に包み込みきれいである。さらに、農道大崎線から見る夕陽を浴びた海・山が絶景。」と書かれている。昼間の光景でも絶景である。

 

 ここからは、シモツピアーランド入口近くの歌碑を求めて、三叉路の右手、山側への登り坂のルートをとるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「和歌山県の朝日・夕陽100選」

★「紀伊国屋文左衛門船出の碑」 (海南観光ナビ)

万葉歌碑を訪ねて(その761)―海南市下津町 立神社・仁義児童館前―万葉集 巻六 一〇二二

●歌は、「父君に 我れは愛子ぞ 母刀自に 我れは愛子ぞ 参ゐ上る 八十氏人の 手向する 畏の坂に 弊奉り 我れはぞ追へる 遠き土佐道を」である。

 

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海南市下津町 立神社・仁義児童館前万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、海南市下津町 立神社・仁義児童館前にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆父公尓 吾者真名子叙 妣刀自尓 吾者愛兒叙 参昇 八十氏人乃 手向為等 恐乃坂尓 幣奉 吾者叙追 遠杵土左道矣

              (作者未詳 巻六 一〇二二)

 

≪書き下し≫父君(ちちぎみ)に 我(わ)れは愛子(まなご)ぞ 母(はは)刀自(とじ)に 我(わ)れは愛子ぞ 参(ま)ゐ上(のぼ)る 八十氏人(やそうぢひと)の 手向(たむけ)する 畏(かしこ)の坂に 弊(ぬさ)奉(まつ)り 我(わ)れはぞ追へる 遠き土佐道(とさぢ)を

 

(訳)父君にとって私はかけがえのない子だ。母君にとってわたしはかけがえのない子だ。なのに、都に上るもろもろの官人たちが、手向(たむ)けをしては越えて行く恐ろしい国境(くにざかい)の坂に、幣(ねさ)を捧(ささ)げて無事を祈りながら、私は一路進まなければならぬのだ。遠い土佐への道を。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ははとじ【母刀自】名詞:母君。母上。▽母の尊敬語。(学研)

(注)畏の坂:恐ろしい神のいる国境の坂

 

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歌の解説案内板

 

 立神社(たてがみしゃ)・仁義児童館前の歌碑の説明解説板に「昔から仁義百垣内から田殿村田角への坂は「賢の坂」「賢越え」と呼ばれ、仁義と吉備を結ぶ重要な街道であった」と書かれている。

 

 

 一〇一九から一〇二三歌の歌群の題詞は、「石上乙麻呂卿配土左國之時歌三首幷短歌」<石上乙麻呂卿(いそのかみのおとまろのまへつきみ)土佐の国(とさのくに)に配(なが)さゆる時の歌三首 幷せて短歌>である。

 

 すべての歌をみてみよう。

 

◆石上 振乃尊者 弱女乃 或尓縁而 馬自物 縄取附 肉自物 弓笶圍而 王 命恐 天離 夷部尓退 古衣 又打山従 還来奴香聞

              (作者未詳 巻六 一〇一九)

 

≪書き下し≫石上(いそのかみ) 布留(ふる)の命(みこと)は たわや女(め)の 惑(まど)ひによりて 馬じもの 綱(つな)取り付け 鹿(しし)じもの 弓矢囲(かく)みて 大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 天離(あまざか)る 鄙辺(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土山(まつちやま)より 帰り来(こ)ぬかも

 

(訳)石上布留の命は、たわやかな女子(おなご)の色香に迷ったために、まるで、馬であるかのように縄をかけられ、鹿であるかのように弓矢で囲まれて、大君のお咎(とが)めを恐れ畏んで遠い田舎に流されて行く。古衣をまた打つという真土山、その国境の山から、引き返して来ないものだろうか。(同上)

(注)いそのかみ【石の上】分類枕詞:今の奈良県天理市石上付近。ここに布留(ふる)の地が属して「石の上布留」と並べて呼ばれたことから、布留と同音の「古(ふ)る」「降る」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)石上乙麻呂であるから「石上布留の命」(石上布留の殿様)と詠い出し、見送る都人の気持ちで詠った形である。

(注)うまじもの【馬じもの】副詞:(まるで)馬のように。(学研)

(注)ししじもの【鹿じもの・猪じもの】分類枕詞:鹿(しか)や猪(いのしし)のようにの意から「い這(は)ふ」「膝(ひざ)折り伏す」などにかかる。(学研)

(注)ふるごろも【古衣】〔「ふるころも」とも〕( 枕詞 ):古衣をまた打って柔らかくすることから、「また打つ」の類音の地名「まつちの山」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

石上乙麻呂は、藤原宇合の未亡人久米若売に通じた罪で土佐に流されたのである。歌群は、都から紀伊そして土佐と流されるルートに沿って物語風に作られている。

 

「古衣 又打山従」と詠んだのは、浮気なんかするんじゃねーよ、古女房が一番というこの歌をふまえているのだろう。

 

◆橡之 衣解洗 又打山 古人尓者 猶不如家利

               (作者未詳 巻十二 三〇〇九)

 

≪書き下し≫橡(つるはみ)の衣(きぬ)解(と)き洗ひ真土山(まつちやま)本(もと)つ人にはなほ及(し)かずけり

 

(訳)橡(つるばみ)染めの地味な衣を解いて洗って、また打つという、真土(まつち)山のような、本つ人―古馴染の女房には、やっぱりどの女も及ばなかったわい。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

 

 

次をみてみよう。

 

◆王 命恐見 刺並 國尓出座 愛哉 吾背乃公矣 繋巻裳 湯ゝ石恐石 住吉乃 荒人神 船舳尓 牛吐賜 付賜将 嶋之埼前 依賜将 礒乃埼前 荒浪 風尓不令遇 莫管見 身疾不有 急 令變賜根 本國部尓

                (作者未詳 巻六 一〇二〇/一〇二一)

 

≪書き下し≫大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我(わ)が背の君(きみ)を かけまくも ゆゆし畏(かしこ)し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ) 船舳(ふなのへ)に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々(さきざき) 寄りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風にあはせず 障(つつ)みなく 病(やまひ)あらせず 速(すむや)けく 帰(かへ)したまはね もとの国辺(くにへ)に

 

(訳)大君のお咎めを恐れ畏んで、隣り合わせ土佐の国にお出ましになるいとしいわが背の君、ああこの君を、御名(みな)を口にするもの恐れ多い住吉の現人神よ、君のみ船の舳先(へさき)に鎮座ましまし、着き給う島の崎々で、荒い波や風に遭わせないで、故障もなく、病気もさせずに、どうか一日も早くお帰し下さい。もとの国大和の方に。(同上)

(注)はしきやし【愛しきやし】分類連語:ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしきよし」「はしけやし」とも。 ※上代語。 ※参考:愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用い、愛惜や悲哀の情を表す「ああ」「あわれ」の意となる場合もある。「はしきやし」「はしきよし」「はしけやし」のうち、「はしけやし」が最も古くから用いられている。 なりたち⇒形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」(学研)

(注)かけまくも 分類連語:心にかけて思うことも。言葉に出して言うことも。 なりたち⇒動詞「か(懸)く」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」+係助詞(学研)

(注)うしはく【領く】他動詞:支配する。領有する。 ※上代語。

 

 浮気して流罪に問われた夫を紀州まで見送りに行き、神に祈り「急 令變賜根 本國部尓」と願う妻のいじらしさ。夫はどのように思っているいるのだろう。

 本人の立場での歌とはいえ、「父公尓 吾者真名子叙 妣刀自尓 吾者愛兒叙」と詠うも、妻に対しては一言もないのである。次の反歌をみてもしかり。

 反歌もみてみよう、

 

◆大埼乃 神之小濱者 雖小 百船純毛 過迹云莫國

               (作者未詳 巻六 一〇二三)

 

≪書き下し≫大崎(おほさき)の神の小浜(をばま)は狭(せば)けども百舟人(ももふなびと)も過ぐと言はなくに

 

(訳)ここ大崎の神の小浜は狭い浜ではあるけれど、どんな舟人も楽しんで、この港を素通りするとは言わないのに。(同上)

(注)大崎:和歌山県海南市下津町大崎。近世までここから四国に渡った。

 

 

 歌物語的な形をとっている。なお一〇二〇歌は国歌大観編者が一〇二〇、一〇二一の二首に誤って計算したことによる。

 一〇一九歌:見送る都人の気持ちで詠った形である。

 一〇二〇歌/一〇二一歌:紀伊まで見送った妻の立場で詠った形

 一〇二二歌ならびに一〇二三歌:本人の立場で詠った形

 

 

 ここ立神社(たてがみしゃ)に来るまでに、有田市野(野という地名である)の立神社(たてじんじゃ)に寄って来たのである。こう書くと格好いいが、カーナビ入力時、有田市の住所の方を選択してしまったようだ。

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立神社(有田市

神社の名前は同じものが多いので確認が必要とはわかっているが、珍しい名前でヒットすると舞い上がり確認せずに設定してしまったのである。

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立神社(有田市)社殿

 立神社(たてじんじゃ)の境内を探索するも歌碑が見当たらず、社務所に行くも不在で、「御用の方は下記番号におかけ下さい」と張り紙がしてある。電話で問い合わせる。「こちらには歌碑はありません」との返事であった。仕方なく、駐車場に戻ろうと歩いていると前の方から老婦人が歩いてこられ、「先ほどお電話をいただいた方ですか?」と。

 万葉歌碑を巡って京都から来た旨お話しする。遠い所をわざわざと、コロナ禍であるが、親切にいろいろお話をしていただく。海南市下津町の立神社(たてがみしゃ)、地元では、「たてがみさん」と呼んでいる神社の方ではと教えていただく。おまけに、道も結構ややこしいから「嫁に案内させます。」とまでおっしゃっていただく。もちろん丁寧にお断りする。万葉歌碑に関してこれまでもお尋ね等した方々はどなたも非常に親切で、恐縮することばかりである。ありがたいことである。ルート的にはオンラインであるので、ほとんどロスなく予定通り歌碑を見ることができた。

 

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立神社参道と奇岩

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立神社社殿

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立神社鳥居



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

万葉歌碑を訪ねて(その760)―有田糸我町 得生寺―万葉集 巻七 一二一二

●歌は、「足代過ぎて糸鹿の山の桜花散らずもあらなむ帰り来まで」である。

 

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有田糸我町 得生寺万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、有田糸我町 得生寺にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足代過而 絲鹿乃山之 櫻花 不散在南 還来万代

                  (作者未詳 巻七 一二一二)

 

≪書き下し≫足代(あて)過ぎて糸鹿(いとか)の山の桜花(さくらばな)散らずもあらなむ帰り来(く)るまで

 

(訳)足代を通り過ぎてさしかかった糸鹿の山、この糸鹿の山の桜花よ、散らないでいておくれ。私が帰って来るその時まで。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)足代:もと安諦群。今の有田市

(注)糸鹿の山:有田市糸我町の南の山

(注)糸我(読み)いとが:「和歌山県北西部、有田(ありだ)市の一地区。旧糸我村。有田川の南岸に位置し、背後には『万葉集』によく詠まれる糸鹿山(いとがのやま)がある。熊野街道が通り、『中右記(ちゅうゆうき)』に1109年(天仁2)伊止賀坂(いとがのさか)を登るとある。謡曲『雲雀山(ひばりやま)』で知られる中将姫の旧跡とされる得生寺(とくしょうじ)があり、5月に行われる来迎会式は県の無形民俗文化財に指定されている。(コトバンク 小学館 日本大百科全書《ニッポニカ》)

 

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歌碑の歌の解説歌碑案内板

 一二一二から一二一七歌までは一つの歌群を形成している。この六首の歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その739)」で紹介している。

 ➡ こちら739

 

歌のみあげてみる。

◆足代過而 絲鹿乃山之 櫻花 不散在南 還来万代

               (作者未詳 巻七 一二一二)

◆名草山 事西在来 吾戀 千重一重 名草目名國

               (作者未詳 巻七 一二一三)

◆安太部去 小為手乃山之 真木葉毛 久不見者 蘿生尓家里

               (作者未詳 巻七 一二一四)

◆玉津嶋 能見而伊座 青丹吉 平城有人之 待問者如何

               (作者未詳 巻七 一二一五)

◆塩滿者 如何将為跡香 方便海之 神我手渡 海部未通女等

               (作者未詳 巻七 一二一六)

◆玉津嶋 見之善雲 吾無 京徃而 戀幕思者

               (作者未詳 巻七 一二一七)

 

 この六首に出て来る主な地名をひろって、明日香から押手、糸我、紀三井寺、玉津島とグーグルマップを徒歩で検索してみると、130km強、28時間とでる。片道である。山の中は獣道に毛が生えた程度であろう。万葉びとの体力、精神力に驚かされる。

 

思い出されるのは、山上憶良筑前守に任命され九州に赴任したのは六十七歳の時である。太宰帥として大伴旅人が任に着いたのは六十四歳である。あらためて万葉びとの体力、精神力に敬意をはらいたいものである。

 

 

 白崎万葉公園から得生寺までは約40分のドライブである。こじんまりとした手入れの行き届いたお寺である。

 

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有田糸我町 得生寺名碑

「ありだの観光情報」(有田市公式ウェブサイト)によると、得生寺は、「『中将姫の寺』として有名で、本堂、開山堂、庫裡、鐘堂、宝物庫などがあります。天平19年(747年)に右大臣藤原豊成の娘として、生まれた姫が13才のとき継母のため奈良の都から糸我の雲雀山に捨てられ、3年の間に称賛浄土経一千巻を書写したと伝えられています。また、姫の従臣伊藤春時(剃髪して得生という)が姫を養育した所に草庵を結び、安養院と号したのが始めといわれます。(中略)毎年5月14日の会式には近在からの参詣者で賑わいます。会式の際に行われる二十五菩薩の渡御は、昭和43年に県の無形文化財に指定されています。

寺には中将姫の作という蓮糸縫三尊、中将姫の筆という紺地金泥三部経及び称賛浄土経のほか、国の重要美術品に認定された絹本着色の当麻曼陀羅図などがあり、開山堂には中将姫及び春時夫妻の座像が安置されています。これは永禄元年(1558年)に大和の当麻寺から贈られたものです。境内には昭和47年に建てた万葉歌碑があります。」とある。

 

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「中将姫ゆかり」得生寺名案内板

 中将姫の名前は聞いたことがあったが、このような物語があったことは記憶になかった。現地を訪れることは、いろいろな意味で刺激になる。

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得生寺由来案内板

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得生寺境内



 

万葉歌碑を見て境内をのんびり散策して、次の目的地「立神社」へ向かった。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「太陽 №168 特集 万葉集」 (平凡社

★「ありだの観光情報」(有田市公式ウェブサイト)

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書《ニッポニカ》」

万葉歌碑を訪ねて(その759)―日高郡由良町 白崎万葉公園―万葉集 巻九 一六六八

●歌は、「白崎は幸くあり待て大船に真楫しじ貫きまた帰り見む」である。

 

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日高郡由良町 白崎万葉公園万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、日高郡由良町 白崎万葉公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆白埼者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧

               (作者未詳 巻九 一六六八)

 

≪書き下し≫白崎(しらさき)は幸(さき)くあり待て大船(おほぶね)に真梶(まかじ)しじ貫(ぬ)きまたかへり見む

 

(訳)白崎よ、お前は、どうか今の姿のままで待ち続けていておくれ。この大船の舷(ふなばた)に櫂(かい)をいっぱい貫(ぬ)き並べて、また立ち帰って来てお前を見よう(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)白崎:和歌山県日高郡由良町

(注)まかぢ【真楫】名詞:楫の美称。船の両舷(りようげん)に備わった楫の意とする説もある。「まかい」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しじぬく【繁貫く】他動詞:(船のかいなどを)たくさん取り付ける。(学研)

 

 

 この歌を含む一六六七から一六七九歌の歌群の題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。

(注)ここでは太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇をさす。

 

 十三首すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。

 ➡ こちら742

 

「わかやま観光情報」(公益社団法人 和歌山県観光連盟)によると、白崎万葉公園について、次のように紹介されている。

「持統・文武天皇牟婁の湯(白浜温泉)への行幸の折に詠まれた歌を万葉歌碑にして設置しています。万葉の昔から変わらない白崎海岸の美しい景観が詠まれています。」

 

 阪和自動車道広川ICを出て国道42号線を走る。山中の道である。しばらくして県道24号線を進み海岸線を走ると右手にポケットパーク的な白崎万葉公園が見えて来る。現代の和歌を記した歌碑と万葉歌碑2基が建てられている。トイレも完備されている。

 

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白崎万葉公園 歌碑と海

 海岸線をしばらく進むと白崎海洋公園に行き着く。道の駅もある。日本のエーゲ海とも称されるだけあって、石灰岩の白と海の青のコントラストが美しい。

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白崎海洋公園


 

この歌群の一六七一歌に「白神の磯の浦み」という表現があるが、白崎海岸の石灰岩質の白い海岸を神宿るとしてこのように表現したのでないかと思われる。ロマンあふれる光景である。

 

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海洋公園波打ち際

 駐車場に車を止め、海岸縁を歩く。浜辺に出られるので波打ち際まで行って見る。足元の石ころを見てみると無数の穴が開いている。後で調べて分かったのだが、イシマテ貝の住処跡のようである。石灰質や砂岩など硬度の低い岩石に穴をあけるのだそうである。

(注)石馬刀貝(読み)イシマテガイ:イガイ科の二枚貝。海岸の岩やサンゴ塊に穴をあけてすむ。貝殻は円筒形で茶褐色をし、殻長約5センチ。肉は黄白色で、美味。いしわり。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 

◆◆◆由良・有田・海南万葉歌碑めぐり◆◆◆

 

 令和2年9月15日、由良・有田・海南万葉歌碑めぐりを行った。

前回、旧海南市役所の歌碑の移転先がわからず、あきらめたが、今回の計画策定にあたり、再度、先達たちのブログを読み直し、さらにいろいろ検索もかけてみた。 

市役所で移転先を尋ねたが、わからなかったということは、市役所管理ではないのはあきらか。ブログやらHPで有田市内の歌碑を検索していくと、ロータリークラブが記念行事などで建立している記事が飛び込んできた。ロータリークラブがポイントと絞り込み、前日電話をしてみた。残念ながら係りの人が不在であった。ロータリークラブの勤務時間等を勘案し、予定を変更した。当初は海南市から由良町への予定であったが、由良町から海南市へ戻る計画に逆転させた。

変更後の予定は、①白崎万葉公園、②得生寺、③立神社、④下津町大崎、⑤シモツピアーランド入口、⑥粟嶋神社、⑦海南市(旧市役所の歌碑)、⑧紀三井寺、である。

 

実際は、一部計画通りにはいかなかった。

神社は同じ名前が多いので、ナビ入力に際しては、確認が必要であるが、今回は2度も失敗してしまった。立神社と粟嶋神社である。

カーナビで、立神社は、有田市野(野という地名である)の住所の方を選択してしまったようだ。こちらは「たてじんじゃ」と読む。境内を探索するも歌碑が見当たらず、社務所に行くも不在で、電話で問い合わせる。「こちらには歌碑はありません」との返事であった。仕方なく、駐車場に戻ろうと歩いていると前の方から老婦人が歩いてこられ、「先ほどお電話をいただいた方ですか。」と。いろいろお話を伺い、海南市下津町の立神社(こちらは、「たてがみしゃ」である。地元では、「たてがみさん」と呼んでいるとのこと)と確信する。ルート的にはオンラインであるので、ほとんどロスなく予定通り歌碑を見ることができた。

粟嶋神社は、漢字転換した時に「淡島神社和歌山市加太)」となっていたのを確認せずインプットしてしまったようである。走っていると紀三井寺近くまで来ており、おかしいと思い、計画を変更、紀三井寺へ。231段の階段を上り本堂前の歌碑を見た後、息を整える間もなく、ロータリークラブに電話を入れる。係りの人は外出で16時ごろ事務所に戻られるとのこと。海南駅で時間調整することにした。

リベンジの旧海南市役所の歌碑は、漸く16時過ぎにロータリークラブの電話が通じ教えてもらうことができた。

 

カーナビ入力はひらかな一字一字指先入力であり、時間がかかる。マイナーな案件はヒットしないことが多く、やり直したり、住所入力に切り替えたりといらいらすることが多い。

ヒットしただけで気分的に舞い上がり確認がおろそかになりロスが発生する。万葉びとに笑われそうな基本的なミスである。またやってしまったと反省ばかり。

粟島神社はまた次の機会に組み入れよう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「わかやま観光情報」(公益社団法人 和歌山県観光連盟)

万葉歌碑を訪ねて(その756,757,758)―海南市黒江 名手酒造駐車場―万葉集 巻七 一三九六、巻十一 二七八〇、巻十一 二七三〇

―その756―

●歌は、「紫の名高の浦のなのりその磯に靡かむ時待つ我れを」である。

 

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名手酒造駐車場万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、海南市黒江 名手酒造駐車場にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆紫之 名高浦乃 名告藻之 於礒将靡 時待吾乎

               (作者未詳 巻七 一三九六)

 

≪書き下し≫紫(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)のなのりその礒に靡(なび)かむ時待つ我(わ)れを

 

(訳)名高の浦に生えるなのりその磯に靡く時、その時をひたすら待っている私なのだよ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)むらさきの【紫の】( 枕詞 ):①植物のムラサキで染めた色のにおう(=美シクカガヤク)ことから、「にほふ」にかかる。②ムラサキは染料として名高いことから、地名「名高(なたか)」にかかる。 ③ムラサキは濃く染まることから、「こ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)なのりそ 名詞:海藻のほんだわらの古名。正月の飾りや、食用・肥料とする。 ※和歌では「な告(の)りそ(=告げるな)」の意をかけて用い、また、「名(な)」を導く序詞(じよことば)の一部を構成する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

「なのりそ」という名は、日本書記の衣通郎姫(そとほしのいらつめ)の歌「とこしえに 君も会えやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時々を」(訳:いつでもあなたにお逢いできないというわけではありません。海の浜藻が波打ち際に寄せる様にときおりしかお逢いできませんよ。)を聞いた天皇は、「この歌は他の者に告げてはならない。皇后の耳に入れば恨まれるだろうから」と言ったという。そこで、当時の人々は天皇の気持ちを忖度して、浜藻を「なのりそ藻」と呼ぶようになった、といわれている。

(注)ときどき【時時】副詞:その時その時。時に応じて。ときおり。(学研)

 

 

―その757―

●歌は、「紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを」である。

 

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名手酒造駐車場万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、海南市黒江 名手酒造駐車場にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その749)」で紹介している。

 ➡ こちら749

 

◆紫之 名高乃浦之 靡藻之 情者妹尓 因西鬼乎

               (作者未詳 巻十一 二七八〇)

 

≪書き下し≫紫(むらさき)の名高(なたか)の浦の靡(なび)き藻の心は妹(いも)に寄りにしものを                 

 

(訳)紫の名高の浦の、波のまにまに揺れ靡く藻のように、心はすっかり靡いてあの子に寄りついてしまっているのに。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。「寄りにし」を起こす。

 

「藻」に関しては、「万葉集の食物文化考 植物性の食について (古向橋まち子氏・池添博彦氏 (帯広大谷短期大学紀要第27号)に詳しく書かれているので参考にさせていただいた。

 

 藻類に関する語として、藻、沖藻、菅藻、厳藻(1931)、辺藻(1206)、川藻、芳藻、玉藻、珠藻、玉藻苅、玉藻成、軍布苅、海藻苅、稚海藻(3871)、和海藻(3871)、海松、深海松、海松採、俣海松(3301)、縄法(3080, 3302)、名告藻(362)、莫告藻、勿謂藻、葦付(4021)、朝菜採(957)があげられている。

(注)厳藻(いつも):美しい藻の意か。

(注)辺藻(へつも):海辺の藻の意か。

(注)軍布(め)苅(かり):海藻を採る

(注)稚海藻(わかめ):ワカメ

(注)和海藻(にきめ):やわらかい海藻

(注)海松(みる):ミル

(注)俣海松(またみる):海松が股に分かれる枝を持つことによる称

(注)縄法(なはのり):縄海苔。細長い縄状の海藻か。ベニモズク科のウミゾウメン

(注)葦付(あしつき):富山、滋賀両県の川に産するジュズモ科のアシツキノリで、夏期繁殖する緑褐色寒天質の淡水藻である。

 

「藻」については、万葉集では、上記のような言い回しで86首で詠われている。

 

 

 

―その758―

●歌は、「紀伊の海の名高の浦に寄する波音高きかも逢はぬ子ゆゑに」である。

 

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名手酒造駐車場万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、海南市黒江 名手酒造駐車場にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その750)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆木海之 名高之浦尓 依浪 音高鳧 不相子故尓

               (作者未詳 巻十一 二七三〇)

 

≪書き下し≫紀伊の海(きのうみ)の名高(なたか)の浦に寄する波音高(おとだか)きかも逢はぬ子ゆゑに

 

(訳)紀伊の海の名高の浦に寄せる波、その音が高いように、何と噂が高いことか。逢ってもいないあの子なのに。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。「音高き」を起こす。

(注)かも 終助詞:《接続》体言や活用語の連体形などに付く。①〔感動・詠嘆〕…ことよ。…だなあ。②〔詠嘆を含んだ疑問〕…かなあ。③〔詠嘆を含んだ反語〕…だろうか、いや…ではない。▽形式名詞「もの」に付いた「ものかも」、助動詞「む」の已然形「め」に付いた「めかも」の形で。 ※参考 上代に用いられ、中古以降は「かな」。

(注)ゆゑ【故】名詞:〔体言や活用語の連体形に付いて〕①…によって。…のために。▽順接的に原因・理由を表す。②…なのに。▽逆接的に原因・理由を表す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) ここでは②の意

 

 当の本人たちは、逢ってもいないのに人びとが根も葉もないのに噂をたてる。するとお互いが気になってきて、それがきっかけで結ばれることがある。人びとの噂(呪力があると考えられいた)によって自分に引き寄せられる妻(恋人)を言縁妻(ことよせづま)という。

 この歌の御両人は如何なったのであろうか。「波音高きかも」の表現は、自分の気持ちも相当関心が高まっているから発せられているのだろうから、噂の呪力によって結ばれたものと信じたい。。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「古代の恋愛生活 万葉集の恋歌を読む」 古橋信孝 著 (NHKブックス

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉集の食物文化考 植物性の食について (古向橋まち子氏・池添博彦氏 (帯広大谷短期大学紀要第27号)

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その753,754,755)―海南市黒江 名手酒造駐車場―万葉集 巻九 一六七五、巻二 一四二、巻七 一二一八

―その753―

●歌は、「藤白の御坂を越ゆと白栲の我が衣手は濡れにけるかも」である。

 

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海南市黒江 名手酒造駐車場万葉歌碑(プレート)(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、海南市黒江 名手酒造駐車場にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その746)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

◆藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣乎者 所沾香裳

               (作者未詳 巻九 一六七五)

 

≪書き下し≫藤白(ふぢしろ)の御坂(みさか)を越ゆと白栲(しろたへ)の我(わ)が衣手(ころもで)は濡(ぬ)れにけるかも

 

(訳)藤白の神の御坂を越えるというので、私の着物の袖は、雫(しずく)にすっかり濡れてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)藤白の神の御坂:海南市藤白にある坂。有間皇子の悲話を背景に置く歌。

 

一六六七から一六七九歌十三首の題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。(ここにいう太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇である。)。

 

 

 

―その754―

●歌は、「家なれば笱に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」である。

 

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海南市黒江 名手酒造駐車場万葉歌碑(プレート)(有間皇子

●歌碑(プレート)は、海南市黒江 名手酒造駐車場にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、直近であれば、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その747)」で紹介している。 ➡ こちら747

 

◆家有者 笱尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉盛

            (有間皇子 巻二 一四二)

 

≪書き下し≫家なれば笱(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕旅(たび)にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

(訳)家にいる時にはいつも立派な器物(うつわもの)に盛ってお供えをする飯(いい)なのに、その飯を、今旅の身である私は椎(しい)の葉に盛って神祭りをする。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

 

 有間皇子は、孝徳天皇と妃の小足媛(おたらしひめ、阿倍倉梯麻呂の娘)の皇子。大化元年(645年)孝徳天皇が即位したことにより皇位継承の可能性が高まった。しかし、政治の実権は、皇太子である中大兄皇子(のちの天智天皇)が握っており、後ろ盾となる外祖父の左大臣倉梯麻呂が死去、さらに孝徳天皇中大兄皇子と不和が顕著になり、難波宮で執政しようとするも、中大兄皇子は大和遷都を提案、拒否されるも天皇をいわば置き去りにして大和に還るのである。孝徳天皇は、白雉五年(654年)に悶死、いっそう有間皇子の立場は危ういものとなっていったのである。

 そして斉明二年(656年)有間皇子の悲劇が起こったのである。

 

 

 -その755―

●歌は、「黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりつらしも」である。

 

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海南市黒江 名手酒造駐車場万葉歌碑(プレート)(藤原卿)

●歌碑(プレート)は、海南市黒江 名手酒造駐車場にある。

 

●歌をみていこう

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その744)」で紹介している。

 ➡ こちら744

 

◆黒牛乃海 紅丹穂経 百礒城乃 大宮人四 朝入為良霜

               (藤原卿 巻七 一二一八)

 

≪書き下し≫黒牛(くろうし)の海(うみ)紅(くれなゐ)にほふももしきの大宮人(おおみやひと)しあさりすらしも

 

(訳)黒牛の海が紅に照り映えている。大宮に使える女官たちが浜辺で漁(すなど)りしているらしい。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)黒牛の海:海南市黒江・船尾あたりの海。

(注)あさり【漁り】名詞 <※「す」が付いて他動詞(サ行変格活用)になる>:①えさを探すこと。②魚介や海藻をとること。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 空と海の青、雲の白、女官たちの裳の紅、漁(すなど)りする藻の緑、鮮やかな色取が目に浮かぶ歌である。

 

 一二一八から一一九五歌までの歌群の左注は、「右七首者藤原卿作 未審年月」<右の七首は、藤原卿(ふぢはらのまへつきみ)が作 いまだ年月審(つばひ)らかにあらず>である。

(注)伊藤 博氏の巻七 題詞「羇旅作」の脚注に、「一一六一から一二四六に本文の乱れがあり、それを正した。そのため歌番号の順に並んでいない所がある。」と書かれている。 この歌群もそれに相当している。

 

歌のみ並べてみる。

 

◆黒牛乃海 紅丹穂経 百礒城乃 大宮人四 朝入為良霜

               (藤原卿 巻七 一二一八)

◆若浦尓 白浪立而 奥風 寒暮者 山跡之所念

               (藤原卿 巻七 一二一九)

◆為妹 玉乎拾跡 木國之 湯等乃三埼二 此日鞍四通

               (藤原卿 巻七 一二二〇)

◆吾舟乃 梶者莫引 自山跡 戀来之心 未飽九二

               (藤原卿 巻七 一二二一)

◆玉津嶋 雖見不飽 何為而 褁持将去 不見人之為

               (藤原卿 巻七 一二二二)

◆木國之 狭日鹿乃浦尓 出見者 海人之燎火 浪間従所見

               (藤原卿 巻七 一一九四)

◆麻衣 著者夏樫 木國之 妹背之山二 麻蒔吾妹

               (藤原卿 巻七 一一九五)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」