万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その296,297)―東近江市糠塚町 万葉の森船岡山(37、38)―万葉集 巻一 五四、巻二十 四四六五

―その296―

●歌は、「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を」である。

 

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万葉の森船岡山万葉歌碑(37)(坂門人足

●歌碑は、東近江市糠塚町 万葉の森船岡山(37)である。

 この歌については、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その223)」で紹介している。歌のみ掲載する。

 

●歌をみていこう。

 

◆巨勢山乃 列ゝ椿 都良ゝゝ尓 見乍思奈 許湍乃春野乎

                  (坂門人足 巻一 五四)

 

≪書き下し≫巨勢山(こせやま)のつらつら椿(つばき)つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を

 

(訳)巨勢山のつらつら椿、この椿の木をつらつら見ながら偲ぼうではないか。椿花咲く巨勢の春野の、そのありさまを。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)こせやま【巨勢山】:奈良県西部、御所(ごせ)市古瀬付近にある山。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)つらつらつばき 【列列椿】名詞:数多く並んで咲いているつばき。

(注)しのぶ 【偲ぶ】:①めでる。賞美する。②思い出す。思い起こす。思い慕う。

 

 題詞は、「大寳元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の秋の九月に、太上天皇(おほきすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌>である。

左注は「右一首坂門人足」<右の一首は坂門人足(さかとのひとたり)>である。

(注)太上天皇:持統上皇

 

 なお、この歌の原本となったと思われる歌が万葉集五六歌に収録されている。

 

◆河上乃 列ゝ椿 都良ゝゝ尓 雖見安可受 巨勢能春野者

               (春日蔵首老 巻一 五六)

≪書き下し≫川の上(うへ)のつらつら椿(つばき)つらつらに見れども飽(あ)かず巨勢の春野は 

 

いずれも、現在の奈良県御所市古瀬に咲いた椿を詠んだものである。

 

 

―その297―

●歌は、「ひさかたの天の門開き高千穂の岳に天降りしすめろきの神の御代よりはじ弓を手握り持たし・・・」である。

 

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万葉の森船岡山万葉歌碑(38)(大伴家持

●歌碑は、東近江市糠塚町 万葉の森船岡山(38)である。

 

●歌をみていこう。

 

比左加多能 安麻能刀比良伎 多可知保乃 多氣尓阿毛理之 須賣呂伎能 可未能御代欲利 波自由美乎 多尓藝利母多之 麻可胡也乎 多婆左美蘇倍弖 於保久米能 麻須良多祁乎ゝ 佐吉尓多弖 由伎登利於保世 山河乎 伊波祢左久美弖 布美等保利 久尓麻藝之都ゝ 知波夜夫流 神乎許等牟氣 麻都呂倍奴 比等乎母夜波之 波吉伎欲米 都可倍麻都里弖 安吉豆之萬 夜萬登能久尓乃 可之波良能 宇祢備乃宮尓 美也婆之良 布刀之利多弖氐 安米能之多 之良志賣之祁流 須賣呂伎能 安麻能日継等 都藝弖久流 伎美能御代ゝゝ 加久左波奴 安加吉許己呂乎 須賣良弊尓 伎波米都久之弖 都加倍久流 於夜能都可佐等 許等太弖氐 佐豆氣多麻敝流 宇美乃古能 伊也都藝都岐尓 美流比等乃 可多里都藝弖氐 伎久比等能 可我見尓世武乎 安多良之伎 吉用伎曽乃名曽 於煩呂加尓 己許呂於母比弖 牟奈許等母 於夜乃名多都奈 大伴乃 宇治等名尓於敝流 麻須良乎能等母

               (大伴家持 巻二十 四四六五)

 

≪書き下し≫ひさかたの 天(あま)の門(と)開き 高千穂の 岳(たけ)に天降(あも)りし すめろきの 神の御代(みよ)より はじ弓を 手(た)握(にぎ)り持たし 真鹿子矢(まかごや)を 手挟(たばさ)み添へて 大久米(おほくめ)の ますらたけをを 先に立て 靫(ゆき)取り負(お)ほせ 山川を 岩根(いはね)さくみて 踏み通り 国(くに)求(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向(ことむ)け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕(つか)へまつりて 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原の 畝傍(うねび)の宮に 宮柱(みやばしら) 太知(ふとし)り立てて 天の下 知らしめしける 天皇(すめろき)の 天の日継(ひつぎ)と 継ぎてくる 君の御代(みよ)御代(みよ) 隠さはぬ 明(あか)き心を 皇辺(すめらへ)に 極(きは)め尽して 仕へくる 祖(おや)の官(つかさ)と 言(こと)立(だ)てて 授けたまへる 子孫(うみのこ)の いや継(つ)ぎ継(つ)ぎに 見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鏡にせむを あたらしき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 空言(むなこと)も 祖(おや)の名絶つな 大伴の 氏(うぢ)と名に負(お)へる ますらをの伴(とも)

 

(訳)遥かなる天つ空の戸、高天原(たかまのはら)の天の戸を開いて、葦原(あしはら)の国高千穂(たかちほ)の岳(たけ)に天降(あまくだ)られた皇祖(すめろき)の神の御代から、はじ木の弓を手にしっかりと握ってお持ちになり、真鹿子矢(まかごや)を手挟み添え、大久米のますら健男(たけお)を前に立てて靫を背負わせ、山も川も、岩根を押し分けて踏み通り、居(い)つくべき国を探し求めては、荒ぶる神々をさとし、従わぬ人びとをも柔らげ、この国を掃き清めお仕え申し上げて、蜻蛉島大和の国の橿原の畝傍の山に、宮柱を太々と構えて天の下をお治めになった天皇(すめろき)、その尊い御末(みすえ)として引き継いでは繰り返す大君の御代御代のその御代ごとに、曇りのない誠の心をありったけ日継ぎの君に捧げつくして、ずっとお仕え申してきた先祖代々の大伴の家の役目であるぞと、ことさらお言葉に言い表わして、我が大君がお授け下さった、その祖(おや)の役目を継ぎ来り継ぎ行く子々孫々、その子々孫々のいよいよ相続くように、いや継ぎ継ぎに、目に見る人に語り継ぎに讃め伝えて、耳に聞く人は末々の手本(かがみ)にもしようものを、ああ、貶(おとし)めてはもったいない清らかな継ぎ来り継ぎ行くべき名なのだ。おろそかに軽く考えて、かりそめにも祖先の名を絶やすでないぞ。大伴の氏と、由来高く清き名に支えられている、ますらおたちよ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)はじ弓:やまはぜで作った弓

(注)真鹿子矢(まかごや):鹿の角などを用いた矢か。

(注)あたらし【惜し】もったいない。惜しい。※参考「あたらし」と「をし」の違い 「を(惜)し」が自分のことについていうのに対し、「あたらし」は外から客観的に見た気持ちをいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 家持は、天平勝宝三年(751年)に少納言に任ぜられ越中生活に終わりをつげ都にもどるのである。しかし、大伴家と橘家があがめる聖武天皇は病気がちで、力を持たれなくなっていた。そして光明皇太后孝謙天皇藤原仲麻呂の勢力が台頭してくるのである。光明皇太后藤原不比等の娘で、孝謙天皇不比等の孫にあたる。仲麻呂不比等の孫であるので藤原氏が権力を握って来るのである。

 天平勝宝八年(756年)大伴家がよりどころにしていた橘諸兄が失脚、聖武上皇崩御され、大伴一族の大伴古慈悲が謀反のかどで捕えられるという事態になってしまう。そこで、氏の上(かみ)の家持がこの歌を詠み、反仲麻呂に立ち上がらないことの意思表明を行ったのである。

 橘諸兄の長子奈良麻呂は、大伴氏や佐伯氏等にはかり、仲麻呂打倒の計画をたてていたが、密告され、大伴氏や佐伯氏ら加担したものは根こそぎ葬られたのである。しかし家持は、圏外にあって身を守ったのである。失意のうちに758年因幡国守として赴任するのである。

 

 

この歌の題詞は、「喩族歌一首并短歌」<族(うがら)を喩(さと)す歌一首并(あは)せて短歌>である。

 

「はじ」はウルシ科のヤマハゼのことである。この実を蒸して抽出した汁から「和蝋燭」がつくられる。万葉集で「はじ」を詠みこんでいる歌はこの一首のみである。古来、弓の材料としては、ハジの他にアズサ、マユミ、ツキなどのしなやかな弾力性のある木材が使われたのである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」