●歌は、「妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る」である。
●歌碑は、生駒市高山町 高山竹林園にある。
●歌をみていこう。この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その87)」で紹介している。その87の歌碑は、生駒市俵口町生駒山麓公園の「万葉のみち」にある。生駒山を詠んだ歌で生駒市内にある歌碑を一堂に紹介する形で作られたものである。いつかはオリジナルな歌碑を訪れたいと思っていたのである。
◆伊毛尓安波受 安良婆須敝奈美 伊波祢布牟 伊故麻乃山乎 故延弖曽安我久流
(作者未詳 巻十五 三五九〇)
≪書き下し≫妹(いも)に逢(あ)はずあらばすべなみ岩根(いわね)踏む生駒の山を越えてぞ我(あ)が來(く)る
(訳)あの子に逢わないでいるとどうにもやるせなくて、岩を踏みしめる生駒の山なのだが、その山をうち越えて私は大和へと急いでいる。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)すべ(を)なみ【術をなみ】:どうしようもなく
左注は「右一首蹔還私家陳思」<右の一首は、しましく私家(しけ)に還(かへ)りて思ひを陳(の)ぶ。」
(注)しましく【暫しく】副詞:少しの間。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
三五七八歌から三七二二歌までの歌群の題詞は、「遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思うられたような并當所誦之古歌」≪遣新羅使人等(けんしらきしじんら)、別れを悲しびて贈答(ぞうたふ)し、また海路(かいろ)にして情(こころ)を慟(いた)みして思ひを陳(の)べ、并(あは)せて所に当りて誦(うた)ふ古歌≫である。
題詞ならびに左注から、遣新羅使の一人が、出発するまでしばらく時間があったので、間際に急いで生駒山を越えて奈良の家に帰って来た心境を歌った歌であることがわかる。
堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」の中で、この歌に関して、「『栲衾(たくふすま)新羅(しらぎ)へいます君が目を今日か明日かと斎(いは)いて待たむ(作者未詳 巻十五 三五八七)』。栲は楮(こうぞ)の繊維。これで作った夜具は白い。シラにかかる。こういう女性の歌に呼応してつくられたような、新羅へ行く使者の歌である。「タクフスマ、シラキヘイマスキミ」という発想に、潔斎してお帰りを待つ女性の心が、じつにさわやかに、かなしみ深くあらわれている。これに対して、やるせない思いが、どうにもしようがない思いが、投げ出すようにうたわれている。」と書かれている。
三七八七歌の訳は、「栲衾(たくふすま)の白というではないが、その新羅へはるばるとおいでになるあなた、あなたにお目にかかれる日を、今日か明日かと忌み慎んでずっとお待ちしています。」(伊藤 博 著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)である。
万葉集巻十五は、天平八年(七三六年)六月、新羅に遣わされた使人たちの歌百四十五首と、同十二年初めころ越前に流された中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)と妻狭野弟上娘子(さののおとかみのおとめ)とが交わした歌六十三首とからなる二つの大きな歌群で構成されているのである。
或る意味実録に基づき作成された巻といえる。このような構成をもってくることも万葉集の万葉集たる所以であろう。
生駒市高山は竹製品、特に室町時代からの伝統を持つ茶筌の生産で有名である。竹林園には多種多様な竹が植えられており、資料館などがある。歌碑は、資料館の前の道を奥に進むと左手にある。竹の種類を見ながら坂を上って行くと広場がある。丁度、高山の冬の風物詩である「竹の寒干し」が行われていた。なかなかの風情である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」