万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その820)―高岡市伏木古国府 勝興寺前寺内町ポケットパーク―万葉集 巻十九 四二五〇

●歌は、「しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも」である。

 

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勝興寺前寺内町ポケットパーク万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高岡市伏木古国府 勝興寺前寺内町ポケットパークにある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「便附大帳使取八月五日應入京師 因此以四日設國厨之饌於介内蔵伊美吉縄麻呂舘餞之 于時大伴宿祢家持作歌一首」<すなはち、大帳使(だいちやうし)に付き、八月の五日を取(と)りて京師(みやこ)に入らむとす。これによりて、四日をもちて、国厨(こくちゆう)の饌(そなへ)を介内蔵伊美吉縄麻呂(すけくらのいみきつなまろ)が館(たち)に設(ま)けて餞(せん)す。 時に大伴宿禰家持が作る歌一首>である。

(注)すなはち、大帳使に付き:その時に兼ねて大帳使に任ぜられて。

(注)大帳使:律令(りつりょう)時代、地方政治の実態を中央政府に報告するため上京した四度使(よどのつかい)の一つ。計帳使ともよばれる。毎年8月30日以前(陸奥(むつ)・出羽(でわ)両国と大宰府(だざいふ)は9月30日以前)に上京して、大(計)帳とその関連公文(くもん)(枝文(えだふみ))を中央政府に提出して監査を受ける。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注)取る:吉日を選ぶ

(注)国厨の饌:国庁の調理人が用意した料理。

 

 

◆之奈謝可流 越尓五箇年 住ゝ而 立別麻久 惜初夜可毛

               (大伴家持 巻十九 四二五〇)

 

≪書き下し≫しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも

 

(訳)都を離れて山野層々たる越の国に、五年ものあいだ住み続けて、今宵かぎりに立ち別れゆかねばならぬと思うと、名残惜しい。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注) しなざかる 分類枕詞:地名「越(こし)(=北陸地方)」にかかる。語義・かかる理由未詳。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 「五年」に万感の思いを込めて詠い、家持は都に戻って行ったのである。都での生活に大きな夢を描いていたに違いないが、待ち受けていたのは台頭してくる藤原仲麻呂の勢力であった。大伴氏の未来の席など望む由もなかったのである。家持が頼るべきは橘諸兄一人であった。しかし、頼みの左大臣橘諸兄天平勝宝八歳(756年)藤原仲麻呂一派に誣告(びこく)され、官を辞したのである。旧守派の大伴氏への仲麻呂の攻撃は執拗に行われ、家持は「族(やから)に喩(さと)す歌」(巻二十 四四六五から四四六七歌)を詠んで大伴家の行く末を案じたが、橘諸兄の長子奈良麻呂、大伴氏、佐伯氏の仲麻呂打倒計画も失敗、大伴・佐伯氏らはほとんど根こそぎ葬られたのである。家持は事変の圏外にあって一人身を守ったのである。

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家持像と歌碑

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勝興寺寺内町の碑


 

 四二五〇歌を読んでいると、山上憶良の次の歌が浮かんでくる。

◆天離(あまざか)る鄙(ひな)に五年(いつとせ)住ひつつ都のてぶり忘らえにけり(巻五 八八〇)

(訳)遠い田舎に五年も住み続けて、都の風俗、あの風俗を私はすっかり忘れてしまった。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

題詞は。「敢(あ)へて私懐(しくわい)を布(の)ぶる歌三首」である。

 

八八一、八八二歌もみてみよう。

◆かくのみや息づき居(お)らむあらたまの来経行(きへゆ)く年の限り知らずて(八八一歌)

(訳)私は、ここ筑紫でこんなにも溜息(ためいき)ばかりついていなければならぬのであろうか。来ては去って行く年の、いつを限りとも知らずに。(同上)

 

◆我が主(ぬし)の御霊(みたま)賜(たま)ひて春さらば奈良の都に召上(めさ)げたまはね(八八二歌)

(訳)あなた様のお心入れをお授け下さって、春になったら、奈良の都に召し上げて下さいませ(同上)

 

こちらは、七〇歳を過ぎ、九州大宰府勤務という過酷な状況のなかで、上司の太宰帥の大伴旅人に、奈良の都に帰らせて欲しいと哀願している歌である。

 大伴旅人が大納言として都に戻ったのは天平二年で、憶良が奈良の都に召喚されたのは天平四年のことであった。

 単身赴任の地方勤務のむなしさを詠っている点は、家持も憶良にも共通している。

 都に戻った家持を待ち受けていたのは権力争いの波をかぶった「苦悩の絶頂」である。る。

 一方、憶良は病に苦しみ「沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)」を作るなど生涯の総決算をしていくのである。

 

 

 

◆◆◆伏木気象資料館(越中国守館址)➡勝興寺前ポケットパーク◆◆◆

 

 伏木気象資料館(越中国守館址)を後にして、正面に勝興寺を見ながらぶらぶら歩いて行くと右手にポケットパークがあり、大伴家持像と歌碑が建てられている。この辺りは、勝興寺寺内町と呼ばれていたようである。

 ちなみに大伴家持像は高岡市には五か所に建てられている。

  • JR高岡駅:家持と娘子二人のブロンズ像
  • 二上山山頂近く:家持のブロンズ像
  • JR伏木駅:家持のブロンズ像
  • 勝興寺前寺内町ポケットパーク:家持のブロンズ像
  • 高岡市万葉歴史館:家持と坂上大嬢の夫婦ブロンズ像(彩色されている)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)