―その1661―
●歌は、「人の植うる田は植ゑまさず今さらに国別れして我れはいかにせむ」である。
●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(24)にある。
●歌をみていこう。
◆比等能宇々流 田者宇恵麻佐受 伊麻佐良尓 久尓和可礼之弖 安礼波伊可尓勢武
(狭野弟上娘子 巻十五 三七四六)
≪書き下し≫人の植うる田は植ゑまさず今さらに国別れして我れはいかにせむ
(訳)世間の人が植える田植えはなさらずに、今となって別々の国に住むことになってしまい、私はいったいどうしたらよいのでしょう。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)植ゑず :【文語】ワ行下二段活用の動詞「植う」の未然形である「植ゑ」に、打消の助動詞「ず」が付いた形。(weblio辞書 日本語活用辞典)
(注の注)うう【植う】[動ワ下二]:「う(植)える」の文語形。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)田は植ゑまさず:田を植えては下さらず。在京当時、宅守が農事を手伝ってくれたことを背景とする表現。(伊藤脚注)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1356②)」で紹介している。
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―その1662―
●歌は、「我がやどの松の葉見つつ我待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに」である。
●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(25)にある。
●歌をみていこう。
◆和我屋度能 麻都能葉見都ゝ 安礼麻多無 波夜可反里麻世 古非之奈奴刀尓
(狭野弟上娘子 巻十五 三七四七)
≪書き下し≫我(わ)がやどの松の葉見つつ我(あ)れ待たむ早(はや)帰りませ恋ひ死なぬとに
(訳)我が家の庭の松の葉を見ながら、私はひたすら待っておりましょう。早く帰って来てください。この私が焦がれ死にしないうちに。(同上)
(注)ぬとに:「ぬ外(と)に」の意。~しないうちに。(伊藤脚注)
(注の注)「ぬとに」に例は、一八二二歌にもみられる。「我(わ)が背子(せこ)を莫越(なこし)の山の呼子鳥(よぶこどり)君呼び返(かへ)せ夜の更けぬとに」<訳:我が背子を越えさせないでと願う、その莫越の山の呼子鳥よ、我が君を呼び戻しておくれ。夜の更けないうちに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)>
―その1663―
●歌は、「他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに」である。
●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(26)にある。
●歌をみていこう。
◆比等久尓波 須美安之等曽伊布 須牟也氣久 波也可反里万世 古非之奈奴刀尓
(狭野弟上娘子 巻十五 三七四八)
≪書き下し≫他国(ひとくに)は住み悪(あ)しとぞ言ふ速(すむや)けく早帰りませ恋ひ死なぬとに
(訳)他国(よそぐに)は住み心地が悪いものと申します。さっさと今すぐにでも帰って来て下さい。この私が焦がれ死にしないうちに。(同上)
(注)前二首は、都のことを詠っているが、この歌と次の歌は「他国」に目を向けている。
伊藤脚注)
(注)早帰りませ恋ひ死なぬとに:三七四七歌の下二句を承けている。(伊藤脚注)
三七四七歌「我(わ)がやどの松の葉見つつ我(あ)れ待たむ早(はや)帰りませ恋ひ死なぬとに」と詠ってみたものの、「松」に「待つ」の意を込めても、都という土俵での歌であり、心のゆとり的なものを感じられたらそれは、私の気持ちではない、と三七四八歌「≫他国(ひとくに)は住み悪(あ)しとぞ言ふ速(すむや)けく早帰りませ恋ひ死なぬとに」で再度「早帰りませ恋ひ死なぬとに」と重ねて強調、さらに「速(すむや)けく」をかぶせ、
他国にいる中臣宅守に強く強く訴えている。この両歌の「恋ひ死なむとに」は、娘子にはこうなる予感的なものがあったのかもしれない。
相聞歌六十三首を歌物語的に読んでいくと、宅守の三七七九から三七八五歌「花鳥歌七首」の独白的な歌への伏線となっているように思える。
ここ越前市味真野には中臣宅守と狭野弟上娘子の悲恋と継体天皇と照日の前との恋物語が伝えられている。
昨年訪れた時は、「継体天皇と照日の前の像」と「『花がたみ』説明解説碑」の写真を撮り、越前市HPの関連記事を掲載したのであるが、さほど関心はなかった。
しかし、今回、宅守と娘子の全歌碑(道標燈籠)を映し、継体天皇についてもすこし調べてみると明らかに関心度が深くなっている。
あらためて「『花がたみ』説明解説碑」もじっくりと読みなおしてみたのである。次のように書かれている。
「花がたみ ―継体大王の物語―
継体天皇と照日の前(てるひのまえ)の像である。室町時代の世阿弥が作った謡曲「花筐(はながたみ)」には二人の美しいロマンスが語られている。越前の国味真野におられた男大迹(をほど)皇子はにわかに皇位につくことになり寵愛する照日の前に花筐と玉章を贈って上京し継体天皇となられた。残された彼女は皇子恋しさのあまり花かごと御手紙を持って大和の玉穂の都へと上り紅葉狩りの行幸に遇う。そこで花筐が縁で天皇の愛を回復したという。
世阿弥には巷間に取材した曲があるが、この「花筐」も当時味真野に伝えられていた継体
大王伝記をもとに創作されたものであろう。
今、新しい世紀を迎えるの当たり継体大王の伝説を伝えて来た先人の心を大切にしここに「花がたみ」の像をつくり永く後世に伝えるものである。
平成十三年五月吉日」注( )内の読み仮名は追記したものである。
万葉歌碑をトリガーに知識が広がるのも嬉しいものである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「weblio辞書 日本語活用辞典」
★「『花がたみ』説明解説碑」