●歌は、「旅と言へば言にぞやすきすくなくも妹に恋ひつつすべなけなくに」である。
●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(21)にある。
●歌をみていこう。
◆多婢等伊倍婆 許等尓曽夜須伎 須久奈久毛 伊母尓戀都々 須敝奈家奈久尓
(中臣宅守 巻十五 三七四三)
≪書き下し≫旅といへば言(こと)にぞやすきすくなくも妹に恋ひつつすべなけなくに
(訳)旅といえば、口の上ではたやすいことだ。けれど、その旅の身になってみると、あなたに恋い焦がれてばかりいて、なすすべもないなどという段ではないのですよ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)すくなくも【少なくも】副詞:〔下に打消・反語の表現を伴って〕少しだけ(…ではない)。非常に…だ。 ※ 形容詞「すくなし」の連用形に係助詞「も」が付いて一語化したもの。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)なけなくに【無けなくに】分類連語:ないことはないのだから。 ⇒なりたち:形容詞「なし」の上代の未然形「なけ」+打消の助動詞「ず」の上代の未然形「な」+接尾語「く」+格助詞「に」(学研)
(注の注)すくなくも・・・なくに:ちっとやそっとのすべなさではない。(伊藤脚注)
「すくなくも・・・なくに」と詠っている二一九八歌、二五二三歌もみてみよう。
◆風吹者 黄葉散乍 小雲 吾松原 清在莫國
(作者未詳 巻十五 二一九八)
≪書き下し≫風吹けば黄葉(もみち)散りつつすくなくも吾(あが)の松原清くあらなくに
(訳)風が吹くと色づいた葉が盛んに散ってきて・・・。この吾の松原はちっとやそっとの清らかさではない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
◆散頬相 色者不出 小文 心中 吾念名君
(作者未詳 巻十一 二五二三)
≪書き下し≫さ丹(に)つらふ色には出(い)でずすくなくも心のうちに我(わ)が思はなくに
(訳)頬が染まるほど顔色に出したりすることは致しません。けれど、心の中では、ちっとやそっとの思いでいるわけがないではありませんか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)さにつらふ 【さ丹頰ふ】分類連語:(赤みを帯びて)美しく映えている。ほの赤い。 ⇒参考:赤い頰(ほお)をしているの意。「色」「君」「妹(いも)」「紐(ひも)」「もみぢ」などを形容する言葉として用いられており、枕詞(まくらことば)とする説もある。 ⇒なりたち:接頭語「さ」+名詞「に(丹)」+名詞「つら(頰)」+動詞をつくる接尾語「ふ」(学研)
―その1659―
●歌は、「我妹子に恋ふるに我れはたまきはる短き命も惜しけくもなし」である。
●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(22)にある。
●歌をみていこう。
◆和伎毛故尓 古布流尓安礼波 多麻吉波流 美自可伎伊能知毛 乎之家久母奈思
(中臣宅守 巻十五 三七四四)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)に恋ふるに我(あ)れはたまきはる短き命(いのち)も惜(を)しけくもなし
(訳)いとしいあなたに焦がれてばかりいるにつけて、苦しさのあまり、私はたいせつなこの短い命さえ、もう惜しくなどない。(同上)
(注)たまきはる【魂きはる】分類枕詞:語義・かかる理由未詳。「内(うち)」や「内」と同音の地名「宇智(うち)」、また、「命(いのち)」「幾世(いくよ)」などにかかる。(学研)
(注)をしけく【惜しけく】:惜しいこと。 ※派生語。 ⇒なりたち:形容詞「をし」の上代の未然形+接尾語「く」(学研)
―その1660―
●歌は、「命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはだな思ひそ命だに経ば」である。
●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(23)にある。
●歌をみていこう。
◆伊能知安良婆 安布許登母安良牟 和我由恵尓 波太奈於毛比曽 伊能知多尓敝波
(狭野弟上娘子 巻十五 三七四五)
≪書き下し≫命(いのち)あらば逢(あ)ふこともあらむ我(わ)がゆゑにはだな思ひそ命だに経(へ)ば
(訳)命さえあったら、お逢いする日もありましょう。私のせいでそんなひどく思い悩んで下さいますな。命さえ長らえていたなら・・・。(同上)
(注)「はだ」:甚だ。(伊藤脚注)
(注)へ【経】:動詞「ふ」の未然形・連用形。
(注の注)ふ【経】自動詞:①時がたつ。年月が過ぎる。過ぎ去る。②通る。通って行く。通り過ぎる。(学研)
(注)三七四五歌は、宅守の三七四四歌を承けている。(伊藤脚注)
三七四四ならびに三七四五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1379)」で紹介している。
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中臣宅守と狭野弟上娘子との間に交わされた相聞歌、中臣宅守の場合は「罪人」である。六十三首の歌が万葉集に収録された過程が知りたいものである。
娘子の歌は、どのようにして宅守のもとへ届けられたのであろう。宅守の歌は娘子のもとへ届けことが許されたのであろうか。
両人の場合は、それなりの地位にあるので、木簡に墨書きしたのだろうが、自分の歌もきっちり「控え」を取っておいたのであろうか。
自分の歌と相手の歌が揃ったものを保管しておいた、あるいは「歌集」的なものに書き留めておいたのであろうか。
それが万葉集の編者の手にどういう過程を経て渡ったのであろう。
「防人歌」の場合は、歌の成立から口誦、或は本人あるいは防人部領使(さきもりのことりづかひ)が書き留め、兵部少輔である大伴家持の手に渡ったと考えられるが、このように明確と考えられるルートはいかがなものであったのだろう。(家持本人の歌は確固たるものであるが)
仮に「罪人」であったとしても許されていたとすると、娘子と宅守の歌の贈答は、誰がどのようにして伝えたのであろう。例えば、三九三一から三九四二歌の歌群の題詞に「平群氏女郎(へぐりうぢのいらつめ)、越中守(こしのみちのなかのかみ)大伴宿禰家持に贈る歌十二首」の左注に「右の件(くだり)の十二首の歌は、時々に便使(べんし)に寄せて来贈(おこ)せたり。一度(ひとたび)に送るところにあらず。」とある。「便使」が関わっていることはあきらかであるが、残念ながらこの「便使」を検索してもヒットしなかった。漢字の意味からは文字どおり「便」の「使い」であるので想像は可能である。公的なものか私的なものかもわからなかった。
平群氏女郎の十二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その841)」で紹介している。
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当時「駅」制があったが、その「駅」から目的地まで配達する任務を担っていたのであろうか。
こういった点にも今後調べながら万葉集に近づきたいものである。
万葉集の情報収集能力とは・・・・
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「万葉ロマンの道(歌碑)散策マップ」