●歌は、「立ちて思ひ居てもそ念ふ紅の赤裳裾引き去にし姿を」である。
●歌をみていこう。
◆立念 居毛曽念 紅之 赤裳下引 去之儀乎
(作者未詳 巻十一 二五五〇)
≪書き下し≫立ちて思ひ居(ゐ)てもぞ思ふ紅(くれなゐ)の赤裳(あかも)裾引(すそび)き去(い)にし姿を
(訳)立っても思われ、坐っても思われてならない。紅染(べにぞ)めの赤裳の裾を引きながら、歩み去って行ったあの姿が。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)くれなゐの【紅の】分類枕詞:紅色が鮮やかなことから「いろ」に、紅色が浅い(=薄い)ことから「あさ」に、紅色は花の汁を移し染めたり、振り出して染めることから「うつし」「ふりいづ」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)あかも【赤裳】〘名〙: 赤い色の裳。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注の注)も【裳】:① 古代、腰から下にまとった衣服の総称。② 律令制の男子の礼服で、表袴 (うえのはかま) の上につけたもの。③ 平安時代以後の女房の装束で、表着 (うわぎ) や袿 (うちき) の上に、腰部から下の後方だけにまとった服。④ 僧侶が腰につける衣。(goo辞書)ここでは①の意
(注)去(い)にし姿:道をほのかに歩み去って行った女の姿。(伊藤脚注)
色っぽい歌である。この歌については、「くれないの(赤)裳」と詠われた歌とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1155)」で紹介している。
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上野 誠氏の稿「万葉びとのファッションセンス-『令和の時代』の万葉集(23)」(公益財団法人ニッポンドットコムHP)に「赤裳」
に関する解説が分かりやすく書かれていたので引用させていただきます。
「(前略)『裳』というのは、今日でいえば巻きスカートにあたる。この『裳』をめぐって女たちは、さまざまに贅を凝らし、互いのセンスを競い合っていた。まず、長い裳か短い裳か。次に、どれくらいの幅の襞の裳をつけるか。もうひとつは、フォルムである。細身にフィットさせるか、それともふっくらとボリュームを出すかなどなど、時々の流行、個人の好み、着用してゆく場所の雰囲気などに合わせて、どれを着るのか、どう着こなすか、さまざまなに工夫を凝らし、競い合っていたのである。女たちの衣装対決である。もちろん、色も大切である。『アカモ』すなわち『赤裳』は、明るい色、ことに赤色や紅色の裳のことをいう言葉であるが、この『赤裳』は万葉時代、人気があった。私は学生たちに、こう教えている。『赤裳』が出てきたら、若い美人だと思え、例外はない、と。この歌の場合、長めの『赤裳』を着用していたようだ。それも、裾引くように着用していたようなのである。結婚式の花嫁のドレスを思い浮かべてほしい。ドレスの裾をどれくらいの長さのスカートにするか、それはきわめて重大な問題なのである。(後略)」
清水裕子・佐々木和也両氏の「万葉集にあらわされた染め」の稿に、「『くれないの』は枕詞として『いろ』にかかることからも、色といえばくれないといっても過言ではない万葉時代の代表的な染めと色であったと思われる。」と書かれており、万葉集にあって赤系統の色が「にほふ」とともに多用されていることや万葉集には赤系統の色が圧倒的に読まれている、さらには衣服の染めに関わりくれないを詠んだ歌も断トツである旨のことをあげておられる。
(注)染めに登場する歌、総数92首中、「くれない」が27首、「はり」11首、「むらさき」10首、「つるばみ」6首などとなっている。(重複歌含む)
両氏は、「森直太郎が、行幸供奉の女官(6・1001、15・3610)、田植えの時の早乙女(9・1710)、鮎釣りの神事を行う少女(5・861)らの赤裳は、身の汚れを防ぎ魔除けのために身につけられたこと、これは古代の降魔除厄の信仰によるものであった名残りとして、万葉集の歌に詠まれたことを示しているが、万葉後期の歌は、魔よけというよりも赤裳の色の美しさと女性の美しさを詠んでいるいると述べている。」とも書かれている。「・・・『裾引き』とか、『裾に潮が満つる』、『裾がぬれる』などの官能的な情景を詠んでおり、魔よけのための赤裳が形式として残っているとしても、歌の内容としては魔よけの意味は薄く、女性の官能美に結びついているように思われる。」と書かれている。
上述の「古代の降魔除厄の信仰によるものであった名残り」の歌をみてみよう。
■一〇〇一歌■
題詞は、「春三月幸于難波宮之時歌六首」<春の三月に、難波(なには)の宮に幸(いでま)す時の歌六首>である。
◆大夫者 御獦尓立之 未通女等者 赤裳須素引 清濱備乎
(山部赤人 巻六 一〇〇一)
≪書き下し≫ますらをは御狩(みかり)に立たし娘子(をとめ)らは赤裳(あかも)裾(すそ)引(び)く清き浜(はま)びを
(訳)ますらおたちは御狩の場に立たれ、娘子(おとめ)たちは赤裳の裾を引きながら往き来している。清らかな浜辺を。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)御狩:ここは潮干狩の意。
左注は、「右一首山部宿祢赤人作」<右の一首は、山部宿禰赤人が作>である。
この歌については、他の五首とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その793)」で紹介している。
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■三六一〇歌■
題詞は、「當所誦詠古歌」<所に当りて誦詠(しようえい)する古歌>である。
◆安胡乃宇良尓 布奈能里須良牟 乎等女良我 安可毛能須素尓 之保美都良武賀
(柿本人麻呂 巻十五 三六一〇)
≪書き下し≫安胡(あご)の浦に舟乗(ふなの)りすらむ娘子(をとめ)らが赤裳(あかも)の裾(すそ)に潮(しほ)満(み)つらむか
(訳)安胡(あご)の浦で舟遊びをしえいるおとめたちの赤い裳の裾、その裳の裾に、今しも潮が満ち寄せていることであとうか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)赤裳の裾:女官の魅力ある姿。今見る海上の風景に女官の姿を重ねて、都への獏たる憧れを述べた。(伊藤脚注)
左注は、「柿本朝臣人麻呂歌曰 安美能宇良 又曰 多麻母能須蘇尓」<柿本朝臣人麻呂が歌には「鳴呼見の浦(あみのうら)」といふ。また「玉藻の裾に」といふ>である。
■一七一〇歌■
◆吾妹兒之 赤裳埿塗而 殖之田乎 苅将蔵 倉無之濱
(柿本人麻呂 巻九 一七一〇)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が赤裳(あかも)ひづちて植ゑし田を刈(か)りて収(をさ)めむ倉無(くらなし)の浜(はま)
(訳)かわいい子が赤裳を泥まみれにして植えた田であるのに、その田の稲を刈り取って収めようにも、収めきれる倉がないという、この倉無の浜よ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)上四句は序。「倉無」を起こす。(伊藤脚注)
(注)倉無の浜:所在未詳。
■八六一歌■
題詞は、「後人追和之詩三首 帥老」<後人の追和(ついわ)する歌三首 帥老(そちろう)>で、その内の一首で詠まれている。
◆麻都良河波 可波能世波夜美 久礼奈為能 母能須蘇奴例弖 阿由可都流良武
(大伴旅人 巻五 八六一)
≪書き下し≫松浦川(まつらがは)川の瀬早み紅(くれない)の裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れて鮎か釣るらむ
(訳)松浦川の川の瀬が早いので、娘子たちは紅の裳裾をあでやかに濡らしながら、今頃、鮎を釣っていることであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
罰当たりになるが、神社などで見かけた美しい巫女さんの赤裳は一段と美しく心にささるものである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「三滝自然公園 万葉の道」 (せいよ城川観光協会)
★「万葉びとのファッションセンス-『令和の時代』の万葉集(23)」 上野 誠氏稿 (公益財団法人ニッポンドットコムHP)