●歌は、「君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「石川大夫遷任上京時播磨娘子贈歌二首」<石川大夫(いしかはのまへつきみ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈る歌二首>である。
◆君無者 奈何身将装餝 匣有 黄楊之小梳毛 将取跡毛不念
(播磨娘子 巻九 一七七七)
≪書き下し≫君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず
(訳)あなた様がいらっしゃらなくては、何でこの身を飾りましょうか。櫛笥(くしげ)の中の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)さえ手に取ろうとは思いません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)くしげ【櫛笥】名詞:櫛箱。櫛などの化粧用具や髪飾りなどを入れておく箱。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌については、万葉集に収録されている遊行女婦と思われる歌とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1721)」で紹介している。
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黄楊を詠んだ歌六首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1054)」で紹介している。
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万葉集には「遊行女婦」の歌も数多く収録されている。上述の様に遊行女婦と思われる歌は、その1721で紹介しているが、これらの遊行女婦を取り巻く人物像から「遊行女婦」の位置づけなどをさぐってみよう。
「コトバンク 精選版 日本国語大辞典」によると、「遊行女婦」について、次の様に説明されている。「【遊行女婦】:〘名〙 定まった住居をもたず各地をめぐって宴席などに侍り歌舞で客を楽しませた女。遊女。うかれめ。」
■清江娘子(すみのえのをとめ)のケース■
六六から六九歌の題詞は、「太上天皇幸于難波宮時歌」<太上天皇(おほきすめらみこと)、難波の宮に幸(いでま)す時の歌>である。
左注は、「右一首清江娘子進長皇子 姓氏未詳」<右の一首は清江娘子、長皇子(ながのみこ)に進(たてまつ)る 姓氏未詳>である。
長皇子(ながのみこ)が主催する宴の歌として、置始東人(おきそめのあづまひと)、高安大島(たかやすのおほしま)、身人部王(うとべのおほきみ)、清江娘子の歌が収録されている。
清江娘子は、住吉の遊行女婦と思われる(伊藤脚注)が、このような宴に参加し歌も詠んでいるのである。
六六から六九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その794-2)」で紹介している。
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■筑紫娘子(つくしのをとめ)のケース■
題詞は、「筑紫娘子贈行旅歌一首 娘子字曰兒嶋」<筑紫娘子(つくしのをとめ)行旅(かうりよ)に贈る歌一首 娘子、字を曰児島といふ>である。
筑紫の娘子は、大宰府で大伴旅人に仕えた遊行女婦(伊藤脚注)であり、名を「児島」というとある。また、大伴旅人が帰京する一足先に帰った大伴坂上郎女の一行とも接点があったようである。
題詞、「冬十二月大宰帥大伴卿上京時娘子作歌二首」<冬の十二月に、大宰帥大伴卿、京(みやこ)に上(のぼ)る時に、娘子(をとめ)が作る歌二首>の九六五・九六六歌も詠っている。
九六五・九六六歌ならびに大伴旅人が和えた歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その801)」で紹介している。
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■常陸娘子のケース■
題詞は、「藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈歌一首」<藤原宇合大夫(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)、遷任して京に上る時に、常陸娘子(ひたちのをとめ)が贈る歌一首>である。
常陸娘子は、常陸の遊行女婦か、(伊藤脚注)とあり藤原宇合との接点が見られる。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1588)」で紹介している。
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■大宅女(おほやめ)のケース■
題詞は、「豊前國娘子大宅女嬥歌一首 未審姓氏」<豊前(とよのみちのくち)の国の娘子、大宅女(おほやめ)が歌一首 いまだ姓氏を審らかにせず>である。
(注)豊前(とよのみちのくち)の国:福岡県東部と大分県北西部。(伊藤脚注)
大宅女は、遊行女婦か、(伊藤脚注)とのみあり、とりまく人は見当たらない。歌がそれなりに優れていることから万葉集に収録されたのであろう。
■播磨娘子(はりまのをとめ)のケース■
題詞は、「石川大夫遷任上京時播磨娘子贈歌二首」<石川大夫(いしかはのまへつきみ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈る歌二首>である。
石川大夫は、霊亀元年(715年)播磨守になった石川朝臣君子か。(伊藤脚注)
■娘子<巻九 一七七八歌>のケース■
題詞は、「藤井連遷任上京時娘子贈歌一首」<藤井連(ふぢゐのむらじ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、娘子(をとめ)が贈る歌一首>である。
藤井連は、葛井広成または葛井大成か(伊藤脚注)。
娘子は、九州の女性で遊行女婦か(伊藤脚注)
■(遊行女婦)<巻八 一四九二歌>■
題詞は、「橘歌一首 遊行女婦」<橘の歌一首 遊行女婦>とあり、この歌の「君」は家持をさすか(伊藤脚注)とあり、家持の宴での歌が収録されているようである。
■作者未詳<巻十二 三一四〇歌>のケース■
遊行女婦の歌であろう(伊藤脚注)とされ、三一四三歌に、この遊行女婦と夜を共にした男(未詳)の歌も収録されている。
■遊行女婦(うかれめ)土師(はにし)のケース■
四〇四六から四〇五一の歌群の題詞は「水海に至りて遊覧する時に、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌」である。
この宴には、田辺福麻呂、大伴家持、久米広縄と遊行女婦土師が参加しており歌が収録されている。
この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その817)」で紹介している。
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題詞は、「四月一日掾久米朝臣廣縄之舘宴歌四首」<四月の一日に、掾久米朝臣広縄(じようくめのあそみひろつな)が館(たち)にして宴(うたげ)する歌四首>である。
大伴家持、久米広縄、能登乙美、遊行女婦土師の歌が収録されている。
■遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのをとめ)のケース■
題詞は、「遊行女婦蒲生娘子歌一首」<遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのをとめ)が歌一首>として収録されており、久米広綱、大伴家持らとの宴の席で詠った者と思われる。また、四二三六、四二三七歌の左注は「右の二首、伝誦するは遊行女婦蒲生ぞ」とあり、古歌の伝誦も行い場に応じた機微な対応も果たせる力を持っていたことがうかがえるのである。
■左夫流子(さぶるこ)のケース■
四一〇六歌の補注にある「左夫流と言ふは遊行婦女が字なり」とある左夫流子は、家持の部下の尾張少咋(をはりのをくひ)の不倫の相手である。
家持は尾張少咋を喩すにあたって、「左夫流その子に紐の緒のいつがり合ひて・・・君が心のすべもすべなさ(四一〇六歌)」、「里人の見る目恥づかし左夫流子にさどはす君が・・・」と詠うほど家持にとってあきれ果てた存在なのである。
四一〇六から四一一〇歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その123改)」で紹介している。
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万葉歌碑を訪ねて(その123改)―奈良県橿原市南浦町橿原万葉の森(3)―万葉集 巻十八 四一〇九 - 万葉集の歌碑めぐり
以上、見てきたように、万葉集で「〇〇娘子」(〇〇は当地の地名が多いが)と呼ばれる遊行女婦は、その周りにはそれなりのビッグネームが名を連ね、自身も詠い、古歌の伝承も担うほどの知的レベルの高い逸材である。
ひとくくりで「遊行女婦」と片付けてしまうのには抵抗がある。
万葉集のおおらかさが「遊行女婦」をも暖かく迎えているのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「三滝自然公園 万葉の道」 (せいよ城川