万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1588)―浜北区貴布祢 浜北文化センターー万葉集 巻十四 三三五三

●歌は、「麁玉の伎倍の林に汝を立てて行きかつましじ居寐を先立たね」である。

浜北区貴布祢 浜北文化センター万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、浜北区貴布祢 浜北文化センターにある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆阿良多麻能 伎倍乃波也之尓 奈乎多弖天 由伎可都麻思自 移乎佐伎太多尼

       (作者未詳 巻十四 三三五三)

 

≪書き下し≫麁玉(あらたま)の伎倍(きへ)の林に汝(な)を立てて行きかつましじ寐(い)を先立(さきだ)たね

 

(訳)麁玉のこの伎倍の林にお前さんを立たせたままで行ってしまうなんてことは、とてもできそうもない。何はさておいても、寝ること、そいつを先立てよう。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)麁玉:遠江の郡名。(伊藤脚注)

(注)伎倍:所在未詳(伊藤脚注)

(注)汝(な)を立てて行きかつましじ:お前を立てたままで行き過ごすことはできそうにない。もと、歌垣での歌か。(伊藤脚注)

(注)かつましじ 分類連語:…えないだろう。…できそうにない。 ※上代語。 ⇒なりたち:可能の補助動詞「かつ」の終止形+打消推量の助動詞「ましじ」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

歌碑と副碑(書き下し)



 万葉集目録では、三三五三・三三五四歌の題詞は、「遠江国の相聞往来歌二首」となっている。

左注は、「右二首遠江國歌」<右の二首は遠江(とほつあふみ)の国の歌>である。

(注)遠江静岡県西部(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに三三五四歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1510)」で紹介している。ここでは、「あらたま(の)」は、地名か枕詞かについても触れている。

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 万葉の森公園を満喫した後、次の目的地浜北文化センターに向かう。

公益財団法人浜松市文化振興財団HPには、文化センターについて、「浜北地域での、文化・生涯学習の発信拠点として多くの市民に親しまれている。様々な事業を展開し、地域における文化の発展に大きな役割を果たしています」と書かれている。大ホール・小ホール・会議室・リハーサル室などを要している。

 歌碑は、駐車場に建てられていた。

 

 伊藤 博氏は、その著「万葉集 三」(角川ソフィア文庫)では、書き下しに、「麁玉(あらたま)の伎倍(きへ)の林・・・」と書かれており、麁玉については、遠江の郡名、伎倍:については所在未詳とされている。

 遠江の郡名というのは、遠江の国の防人歌、巻二十 四三二二歌の作者名が「麁玉(あらたま)の郡の若倭部身麻呂」とあることから、巻十四の東歌の編者が「遠江の国」に分類したことによるのだろう。

 

 四三二一から四三二七歌の歌群については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1509)」で紹介している。

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 加藤静雄氏は、その著「万葉集東歌論」(桜楓社)のなかで、「あらたまの」は枕詞で「きへ」に懸ると述べておられる。

 三四三九歌の「須受我祢乃(すずがねの)」、三四〇二歌の「比能具礼尓(ひのぐれに)」は、巻十四でそれぞれの歌にのみ使われており(「孤語的枕詞」と称されている)、また三四五四歌の「尓波尓多都(にはにたつ)」は、巻十四では一例であり、巻四で常陸娘子が藤原宇合に贈った巻四 五二一歌について「東国において東国の女性が東国の歌材をもって、中央貴族に対して中央文化の情緒の中に歌いあげたのである」と書かれている。さらに「枕詞が東国に一般化した時、「すずがねの」、「ひのぐれに」、「にはにたつ」という枕詞が、東国に生み出されるまでに東国の歌は成長していったとみておられる。

 「あらたまの」については、「集中に三十六例を数え、うち二十三例まではトシにかかる枕詞である。それが、

アラタマノ来経(きへ)往く年の限り知らずて(5-八八一)

アラタマノ月日も来経(きへ)ぬ(15-三六九一)

などのような観念の中での過程をへて、キヘにかかるようになった。キヘにかかる例は、巻十四の一例にほかに、巻十一にも

  アラタマノ伎倍が竹垣編目ゆも妹し見えなばわれ恋ひめやも(11-二五三〇)

とある。

 この巻十一・巻十四の例も枕詞ととるべきであろう」と述べておられる。

 

 三四三九から五二一歌を追ってみよう。(八八一、三六九一、二五三〇歌については、上述のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1510)」で紹介している。

 

 まず三四三九歌からである。

 

◆須受我祢乃 波由馬宇馬夜能 都追美井乃 美都乎多麻倍奈 伊毛我多太手欲

       (作者未詳 巻十四 三四三九)

 

≪書き下し≫鈴が音(ね)の駅家(はゆまうまや)の堤井(つつみゐ)の水を給(たま)へな妹(いも)が直手(ただて)よ

 

(訳)馬の鈴の音(ね)のする宿場、そこの堤井の水をちょいと頂きたいもんだよ。姐御(あねご)の手からじきじきにさ。(同上)

(注)すずがねの【鈴が音の】[枕]:官吏の乗る駅馬が鈴をつけていたところから、「早馬(はゆま)」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)はゆま【駅馬/駅】:《「はやうま(早馬)」の音変化》古代、官吏などの公用の旅行のために、諸道の各駅に備えた馬。はいま(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)ただて【直手】:直接に受け渡しをする手。人づてでない、じかの手。(広辞苑無料検索 日本国語大辞典

 

 

◆比能具礼尓 宇須比乃夜麻乎 古由流日波 勢奈能我素▼母 佐夜尓布良思都

       (作者未詳 巻十四 三四〇二)

 ▼は「ニンベンに弖」である。「素▼」=「そで(袖)」

 

≪書き下し≫日の暮(ぐ)れに碓氷(うすひ)の山を越ゆる日は背(せ)なのが袖(そで)もさやに振らしつ

 

(訳)日暮れ時に、碓氷の山を越えて行かれたあの日には、あの方のお振りになる袖までが、はっきり見えた。(同上)

(注)日の暮(ぐ)れに:日暮れなのに。結句「さやに振らしつ」に続く。

(注)「背なのが」の「の」:親愛の接尾語

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1071)」で紹介している。

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◆尓波尓多都 安佐提古夫須麻 許余比太尓 都麻余之許西祢 安佐提古夫須麻

       (作者未詳 巻十四 三四五四)

 

<書き下し>庭に立つ麻手(あさで)小衾(こぶすま)今夜(こよひ)だに夫(つま)寄(よ)しこせね麻手小衾

 

(訳)庭畠に茂り立つ麻、その麻で作った夜着よ。せめて今夜だけでも夫(つま)をここに呼ぶ寄せられるようにしておくれ。麻の夜着よ。(同上)

(注)にはにたつ【庭に立つ】[枕]:庭に生い立つ麻の意から、「麻」にかかる。(goo辞書)

 

 

題詞は、「藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈歌一首」<藤原宇合大夫(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)、遷任して京に上る時に、常陸娘子(ひたちのをとめ)が贈る歌一首>である。

(注)常陸娘子:常陸の遊行女婦か。(伊藤脚注)

 

◆庭立 麻手苅干 布暴 東女乎 忘賜名

       (常陸娘子 巻四 五二一)

 

≪書き下し≫庭に立つ麻手(あさで)刈り干(ほ)し布曝(さら)す東女(あづまをみな)を忘れたまふな

 

(訳)庭畑に茂り立っている麻を刈って干し、織った布を日にさらす東女(あずまおんな)、この田舎くさい女のことをどうかお忘れ下さいますな。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)庭:季節によって畑になったり、仕事場になったりする、家の前の空き地。(伊藤脚(注)麻手:布の原料としての麻の意か。(伊藤脚注)

 

 

 加藤氏が称される「孤語的枕詞」の存在は、万葉集にあって、一字一音で訛りや地名を配しその独自性を持ち合わせた巻十四の東歌が、文化的に都が東国を包み込んでいる中で成長してきたことの象徴であるように思える。

 ますます巨大な実態をみせる万葉集、なんとか食らいついていきたいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集東歌論」 加藤静雄 著 (桜楓社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「goo辞書」

★「広辞苑無料検索 日本国語大辞典

★「公益財団法人浜松市文化振興財団HP」

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (制作 浜松市