万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1355①~⑥)―福井県越前市 万葉の里味真野苑「下段の池」―万葉集 巻十五 三七二八、三七三〇、三七三三、三七三四、三七六四、三七七六

―その1355①―

●歌は、「あをによし奈良の大道は行きよけどこの山道は行き悪しかりけり」である。

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福井県越前市 万葉の里味真野苑「下段の池」万葉歌碑(中臣宅守

●歌碑は、福井県越前市 万葉の里味真野苑「下段の池」にある。(歌碑には六首が刻されており、当該歌は歌碑に向かって右側最初である)

 

●歌をみていこう。

 

標題は、「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌」<中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌>である。(実録風的な時間軸を追った展開は、左注あるいは目録から読み取れる。)

 

◆安乎尓与之 奈良能於保知波 由吉余家杼 許能山道波 由伎安之可里家利

      (中臣宅守 巻十五 三七二八)

 

≪書き下し≫あをによし奈良の大道(おほち)は行きよけどこの山道(やまみち)は行き悪しかりけり

 

(訳)あをによし奈良、あの都大路は行きやすいけれども、遠い国へのこの山道は何とまあ行きづらいことか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

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福井県越前市 万葉の里味真野苑「中臣宅守歌の書き下し」

 歌碑には六首が刻されており、向かって右から①→⑥である。(以下写真は省略します)

 

―その1355②―

◆加思故美等 能良受安里思乎 美故之治能 多武氣尓多知弖 伊毛我名能里都

      (中臣宅守 巻十五 三七三〇)

 

≪書き下し≫畏(かしこみ)みと告(の)らずありしをみ越道(こしぢ)の手向(たむ)けに立ちて妹が名告(の)りつ

 

(訳)恐れはばかってずっと口に出さずにいたのに、越の国へと越えて行く道のこの手向けの山に立って、とうとうあの人の名を口に出してしまった。(同上)

(注)畏みと告らずありしを:謹慎の身ゆえ、女の名を口にすることを憚る。(伊藤脚注)

(注)こしぢ【越路】:北陸道の古称。越の国へ行く道。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)たむく 【手向く】他動詞:①願い事をして、神仏に供え物を供える。旅の無事を祈る場合にいうことが多い。②旅立つ人に餞別(せんべつ)を贈る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の名詞形

(注の注)越道の手向け:畿内と近江の境の逢坂山。(伊藤脚注)

 

三七二七から三七三〇歌の左注は、「右四首中臣朝臣宅守上道作歌」<右の四首は、中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)、道に上(のぼ)りて作る歌>である。

 

 

―その1355③―

◆和伎毛故我 可多美能許呂母 奈可里世婆 奈尓毛能母弖加 伊能知都我麻之

      (中臣宅守 巻十五 三七三三)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が形見(かたみ)の衣(ころも)なかりせば何物(なにもの)もてか命(いのち)継(つ)がまし

 

(訳)いとしいあなたの形見の衣、この衣がなかったら、何を頼りに命を繋いでゆくことができようか。(同上)

 

 

―その1355④―

◆等保伎山 世伎毛故要伎奴 伊麻左良尓 安布倍伎与之能 奈伎我佐夫之佐 <一云 左必之佐>

     (中臣宅守 巻十五 三七三四)

 

≪書き下し≫遠き山関(せき)も越え来(き)ぬ今さらに逢ふべきよしのなきが寂しさ <一には「さびしさ」といふ>

 

(訳)遠い山々、そして関所さえも越えて私はやって来た。今となってはもう、あなたに逢う手立てがないのがさびしい。(同上)

 

 三七三三・三七三四歌の歌群の左注は「右の十四首は中臣朝臣宅守」である。万葉集目録には、「配所に至りて、中臣朝臣宅守が作る歌十四首」とある。

(注)はいしょ【配所】名詞:(罪によって)流された所。流罪(るざい)の地。(学研)

 

 

―その1355⑤―

◆山川乎 奈可尓敝奈里弖 等保久登母 許己呂乎知可久 於毛保世和伎母

      (中臣宅守 巻十五 三七六四)

 

≪書き下し≫山川(やまかは)を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹(わぎも)

 

(訳)山や川、そう、そんな山や川が中に隔てていて、いかに遠く離れ離れにいようとも、心を私の近く近くへと寄り添って思っていておくれよね、あなた。(同上)

 

 歌群の左注は、「右の十三首は中臣朝臣宅守」である。

 

 

―その1355⑥―

◆家布毛可母 美也故奈里世婆 見麻久保里 尓之能御馬屋乃 刀尓多弖良麻之

      (中臣宅守 巻十五 三七七六)

 

≪書き下し≫今日(けふ)もかも都なりせば見まく欲(ほ)り西の御馬屋(みまや)の外(と)に立てらまし

 

(訳)今日あたりでも、都にいるのだったら、逢いたくって、西の御馬屋の外に佇(たたず)んでいることだろうに。(同上)

(注)みまや【御馬屋/御厩】:貴人を敬ってその厩(うまや)をいう語。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注の注)西の御馬屋:宮中の右馬寮。二人はここでよく逢ったのであろう。(伊藤脚注)

 

歌群の左注は「右の二首は中臣朝臣宅守」である。目録では「中臣朝臣宅守、更に贈る歌二首」となっている。

 

 左注と目録から、中臣宅守が流される道中、配流地に着いてから、さらに都に居る狭野弟上娘子への深い思いを詠っている時間経過が見て取れる。

 万葉集本体では、二人の事情は読み取れないが、目録には、「中臣朝臣宅守の、蔵部(くらべ)の女嬬(によじゆ)狭野弟上娘子を娶(めと)りし時に、勅して流罪に断じ、越前国に配しき。ここに夫婦(ふうふ)別るることの易く会ふことの難きを相嘆き、各(おのおの)慟(いた)む情(こころ)を陳(の)べて贈答せし歌六十三首」とある。

 「(訳)中臣朝臣宅守が、蔵部の女嬬狭野弟上娘子を娶った時に、勅命によって流罪に処されて。越前国に配流された。そこで夫婦が、別れはたやすく会うことの難しいことを嘆いて、それぞれに悲しみの心を述べて贈答した歌六十三首」<訳は、神野志隆光 著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)による>

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味真野苑「下段の池」と歌碑(中臣宅守

 

越前市 万葉の里「味真野苑」■

 石川県羽咋市千里浜の家持の歌碑を訪れた時、今まで経験したこともない北陸晩秋スコールに見舞われ、全身ずぶ濡れになった。あちこち歌碑を見ながら越前市万葉の里「味真野苑」に行く予定であったが変更せざるをえない。スマホで天気予報をチェック。すると、越前市は「曇り」になっている。一路「味真野苑」を目指すことに。

 越前市に近づくと先ほどまでの雨と風は嘘の様に。日差しまでが暖かく迎えてくれる。

 駐車場に車を停める。一歩踏み入れると、味真野苑は青空の下、緑なす苔がまばゆい。まさに天国である。

 

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万葉の里味真野苑の苑内マップ

 越前市HP「万葉の里味真野苑」の施設の概要には、「今から1200年余り前、貴族を中心に壮大で華麗な天平文化が栄えました。越前市・味真野は、平城の都からこの地に流された中臣宅守(なかとみのやかもり)と都で宅守を思う狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)の悲しい恋の歌の舞台として知られています。二人の間で詠まれた情熱的な歌は万葉集に63首も残されています。味真野苑内には二人の『相聞歌碑』が建立されており、敷地面積4.7haの苑内では四季折々に咲く花とともに万葉集に歌われた植物を鑑賞することができます。」と書かれている。さらに「味真野苑駐車場近くにある池が『下段の池』です。この池の両端に、万葉相聞歌碑が2基建立されており、中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)が交わした代表的な相聞歌各六首を著名な万葉学者である犬養孝 氏が選定し、古写本西本願寺本の書体で刻まれています。」とある。

 本稿はこの下段の池にある中臣宅守の歌碑の紹介である。(狭野弟上娘子の歌碑の紹介は次稿)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「越前市HP」