万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2489)―

●歌は、「君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート)(播磨娘子) 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

題詞は、「石川大夫遷任上京時播磨娘子贈歌二首」<石川大夫(いしかはのまへつきみ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈る歌二首>である。

 

◆君無者 奈何身将装餝 匣有 黄楊之小梳毛 将取跡毛不念

       (播磨娘子 巻九 一七七七)

 

≪書き下し≫君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず

 

(訳)あなた様がいらっしゃらなくては、何でこの身を飾りましょうか。櫛笥(くしげ)の中の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)さえ手に取ろうとは思いません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)なぞ【何ぞ】副詞:①どうして(…か)。なぜ(…か)。▽疑問の意を表す。②どうして…か、いや、…ではない。▽反語の意を表す。 ⇒語法:「なぞ」は疑問語であるため、文中に係助詞がなくても、文末の活用語は連体形で結ぶ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)くしげ【櫛笥】名詞:櫛箱。櫛などの化粧用具や髪飾りなどを入れておく箱。(学研)

(注)つげのをぐし【黄楊の小櫛】①黄楊の木で作った小櫛。つげぐし。②《「つげ」を「告げ」の意にとって》占いの一種。黄楊の櫛を持ち外へ出て、道祖神を念じ、来る人の言葉によって吉凶を占う。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)ここでは①の意

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1054)」で、黄楊を詠った六首とともに紹介している。

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この歌の歌碑で突出しているのは、姫路市本町日本城郭研究センター前万葉歌碑である。拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その691)」で紹介している。

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 万葉集には、播磨娘子のような遊行女婦といわれる人たちの歌も数多く収録されている。

 彼女たちの歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1721)」で紹介している。

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遊行女婦についてしらべてみよう。

(注)ゆうこうじょふ イウカウヂョフ【遊行女婦】:〘名〙 定まった住居をもたず各地をめぐって宴席などに侍り歌舞で客を楽しませた女。遊女。うかれめ。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 時間的・空間的に考え方が広がり今一つピンとこない。もう少し詳しくみてみよう。

 万葉神事語辞典(國學院大學デジタルミュージアム)の項目(ゆうこう<遊行>)には、次のように書かれている。(遊行女婦についての記述にアンダーラインを施した。)

  • 祭儀に関わる外出。出遊・御遊ともいう。②非定住者の芸能活動③宗教活動。『あそぶ』は本来神の庭で歌舞すること。その職業集団が『遊部(あそびべ)』、個人が専門化すると『遊士(みやびお)』と呼ばれる。①は万葉集に紀の伝として、磐姫皇后が御綱葉を取るために紀の国に遊行していると、天皇はその隙に八田皇女を召し入れ、ひどく恨んだという(2-90)。たしかに紀に同じ話が載り、皇后が御綱葉を取りに行った隙に、天皇が八田皇女を召し、皇后が知って御綱葉を海に投げ入れたと伝える。御綱葉に『箇始婆』という注があり、『カシハ(柏)』である。柏は聖木、葉は天皇の祭祀に関わるもので、皇后が柏の葉を取りに行ったのは、天皇の祭儀を助けるためであろう。『礼記』では天子の祭りに皇后が菜をとるのは、天子を助けることで夫唱婦随を人々に示すのだとある。また、推古紀には聖徳皇太子が片岡山に遊行した時、道の辺に飢え人があり食べ物や衣服を与えた。後日、飢え人は亡くなっていたので墓に葬り、数日後、墓を調べさせると屍はなく衣服が棺の上に畳んで置いてあったという。これは遊行者が〈聖〉であることを示しており、乞食に身を隠した仏と遊行者とが出会い奇異を表したという仏教説話である。この話は万葉集にも載り、聖徳皇子が竹原の井に出遊した時に、龍田山の死者を見て悲しみ歌を詠んだ(3-415)。竹原の井への出遊は、聖水に関わる祭儀があったからで、この飢え人や死者は本来は神でり、その神祭のために聖が遊行したということであろう。折口の〈まれびと〉にもとづけば、飢え人はマレビトであり、聖徳皇子は神を迎え祭る者であったといえる。こうした遊行や出遊が天皇行幸や遊猟にも用いられるのは、それらが祭儀としての性格によるからであり、遊覧もそうした性格から出発した。②は遊行女婦を指す。芸能を売る妓女である。大伴旅人大宰府から帰京する途次の水城で、児島という遊行女婦が別れを悲しみ、涙を拭きながら袖を振って歌を詠んだと伝える(6-996)。越中では大伴家持が都の使者の田辺福麻呂を迎え遊覧した時に、遊行女婦の土師が加わり(18-4047)、また越中の史生・尾張少咋は佐夫流という遊行女婦に惑ったといい(18-4106)、越中の正月の宴には遊行女婦の蒲生が加わり(19-4232)、蒲生は宴で『亡妻挽歌』をも詠んでいる(19-4236~37)。あるいは遣新羅使対馬で停泊すると、船に玉槻という娘子が来て宴に参加する(15-3705)。この対馬の玉槻も遊行女婦と考えられる。〈遊行女婦〉は『媱《放逸也、戯也、私逸也、宇加礼女》』(『新撰字鏡』)がもとになり『ウカレメ』と訓まれている。遊行の第一義にもとづけば、遊行女婦は神を祭るために外出する巫女であった(柳田国男「『イタカ』及び『サンカ』」)。万葉の段階に到ると芸能者としての性格を強くし、漂泊しながらその芸能を売り、特にすぐれた遊行女婦は官妓として国庁や大宰府の専属となり、また貴族の家にも出入りしていたことが知られる。韓国ではこのような女性は〈妓生〉〈慇懃〉と呼ばれ、高級な〈妓生〉階級は官妓の伝統を受け、国の公式な宴会に呼ばれ文人たちと交わったという。③は『懐風藻』の釈智蔵伝に、智蔵は経典を竹筒に入れて『負担遊行』したという。この場合の遊行は『ユギョウ』と訓む。遊行僧による宗教活動を示す。尹学準『王族と妓女の歌』『朝鮮の詩心』(講談社学術文庫)。柳田国男《『イタカ』及び『サンカ』》『全集4』。」

 

 「黄楊の小櫛」にフォーカスし、そこに己の心情を静かに爆発させている。なんとも切ない歌である。

 

 今一度みてみよう。

「君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず」

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタルミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉