万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その176)―明日香村 飛鳥寺境内―

●歌は、長歌「みもろの神なび山に五百枝さし繁に生ひたる梅の木の・・・」と、

反歌「明日香川川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに」である。

 

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飛鳥寺境内万葉歌碑(山部赤人

●歌碑は、奈良県高市郡明日香村 飛鳥寺境内にある。

 

 飛鳥橋北側の万葉歌碑を見てから移動、あすか夢の楽市の駐車場に車を止める。そこから飛鳥寺まで歩く。

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飛鳥寺遠望


 飛鳥寺境内に万葉歌碑がある。ちょうど植木屋さんが境内の樹木の剪定作業中であった。寺の西側には五輪塔があり、蘇我入鹿首塚といわれている。

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飛鳥寺境内

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蘇我入鹿首塚と甘樫丘遠望

それらも見ながら、飛鳥水落遺跡を経由してあすか夢の楽市に戻る。古代米の巻きずしを購入、車中で昼食をとる。

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飛鳥水落遺跡説明案内板と遺跡

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車中昼食古代米の巻き寿司


 飛鳥寺については、あをによしなら旅ネット(奈良県観光公式サイト)によると、「推古4年(596)、仏教を保護した蘇我馬子の発願により日本初の本格的寺院として完成した。三金堂が塔を囲む大寺で、法興寺 元興寺とも呼ばれる。平城遷都に伴い奈良の地に新たに元興寺が建立されて以後は、本元興寺と呼ばれた。鎌倉時代に伽藍の大半を焼失した。現在の本堂は江戸時代に再建されたもの。本尊の銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時、飛鳥時代の作で日本最古の仏像。飛鳥大仏の名で親しまれる。寺の西側には蘇我入鹿首塚と呼ばれる五輪塔が残っている。境内に山部赤人の歌碑がある。」とある。

 

長歌からみていこう。

◆三諸乃 神名備山尓 五百枝刺 繁生有 都賀乃樹乃 弥継飼尓 玉葛 絶事無 在管裳 不止将通 明日香能 舊京師者 山高三 河登保志呂之 春日者 山四見容之 秋夜者 河四清之 且雲二 多頭羽乱 夕霧丹 河津者驟 毎見 哭耳所泣 古思者

                       (山部赤人 巻三 三二四)

 

≪書き下し≫みもろの 神(かむ)なび山に 五百枝(いほえ)さし 繁(しげ)に生ひたる 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 玉葛(たまかづら) 絶ゆることなく ありつつも やまず通(かよ)はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜(よ)は 川しきやけし 朝雲(あさぐも)に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒(さわ)く 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ いにしへ思へば

 

(訳)神の来臨する神なび山にたくさんの枝をさしのべて盛んに生い茂っている栂の木、その名のようにいよいよ次々と、玉葛(たまかずら)のように絶えることなく、こうしてずっといつもいつも通いたいと思う明日香の古い都は、山が高く川が雄大である。春の日は山を見つめていたい、秋の夜は川の音が澄みきっている。朝雲に鶴は乱れ飛び、夕霧に河鹿は鳴き騒いでいる。ああ見るたびに声に出して泣けてくる。栄えいましたいにしえのことを思うと。(伊藤 博 著 「万葉集一」 角川ソフィア文庫より)

 

 堀内民一氏は、その著「大和万葉―その歌の風土」のなかで、「春と秋、朝雲と夕霧、鶴と河鹿と、自然の風物に対句表現を使って、整斉のリズムを示している点は、多分に漢詩の影響があり、山部赤人歌の特色を出している。そういう古き都の自然に接して、その古(いにしえ)を思うと、胸に迫って涙ぐまれる。と、都の花やかな頃を思い出して、そのよいけしきが徐々にさびれていくのを悲傷している。移り行くものへの悲しみである」と書かれている。

 

 題詞は、「登神岳山部宿祢赤人作歌一首并短歌」<神岳(かみをか)に登りて、山部宿禰赤人が作る歌一首 幷せて短歌>である。

 

 

◆明日香河 川余藤不去 立霧乃 念應過 孤悲尓不有國

              (山部赤人 巻三 三二五)

 

≪書き下し≫明日香川川淀(かはよど)さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに

 

(訳)明日香川の川淀を離れずにいつも立こめている霧、なかなか消え去らぬその霧と同じく、すぐ消えてしまうようなちっとやそっとの思いではないのだ、われらの慕情は。

(注)とほしろし:形容詞 ①大きくてりっぱである。雄大である。②けだかく奥深い。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉歌碑データベース」 (奈良女子大)

★「あをによしなら旅ネット」 (奈良県観光公式サイト

 

本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチの中味は、ロメインレタスとトマトそして焼き豚である。デザートは、スイカの切辺を6個容器に突き刺し、バナナの輪切りで楔のようにはさんだ。中央にはトンプソンとクリムゾンシードレスの切合わせを配した。

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8月25日のザ・モーニングセット

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8月25日のフルーツフルデザート

 

万葉歌碑を訪ねて(その175)―飛鳥橋北側緑地―

●歌は、「明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし」である。

 

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飛鳥橋北側緑地万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良県高市郡明日香村 飛鳥橋北側緑地にある。

 

 7月8日の3回目の明日香村めぐりで、「犬養孝揮毫万葉歌碑マップ(明日香村)」に従って、15か所の犬養孝氏揮毫の歌碑をすべて回った。

 今回(7月17日)は4回目の明日香村挑戦であるが、同氏揮毫以外の万葉歌碑を、同マップならびに「奈良女子大万葉歌碑データベース」をもとにグーグルアースで確認しながら計画をたてる。

 飛鳥橋北側➡飛鳥寺➡橘寺西入口前➡(橘寺東側明日香川沿い)➡伝飛鳥板葺宮跡➡万葉文化館交差点➡祝戸玉藻橋畔 ※(  )は、重複

 

 ※「橘寺東側明日香川沿い」の歌碑は、当初の計画に従って橘寺西入口前の歌碑を見て、次いで、橘寺東側明日香川沿いの歌碑を目指したのである。橘寺をほぼ半周し、明日香川沿いとあるから、明日香川を探す。川の流れの音をたよりに漸く川沿いにでる。橋を渡ってしばらく行くと、なんとなく見た景色が。「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ」にあった「飛鳥周遊歩道 南都銀行明日香支店付近の飛鳥川沿い」の歌碑である。前回は上流へアプローチしたが、今回は下流方向にアプローチしていたのだ。土地勘がないというのはこういうことである。

 

 マップを見て、飛鳥橋近くの甘樫丘川原展望台入口の駐車場に車を止め歩けば良いと考えた。走っていると飛鳥橋の近くに緑地があったが、そこから駐車場まではそこそこの距離がある。一旦駐車場に入り、コーヒータイムをとる。もとに戻り、飛鳥橋の緑地の反対側のスペースの車を止め、歌碑を探す。緑地帯のほぼ真ん中に歌碑があった。

 

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飛鳥橋と甘樫丘遠望

●歌をみていこう。

◆明日香川 四我良美渡之 塞益者 進留水母 能杼尓賀有萬思 一云水乃与杼尓加有益す

              (柿本人麻呂 巻二 一九七)

 

≪書き下し≫明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし<一には、「水の淀にかあらまし」といふ>

 

(訳)明日香川、この川にしがらみを掛け流して塞きとめたなら、激(たぎ)ち流れる水もゆったりと逝くであろうに。<水が淀(よど)みでもすることになるであろうか>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「明日香皇女木瓲殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌」<明日香皇女(あすかのひめみこ)の城上(きのへ)殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并せて短歌>であり、この歌は、短歌二首のうちの一首である。

 

 長歌ならびにもう一首の短歌もみていこう。

 

◆飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡<一云、石浪> 下瀬 打橋渡 石橋<一云、石浪> 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎為礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾王乃 立者 玉藻之母許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宣君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春部者 花折挿頭 秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 雖見不猒 三五月之 益目頬染 所念之 君与時ゝ 幸而 遊賜之 御食向 木瓲之宮乎 常宮跡 定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨<一云、所己乎之毛> 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬<一云、為乍> 朝鳥<一云、朝霧> 往来為君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼往此去 大船 猶預不定見者 遺問流 情毛不在 其故 為便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思将往 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此焉

                   (柿本人麻呂 巻二 一九六)

 

≪書き下し≫飛ぶ鳥 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 石橋(いしはし)渡す<には「石並」という> 下(しも)つ瀬に 打橋(うちはし)渡す 石橋に<一には「石並」という> 生(お)ひ靡(なび)ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もば 枯(か)るれば生(は)ゆる なにしかも 我(わ)が大王の 立たせば 玉藻のもころ  臥(こ)やせば 川藻のごとく 靡かひし 宣(よろ)しき君が 朝宮(あさみや)を 忘れたまふや 夕宮(ゆふみや)を 背(そむ)きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは  花折りかざし 秋立てば 黄葉(もみぢば)かざし 敷栲(しいたへ)の 袖たづさはり 鏡なす 見れど飽かず 望月(もちづき)の いや愛(め)づらしみ 思ほしし 君と時時(ときとき) 出でまして 遊びたまひし 御食(みけ)向(むか)ふ 城上(きのへ)の宮を  常宮(とこみや)と 定めたまひて あぢさはふ 目言(めこと)も絶えぬ  しかれかも<一には、そこをしも」といふ> あやに悲しみ ぬえ鳥(どり)の 片恋(かたこひ)づま<一には「しつつ」といふ> 朝鳥(あさとり)の<一には、「朝霧の」といふ> 通(かよ)はす君が 夏草の 思ひ萎(しな)えて 夕星(ゆふづつ)の か行き 大船(おほぶね)の たゆたふ見れば 慰(なぐさ)もる 心もあらず そこ故(ゆゑ)に 為(せ)むすべ知れや 音(おと)のみも 名のみも絶えず 天地(あめつち)の いや遠長(とほなが)く 偲ひ行かむ 御名(みな)に懸(か)かせる 明日香川 万代(よろづよ)までに はしきやし 我が大君の 形見(かたみ)にここを

 

(訳)飛ぶ鳥明日香の川の、川上の浅瀬に飛石を並べる<石並を並べる>、川下の浅瀬に板橋を掛ける。その飛石に<石並に>生(お)い靡いている玉藻はちぎれるとすぐまた生える。その板橋の下に生い茂っている川藻は枯れるとすぐまた生える。それなのにどうして、わが皇女(ひめみこ)は、起きていられる時にはこの玉藻のように、寝(やす)んでいられる時にはこの川藻のように、いつも親しく睦(むつ)みあわれた何不足なき夫(せ)の君の朝宮をおわすれになったのか、夕宮をお見捨てになったのか。いつまでもこの世のお方だとお見うけした時に、春には花を手折って髪に挿し、秋ともなると黄葉(もみじ)を髪に挿してはそっと手を取り合い、いくら見ても見飽きずにいよいよいとしくお思いになったその夫の君と、四季折々のお出ましになって遊ばれた城上(きのえ)の宮なのに、その宮を、今は、永久の御殿とお定めになって、じかに逢うことも言葉を交わすこともなされなくなってしまった。そのためであろうか<そのことを>むしょうに悲しんで片恋をなさる夫の君<片恋をなさりながら>、朝鳥のように<朝霧のように>城上の殯宮に通われる夫の君が、夏草の萎えるようにしょんぼりして、夕星のように行きつ戻りつ心落ち着かずにおられるのを見ると、私どももますます心晴れやらず、それゆえどうしてよいかなすすべを知らない。せめて、お噂(うわさ)だけ御名(みな)だけでも絶やすことなく、天地(あめつち)とともに遠く久しくお偲(しの)びしていこう。その御名にゆかりの明日香川をいついつまでも・・・・・・、ああ、われらが皇女の形見としてこの明日香川を。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ををる【撓る】(たくさんの花や葉で)枝がしなう。たわみ曲がる。

(注)とこみや【常宮】永遠に変わることなく栄える宮殿。貴人の墓所の意でも用いる。「常(とこ)つ御門(みかど)」とも。

(注)たゆたふ【揺蕩ふ・猶予ふ】①定まる所なく揺れ動く。②ためらう。

 

短歌のもう一首もみてみよう。

 

◆明日香川 明日谷<一云佐倍> 将見等 念八方<一云念香毛> 吾王 御名忘世奴<一云御名不所忘>

                 (柿本人麻呂 巻二 一九八)

 

≪書き下し≫明日香川(あすかがわ)明日(あす)だに<一には、「さへ」といふ>見むと思へやも<一には「思へかも」といふ>我(わ)が大君の御名(みな)忘れせぬ<一には「御名忘らえぬ」といふ>

 

(訳)明日香川がこの川の名のように、せめて明日だけでもお逢いしたいと来る日も来る日もおもっているからなのか、いやもうお逢いできないとは知りながら、我が皇女の御名を忘れることができない。<これまでのように明日もお逢いしたいと思うからか、わが皇女の御名が忘れられない>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」

★「万葉歌碑データベース」(奈良女子大)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチはいつもと同じ、レタス、トマトそして焼き豚である。デザートは、少し変化を求めて、2階建てにした。下段の皿にはヨーグルトを入れ、スイカで上段を支えるイメージでスイカを配した。グラスには、グレープフルーツ(ルビー)の横切りをバナナのスライスで支える感じにし、上下とも、トンプソンとクリムゾンシードレスの切合わせ等で加飾した。

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8月24日のザ・モーニングセット

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8月24日のフルーツフルデザート

 

万葉歌碑を訪ねて(その174)―奈良県香芝市穴虫峠万葉歌碑―

●歌は、「大坂を我が越え来れば二上にもみち葉流るしぐれ降りつつ」である。

 

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奈良県香芝市穴虫峠万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、奈良県香芝市穴虫 穴虫峠にある。

 

 前日、グーグルアースで、コンビニの横に立っている歌碑を確認している。穴虫交差点近くの165号線沿いである。

香芝市総合体育館、中央公民館の歌碑を見て回り、穴虫峠に向かう。飲み物をコンビニで調達しようと考えていたが、到着すると、コンビニは閉鎖されていた。コンビニへの入り口スペースに車をとめ簡単な昼食にする。飲み物はお預けである。

車を降り、歌碑を見に行く。今まで見て来た歌碑の中では最も背が高い。見上げる高さである。

 

 

●歌をみていこう。

◆大坂乎 吾越来者 二上尓 黄葉流 志具礼零乍

                (作者未詳 巻十 二一八五)

 

≪書き下し≫大坂(おほさか)を我(わ)が越え来(く)れば二上(ふたかみ)に黄葉(もみじ)流るしぐれ降りつつ

 

(訳)大坂を私が越えてやって来たところ、二上山にもみじ葉がはらはらと舞っている。時雨が降り続くので。(伊藤 博 著 「萬葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)大坂:二上山の北を越える穴虫越か。南を越える竹内越ともいう。

 

万葉歌碑の横に、香芝市の説明案内板が立てられている。これによると、「穴虫峠を指すとするの妥当であり、同地内には(中略)「大坂山口神社が鎮座し、また峠近辺には「おおざか」という小字名も存在する。」とある。

 

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香芝市穴虫峠万葉歌碑説明案内板

 堀内民一氏は、「大和万葉―その歌の風土」の中で、「大坂峠を自分がこえてくると、二上山に時雨がザ~っと降ってきて、黄葉が時雨にまじって散る。という歌。『もみぢ葉流る』というところに、時雨降る大坂峠の光景が、旅情そのものとして歌われている。しぐれに濡れて大坂峠をこえる旅びとが、二上の谷あいを見上げて行く。そんな姿がうかんでくる。」と書かれている

 

二上山を詠った歌を上げてみる。

 

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

              (大伯皇女 巻二 一六五)

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

◆木道尓社 妹山在云 玉櫛者 二上山母 妹許曽有来

              (作者未詳 巻七 一〇九八)

≪書き下し≫紀伊道(きぢ)にこそ妹山(いもやま)ありといへ玉櫛筍二上山も妹こそありけれ

 

(訳)紀伊路(きじ)に妹山はあると世間では言うけれど、ここ大和の二上山にも妹山があったのに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

二上尓 隠経月之 雖惜 妹之田本乎 加流類比来

               (作者未詳 巻十一 二六六八)

≪書き下し≫二上(ふたかみ)に隠(かく)らふ月の惜(を)しけれど妹が手本(たもと)を離(か)るるこのころ

 

(訳)二上の山に隠れてゆく月が名残惜しくてならぬように、まことに心残りなことだが、あの子の手枕からずっと遠ざかったままのこのごろだ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

 

 

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畝傍山口神社付近から見た二上山(6月6日撮影)

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一~三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「市内の万葉歌碑紹介」 香芝市HP

 

●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチは、レタス、トマトそして焼き豚である。デザートは、グレープフルーツ(ルビー)の横切りを中央に配し、スイカの切片を4つ飾った。周りは、トンプソンとクリムゾンシードレスの切合わせを中心に加飾、干しぶどうをアクセントに使った。グレープフルーツ(ルビー)とスイカの赤の色彩差を景色にした。

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8月23日のザ・モーニングセット

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8月23日のフルーツフルデザート

 

万葉歌碑を訪ねて(その173)―奈良県香芝市下田西 中央公民館前庭―万葉集 巻二 一六五

●歌は、「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む」である。

 

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香芝市中央公民館万葉歌碑(大伯皇女)

 

●歌碑は、奈良県香芝市下田西 中央公民館前庭にある。

 

●歌をみていこう。

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

              (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 父天武天皇も、母大田皇女(天智天皇皇女)もいない。大伯皇女は十余年奉仕した伊勢の斎宮の職を解かれて大和に帰って来た。最愛の弟も二上山に葬られた。それだけに、「うつそみの人なる我れや」は一層「哀傷(かな)しび」の度合いを感じさせるひびきとなっている。

 

もう一首をみていこう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

              (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この馬酔木の花に関して、堀内民一氏は、その著「大和万葉―その歌の風土」のなかで、「馬酔木の花は死霊に供える花としての印象よりも、『あしびなす栄えし君が掘りし井の石井(いはゐ)の水は飲めど飽かむかも』(巻七 一一二八)のごとく、亡き人をほめたたえる方が強いので、この馬酔木を手折ろうと思う心情には、大伯皇女自身も知らない心意伝承が、古くこの花の上にあったはずだ。すなわち生と死の区別のつきにくかった古代観念の世界に、大伯皇女の心が揺(たゆと)うている。そういう心からほとばしり出た悲しみが、この歌だろう。」と述べておられる。

 

 左注は、「右一首今案不似移葬之歌 蓋疑従伊勢神宮還京之時路上見花感傷哀咽作此歌乎」<右の一首は、今案(かむが)ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京に還る時に、路(みち)の上(へ)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作るか。>である。

 大津皇子は謀反を企てたある意味大逆犯人であるが、鸕野皇女(うののひめみこ:後の持統天皇)は、罪を憎んで人を憎まずの形にもっていき、亡骸を丁寧に葬るのである。題詞にある「移葬大津皇子屍於葛城二上山大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬りし>」とあるが、これは殯宮(あらきのみや:埋葬までの間、種々の儀礼を行うたえに亡骸を安置しておくところ)から二上山の山頂に本葬したことをいっている。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「市内の万葉歌碑紹介」 (香芝市HP)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

 

20210922朝食関連記事削除一部改訂
 

 

万葉歌碑を訪ねて(その172)―奈良県香芝市中央公民館―万葉集 巻二 一〇七、一〇八

●歌は、

「あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに」(大津皇子)と巻

「我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを 」(石川女郎)

である。

 

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香芝市中央公民館万葉歌碑(大津皇子

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香芝市中央公民館万葉歌碑(大伯皇女)

 

●歌碑は、奈良県香芝市下田西 中央公民館前庭にある。歌は四角柱の歌碑の裏表にそれぞれ彫り込まれている。

 

 中央公民館は総合体育館と同じ敷地内にあるので、歩いて移動。公民館の前庭に歌碑が立てられていた。

 

●歌をみていこう。

 

◆足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二

             (大津皇子 巻二 一〇七)

 

≪書き下し≫あしひきの山のしづくに妹待つと我(わ)れ立ち濡れぬ山のしづくに

 

(訳)あなたをお待ちするとてたたずんでいて、あしひきの山の雫(しずく)に私はしとどに濡れました。その山の雫に。(伊藤 博 著 「万葉集一」 角川ソフィア文庫より)

 

題詞は、「大津皇子石川郎女御歌一首」<大津皇子石川郎女(いしかはのいらつめ)に贈る御歌一首>である。

 

 

◆吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎

             (石川郎女 巻二 一〇八)

 

≪書き下し≫我(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを

 

(訳)私をお待ちくださるとてあなたがお濡れになったという、そのあしひきの山の雫になることができたらよいのに。(伊藤 博 著 「万葉集一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「石川郎女奉和歌一首」<石川郎女、和(こた)へ奉(まつ)る歌一首>である。 

  

 この二首に続く一〇九歌もみていこう。

 

◆大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之

              (大津皇子 巻二 一〇九)

 

≪書き下し≫大船(おほぶね)の津守が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りて我(わ)がふたり寝(ね)し

 

(訳)大船の泊(は)てる津(つ)というではないが、その津守めの占いによって占い露わされようなどということは、こちらも、もっと確かな占いであらかじめちゃんと承知の上で、われらは二人で寝たのだ。(伊藤 博 著 「万葉集一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「大津皇子竊婚石川郎女時津守漣通占露其事皇子御作歌一首 未詳」<大津皇子、竊(ひそ)かに石川郎女に婚(あ)ふ時に、津守漣通(つもりのむらじとほる)占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作らす歌一首 未詳

 

 伊藤 博氏は、その著「萬葉集相聞の世界」(塙書房)の中で、これらの歌を含む巻二 一〇五~一一〇歌までの六首は、大津皇子事件を背景とした一連のものとして万葉集に収録されているとみておられる。

 

六首(書き下し)を列記してみる。

 

  題詞「大津皇子ひそかに伊勢神宮に下り、上り来る時の大伯皇女の御作歌二首」

◆(一〇五歌)我背子を大和へ遣(や)るとさ夜ふけて暁(あかとき)露(つゆ)に我が立ち沾(ぬ)れし

◆(一〇六歌)二人ゆけどゆき過ぎがたき秋山をいかにか君が一人越ゆらむ

  題詞「大津皇子の、石川郎女に贈れる御歌一首」

◆(一〇七歌)あしひきの山のしづくに妹待つと我(わ)れ立ち濡れぬ山のしづくに

  題詞「石川郎女の和へ奉る歌一首」

◆(一〇八歌)我(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを

  題詞「大津皇子、竊(ひそ)かに石川郎女に婚(あ)ふ時に、津守漣通

(つもりのむらじとほる)占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作らす歌一首

◆(一〇九歌)大船(おほぶね)の津守が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りて我(わ)がふたり寝(ね)し

  題詞「日並皇子尊の、石川郎女に贈りたまへる御歌一首」

◆(一一〇歌)大名児を彼方(をちかた)野辺に刈る草(かや)の束の間も我忘れやめ

 

 草壁皇子(日並皇子尊)ならびに大津皇子はともに天武天皇の子供である。草壁皇子は鸕野(うの)皇女(後の持統天皇)を母に、大津皇子は、大田皇女(天智天皇の娘)を母に持つ。六八一年、草壁皇子は皇太子に任ぜられる。六八三年、大津皇子太政大臣となり、天武天皇諸皇子の中にあって、皇太子と太政大臣としう最高の政治社会的地位を分担したが、二人の間には深い対立があった。大津皇子は、文武に通じた英才豪放で人望が高かった。このことは、皇后、皇太子側にとっては、不気味な存在となる。執拗な圧迫が大津皇子にそそがれための謀反となったと思われる。さらに石川郎女をめぐる恋愛事件が対立に火を注いだと思われるのである。

 草壁、大津の対立の深さは、天武一五年一〇月二日(六八六年)大津皇子が謀反を企てたとされるが、翌三日には、早くも皇后、皇太子側によって刑死されているのである。

 一〇九歌の題詞に「ひそかに」とあるのは、草壁皇子の愛する郎女と密通したことをしめすもので、いわば朝廷の「秘密警察官めいた男」によって密通が暴露されたわけである。この題詞を背景に大津皇子の、挑戦的な捨て台詞的な歌が理解できるのである。

 一一〇歌は、ライバルの草壁皇子の歌があり、一〇七、一〇八歌には、密通前と思われる大津皇子と郎女の歌が収録されている。

 一〇五、一〇六歌の題詞に「ひそかに」とあるのは、実姉の大伯皇女である以上、皇太子側への配慮がなされており、この二首は、大津皇子が抜き差しならぬところにまで追い詰められたころの歌と思われる。

 大津皇子石川郎女を主人公とする劇的なロマンスが一〇五から一一〇歌群には込められているのである。

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大津皇子・大伯皇女両歌(万葉仮名)

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「萬葉集相聞の世界」 伊藤 博 著 (塙書房

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉の人びと」 犬養 孝 (新潮文庫

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「市内の万葉歌碑紹介」(香芝市HP)

 

本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチは、フランスパンにレタス、トマトそして焼き豚をはさんだ。デザートは、グレープフルーツ(ルビー)の横切りを半分に切り、バナナのスライスをはさみ、トンプソンとクリムゾンシードレスの切合わせで加飾した。

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8月21日のザ・モーニングセット

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8月21日のフルーツフルデザート

 

万葉歌碑を訪ねて(その171)―奈良県香芝市総合体育館―万葉集 巻一 二一

●歌は、「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我恋ひめやも」である。

 

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奈良県香芝市総合体育館万葉歌碑(天武天皇

●歌碑は、奈良県香芝市下田西 総合体育館 にある。

  

 体育館駐車場横の空き地のようなところに、額田王天武天皇の歌碑が少し離れて建てられていた。残念ながら草ぼうぼうで正直いってこのようなところに歌碑を建てても見に来る人のことなど頭にないのではと思ってしまう。写真を撮るために雑草をかき分けて歩かざるをえなかったのである。

 

●歌をみていこう。

 

◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

       (大海人皇子 巻一 二一)

 

≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも

 

(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇 謚日天武天皇」<皇太子(ひつぎのみこ)の答へたまふ御歌 明日香(あすか)の宮に天の下知らしめす天皇、謚(おくりな)して天武天皇(てんむてんのう)といふ>である。

(注)皇太子:大海人皇子(後の天武天皇

 

 左注は、「紀日 天皇七年丁卯夏五月五日縦獦於蒲生野于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉」<紀には「天皇の七年丁卯(ひのとう)の夏の五月の五日に、蒲生野(かまふの)に縦猟(みかり)す。時に大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)、内臣(うちのまへつかさ)また群臣(まへつきみたち)、皆悉(ことごと)に従(おほみとも)なり」といふ>である。

 

 大化の改新のもうひとりの立役者藤原鎌足の伝記「大織冠伝」に、浜楼(浜御殿)での宴会の席で、大海人皇子が兄である天智天皇の前で、酔った勢いで、槍で床を突き刺したという事件があったという。政治的な問題や、額田王をめぐっての鬱積したものがあったのかもしれない。天皇は不敬だと、ただちに死を命じるものの、鎌足が間をとりなしたという。鎌足は、時代をみすえ、大海人皇子の時代がくると読んでいたのかもしれない。

 鎌足は娘を二人大海人皇子に嫁がしているのである。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その158)」で天武天皇と藤原夫人との掛け合い的な歌(小原神社万葉歌碑)について書いている。

 天智天皇は、近江大津宮で、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)との間に生まれた大友皇子を皇太子にしたのである。古代において母親の出自(しゅつじ)が良くないと人々が支持しないのである。一方、大海人皇子は人望がある。天智天皇大友皇子を皇太子として藤原鎌足を中軸に微妙な力のバランスをとっていたのである。しかし、天智天皇八年十月に鎌足が亡くなり均衡が破れたのは言うまでもない。火種はくすぶりやがて壬申の乱となっていくのである。

 額田王大海人皇子との間に十市皇女をもうけている。その後、近江大津宮天智天皇後宮に入られているという。

 天智天皇七年の「遊猟(みかり)」の時に、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌に大海人皇子が答えた歌である。

 歴史的な背景を頭に入れ、この二首を読み返せば読み返すほど、このような歌が万葉集に収録されていることが不思議にさえ思われてくる。

 これもまた、万葉集万葉集たる所以のひとつでもある。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (旺文社文庫

★「市内の万葉歌碑紹介」(香芝市HP)

 

●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチは、フランスパンである。中味はレタス、トマトそして焼き豚である。マスタードをパンにぬっている。デザートは藍色の切子のガラス容器を使った。まん中に、グレープフルーツ(ルビー)の輪切りをのせ、周囲にバナナのスライスをめぐらせ、その上にトンプソンとクリムゾンシードレスの切合わせを盛り付けた。干しぶどうをアクセントにつかった。

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8月20日のザ・モーニングセット

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8月20日のフルーツフルデザート

 

万葉歌碑を訪ねて(その170)―奈良県香芝市下田西 総合体育館万葉歌碑―

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。

 

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奈良県香芝市総合体育館万葉歌碑(額田王

●歌碑は、奈良県香芝市下田西 総合体育館    にある。 


 香芝市の万葉歌碑めぐりのスタートの志都美神社の次は、総合体育館である。行ってみると、体育館と公民館は同一敷地内にある。体育館の駐車場に車を止め、歌碑を探す。

             

●歌をみていこう。

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

             (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから

             「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。

          ②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫

      古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。

    また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。

 

 題詞は、「天皇遊獦蒲生野時額田王作歌」<天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)の遊狩(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌>である。

(注)天皇天智天皇

(注)みかり【遊獦】:天皇が狩りをされた、すなわち、薬猟り(くすりがり)をされたこと。薬猟りとは、不老長寿の薬にするために、男は鹿の袋角(出始めの角)を、女は薬草をとる、という行事をいう。

 

 大化の改新の立役者、中大兄皇子は西暦667年に飛鳥から近江に移り、翌年近江大津宮で即位した。天智天皇である。

 額田王については、コトバンク(ブリタニカ国際大百科辞典)に次のように書かれている。「『万葉集』初期の女流歌人。『日本書紀』に鏡王の娘とあるが,鏡王については不明。同じ万葉女流歌人藤原鎌足の室となった鏡王女 (かがみのおおきみ) の妹とする説もある。大海人皇子 (天武天皇) に愛されて十市皇女 (とおちのひめみこ) を産んだが,のちに天智天皇後宮に入ったらしい。この天智天皇大海人皇子兄弟の不仲,前者の子大友皇子大海人皇子との争い,壬申の乱などには彼女の影響が考えられる。『万葉集』には,皇極天皇行幸に従って詠んだ回想の歌を最初とし,持統朝に弓削 (ゆげ) 皇子と詠みかわした作まで,長歌3首,短歌 10首を残している (異説もある) 。職業的歌人とする説もあるが,歌には明確な個性が表われている。質的にもすぐれており,豊かな感情,すぐれた才気,力強い調べをもつ。」

 

 額田王長歌3首、短歌10首をみていこう。(ただし、書き下しのみ)

 

◆秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿れりし宇治(うぢ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ                 (巻一 七) 

  ※題詞には「額田王が歌」とあり、「いまだ詳らかにあらず」とある。

 

◆熟田津(にきたつ)に船乗(ふなの)りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな                (巻一 八)

 

◆莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)                     (巻一 九)

    ※上二句は定訓がない。

 

◆冬こもり 春さり来(く)れば 鳴かずありし 鳥も来(き)鳴きぬ咲かずありし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りても取らす 草(くさ)深(ふか)み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲(しの)ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我(わ)れは (巻一 一六)

 

◆味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の隠(かく)さふべしや (巻一 一七)

 

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや (巻一 一八)

 

◆あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る 

                     (巻一 二〇)

 

◆いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我が思へるごと 

                     (巻一 一一二)

 

◆み吉野の玉松が枝(え)ははしきかも君が御言(みこと)を持ちて通(かよ)はく                    (巻一 一一三)

 

◆かからむとかねて知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊(とま)りに標結(しめゆ)はらましを 

                     (巻二 一五一)

 

◆やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ)の 畏(かしこ)きや 御陵仕ふる 山科の 鏡(かがみ)の山に 夜はも 夜(よ)のことごとに 昼はも 日のことごとに 哭(ね)のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ 

                     (巻二 一五五)

 

◆君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば我(わ)がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く                    (巻四 四八八)

 

◆君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば我(わ)がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く                    (巻八 一六〇六)

 

(注)四八八歌と一六〇六歌は同じ。編者の考えによって重複使用されたのであろう。続く四八九歌と一六〇七歌(鏡王女)も同じ扱いになっている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫) 

★「コトバンク(ブリタニカ国際大百科辞典)」

★「市内の万葉歌碑紹介」(香芝市HP)

 

●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチは、フランスパンをつかった。中味は、レタスとトマトそして焼き豚である。デザートは、外周から中央にトンプソンとクリムゾンシードレスで円を描いた。

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8月19日のザ・モーニングセット

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8月19日のフルーツフルデザート