●中身は、サニーレタスと焼豚。小鹿田焼の丸皿の中心にデザートを置き、その周りにサンドイッチを盛り付けた。
デザートは、8分の1のリンゴに飾り切りをしてヨーグルトの海に沈めた。その周りを2色のぶどうといちごを飾り付けた。干しブドウでアクセントをつけた。
今日の万葉集は「やまぶき」に因む歌である。「やまぶき」といえば、太田道灌が、鷹狩りに出て雨に見舞われ、蓑を借りようとしたところ、若い女が何も言わず山吹の枝を差し出した。「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」の意が託されていたが、その時は意味が分からす、後に知って無学を恥じたという山吹伝説を思い浮かべる。
●万葉の小径シリーズ-その12 やまぶき
山振(やまぶき)の 立ち儀(よそ)ひたる 山清水
酌(く)みに行かめど 道の知らなく
(高市皇子 巻二 一五八)
山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴
黄色い山吹の花が、周りに美しく咲いている山の清水を酌みに行こうと思うけれど、どう行けばいいのか、その道がわからない。
「山吹は落葉低木で、細い幹や枝が緑色をし、変種の八重山吹もあるが、野生のは春の終わり頃黄色い五弁の花を咲かせる。
高市皇子が、この歌を歌ったのは、天武七年(六七八)十市皇女が突然薨去した時のことで、連続した三首の挽歌の一首である。黄色い山吹が涌き出る山清水の辺りに咲いている、その山の泉を汲むということには、皇女の死が暗示されていて、この世の人である皇子が、十市の後を追うことのできない深い悲しみがある。
十市皇女は天武天皇と額田王との間に生まれ、天智天皇と伊賀采女宅子(いがのうねめかこ)との間に生まれた大友皇子(弘文天皇)に嫁いだ人である。天智崩御ののち、六七二年六月二四日から約一か月続いた、皇位継承をめぐっての世にいう壬申の乱は、十市皇女にとっては、自分の父と夫との戦いであった。山吹を詠んだ高市皇子の歌から判断すると、皇子は十市に恋心を抱いたようでもある。実に複雑な人生を辿りつつ、皇女は乱後六年、突然の死を迎えた。」
(万葉の小径 やまぶきの歌碑)
説明文にある他の二首は次の通りである。
◎三諸之 神之神須疑 已具耳牟自得 見監乍共 不寝夜叙多
(高市皇子 巻二 一五六)
みもろの 神の神杉(かみのかみすぎ) 已具耳牟自得 見監乍共 寝ねぬ夜ぞ多き
(注)第三句、第四句定訓を得ず、
①こぞのみをいめにはみつつ
②いめにだにみむとすれども
③いめにのみみえつつともに、といった諸説がある。
神のおわします神々しい杉 せめて夢でも逢いたいと思うが 眠れない夜が長く続くことよ
◎神山之 山邉真蘇木綿 短木綿 如比耳故尓 長等思伎
(高市皇子 巻二 一五七)
三輪山の 山辺まそゆふ 短かゆふ かくのみからに 長くと思ひき
三輪山の山辺の清らかな木綿である、短木綿のように皇女の命はかくも短いものであった、そうとは知らず長生きを祈ったことよ
(注)木綿とは、今の綿から作ったものではなく、楮(こうぞ)から
作った白い清らかな布のこと
(参考文献)
★万葉の小径 やまぶきの歌碑
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)