万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

ザ・モーニングセット190131(万葉の小径シリーズーその24あふち)

●サンドイッチは8等分し真ん中にデザート皿を置いた周りに配置した。中味はサンチュと厚めの焼豚である。小鹿田焼の丸皿を使った。

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1月31日のモーニングセット

 デザートは、リンゴのスライスを交互に組み合わせたものを中心に使った。倒れないようにバナナのスライスを並べ2色のぶどうの切り合わせを飾った。

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1月31日のデザート

 万葉の歌碑の紹介は「あふち」である。

 

●万葉の小径シリーズ-その24 あふち センダン

 

妹(いも)が見し 棟(あふち)の花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干なくに

                          (山上憶良 巻五 七九八)

 

伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陁飛那久尓

 

亡き妻が見た棟の花もそろそろ散ってしまいそうだ。妻の死を悲しんで泣くわたしの涙がまだ乾きはしないのに

 

「棟(センダン)は、万葉集では四首に歌われ、安布知などと書かれ、すべて「あふち」という。今日でも、関西では「あふち」「おうち」などと呼ばれている。ただし、栴檀(せんだん)は双葉より芳し、で知られている栴檀(センダン)の木とは、まったく別のものである。万葉の「あふち」(センダン)は落葉高木で、初夏に2センチほどの雪の結晶のような形をしたうっすらと紫色をした花を無数につける。その花が地面に散り敷いた時は、一面に白く見えるほどである。

 この歌に詠まれた神亀五年(七二八)、作者山上憶良は六九才と推定されるが、棟の花の挽歌も、実は憶良自身の妻の死を歌ったものではないようだ。妻が亡くなって、悲しみに沈んでいた旅人に代わって、憶良が、まるで自分の妻の死を悲しむかのように歌ったものであろう。ただ、山上憶良は、どんな代作でもする歌人ではなかった。この場合の旅人のように、相手が歌を作れる状況にない時、その悲惨な気持ちを代作する歌人であった。」

                       (万葉の小径 あふちの歌碑)

 

 大宰帥大伴旅人は、憶良より三歳年下であるが、大宰府に赴任してまもなく、神亀五年、妻大伴郎女を失ったのである。

 

世の中はむなしきものと知る時し いよいよますます悲しかりけり

                        (大伴旅人 巻五 七九三)

 

 この歌の序は、「過故重畳(かこちょうじょう)し、凶問累集(きょうもんるいじゅう)す。永く崩心(ほうしん)の悲しびを懐(いだ)き、独り断腸の涙を流す。但し両君の大助に依りて、傾命纔(わず)かに継ぐのみ。」

 ここにいう両君とは大宰大弍の紀男人(きのおひと)と筑前山上憶良のことである。憶良は、「日本挽歌一首」を作って旅人に贈った。

 

大君の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち靡(なび)き

臥(こや)しむれ言はむ術(すべ) 為(せ)む術知らに 石木(いはき)をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形あらむを うらめしき 妹の命の 我をばも 如何にせよとか 鳰鳥(にほどり)の 二人並び居 語ろひし 心背きて 家ざかります

                         (山上憶良 巻五 七九四)

 

そして、反歌が五首収録されている。七九八はそのうちの一首である。

 

 

(参考文献)

★万葉の小径 あふちの歌碑

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「太陽 №168」 特集・万葉集 (平凡社

 

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夕暮れ時の冬枯れのセンダンの木のシルエット