●歌は、「吾が行は七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし」である。
歌碑めぐりの龍田大社の次はJR三郷駅周辺である。駅近くのコインパーキングに車を止める。
駅前から大和路線に沿った県道195号線を大阪方面に歩き出す。しばらく行くと「三郷駅西」交差点にでる。そこに大きな石碑がある。これが高橋虫麻呂の歌碑であった。
●歌をみていこう。
◆吾去者 七日者不過 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落
(高橋虫麻呂 巻九 一七四八)
≪書き下し≫我(わ)が行きは七日(なぬか)は過ぎし竜田彦(たつたひこ)ゆめこの花を風にな散らし
(訳)われらの旅は、いくらかかっても七日を過ぎることはあるまい。竜田彦様、どうか、けっしてこの花を風に散らさないでくださいまし。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)たつたひこ【竜田彦/竜田比古】延喜式にみえる竜田比古竜田比女神社の祭神の一。 風をつかさどる神。
題詞は、「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌」<春の三月に、諸卿大夫等(まへつきみたち)が難波(なには)に下(くだ)る時の歌二首幷せて短歌>である。
長歌(一七四七歌)と反歌(一七四八歌)の歌群と長歌(一七四九歌)と反歌(一七五〇歌)の二群となっている。
先の歌群の長歌をみてみよう。
◆白雲之 龍田山之 瀧上之 小※嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之 及還来
※「木+安」=くら
(高橋虫麻呂 巻九 一七四七)
≪書き下し≫白雲の 竜田の山の 滝の上(うへ)の 小「木+安」(おぐら)の嶺(みね)に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨(はるさめ)の 継(つ)ぎてし降れば ほつ枝(え)は 散り過ぎにけり 下枝(しづえ)に 残れる花は しましくは 散りなまがひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで
(訳)白雲の立つという名の竜田の山を越える道沿いの、その滝の真上にある小※(をぐら)の嶺、この嶺に、枝もたわわに咲く桜の花は、山が高くて吹き下ろす風がやまない上に、春雨がこやみなく降り続くので、梢の花はもう散り失(う)せてしまった。下枝に咲き残っている花よ、もうしばらくは散りみだれないでおくれ。難波においでの我が君がまたここに帰って来るまでは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)しらくもの 【白雲の】枕詞:白雲が立ったり、山にかかったり、消えたりするようすから「立つ」「絶ゆ」「かかる」にかかる。また、「立つ」と同音を含む地名「竜田」にかかる。
(注)君:知造難波宮事として功をなした藤原宇合のこと。高橋虫麻呂の庇護者。
(注)ほつえ 【上つ枝・秀つ枝】名詞:上の方の枝。◆「ほ」は突き出る意、「つ」は「の」の意の上代の格助詞。上代語。[反対語] 中つ枝(え)・下枝(しづえ)。
大阪府柏原市のHPに高橋虫麻呂についての下記のように記されている。
高橋虫麻呂:「生没年、出身地、家系など不明な点が多く、謎に満ちた歌人です。東国の歌が多いので東国出身とする説もありますが、畿内出身のようです。藤原宇合に仕えていたことは間違いなく、宇合の活躍時期から第3期の歌人と考えられています。藤原宇合(694~737)は、藤原不比等の子で、四家※の一つ式家の祖です。宇合も漢文の素養に長け、虫麻呂の文学的才能を高く評価していたのではないでしょうか。宇合が西海道節度使として赴任する際の虫麻呂の歌もあります。
『万葉集』に虫麻呂の歌は(一部当人かを疑問視するものも含め)、36首詠まれています。内訳は、長歌15首、短歌20首、旋頭歌1首で、長歌の多さが際立っています。虫麻呂は、地方の伝説について感情移入して詠んだ芸術的な作品が多く「伝説歌人」と呼ばれています。歌を聞く人を意識した意図的な思惑も感じられますが、あふれるばかりの感情ゆえとも理解できます。
また歌風は、叙事性、抒情性に富み、写実的、具象的、現実的、客観的、色彩的、動的などと表現され、「抒情歌人」ともいわれています。その歌には夢想、幻想、幻影、願望、想念、空想、憧憬などが詠みこまれ、耽美的、官能的と言われる一方で、挫折、疎外、孤独、漂泊など虫麻呂の内面を重視する人も多くおり、犬養孝※氏は歌の背景となった虫麻呂の心情から「孤愁のひと」と呼んでいます。」(「歌の解説と万葉集」より)
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉歌碑」(三郷町HP)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
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