●歌は、「一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも」である。
●歌をみていこう。
◆一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞
(市原王 巻六 一〇四二)
≪書き下し≫一つ松幾代(いくよ)か経(へ)ぬる吹く風の声(おと)の清きは年深みかも
(訳)この一本(ひともと)の松は幾代を経ているのであろうか。吹き抜ける風の音がいかにも清らかなのは、幾多の年輪を経ているからなのか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首」<同じ月の十一日に、活道の岡(いくぢのおか)に登り、一株(ひともと)の松の下(した)に集ひて飲む歌二首>である。
(注)活道の岡:京都府相楽郡和束町に「活道が丘公園」がある。
左注は、「右一首市原王作」<右の一首は市原王(いちはらのおほきみ)が作>である。
もう一首の方もみておこう。
◆霊剋 壽者不知 松之枝 結情者 長等曽念
(大伴家持 巻六 一〇四三)
≪書き下し≫たまきはる命(いのち)は知らず松が枝(え)を結ぶ心は長くとぞ思ふ
(訳)人間の寿命というものは短いものだ。われらが、こうして松の枝を結ぶ心のうちは、ただただ互いに命長かれと願ってのことだ。(同上)
(注)たまきはる【魂きはる】分類枕詞:語義・かかる理由未詳。「内(うち)」や「内」と同音の地名「宇智(うち)」、また、「命(いのち)」「幾世(いくよ)」などにかかる。
左注は、「右一首大伴宿祢家持作」<右の一首は、大伴宿祢家持が作>である。
日本では、古来より松の木には特別な感情を持っている。神性を感じ祭には欠かせない存在となっている。万葉集では「松」を歌った歌は八〇首ほど数えられるという。
題詞にある「活道岡」に関しては、京都府相楽郡和束町に「活道が丘公園」があり、大伴家持が安積皇子(あさかのみこ)が薨(こう)ぜし時に作った次の歌(四七六歌)の歌碑がある。
<ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その183)」を参照して下さい。>
◆吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曽見谿流 和豆香蘇麻山
(大伴家持 巻三 四七六)
≪書き下し≫我(わ)が大君(おほきみ)天(あめ)知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束(わづか)杣山(そまやま)
(訳)わが大君がここで天上をお治めになろうとは思いもかけなかったので、今までなおざりに見ていたのだった、この杣山(そまやま)の和束山(わづかやま)を。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首」<十六年甲申(きのえさる)の春の二月に、安積皇子(あさかのみこ)の薨(こう)ぜし時に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持が作る歌六首>である。
「松」といえば、万葉集ではやはり次の歌が浮かんでくる。有間皇子の悲劇の松である。
◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
(有間皇子 巻二 一四一)
≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む
(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」