●歌は、「ますらをと思へるものを大刀佩きて可爾波の田居に芹ぞ摘みける」である。
●歌をみてみよう。
◆麻須良乎等 於毛敝流母能乎 多知波吉弖 可尓波乃多為尓 世理曽都美家流
(薩妙観命婦 巻二十 四四五六)
≪書き下し≫ますらをと思へるものを大刀(たち)佩(は)きて可爾波(かには)の田居(たゐ)に芹ぞ摘みける
(訳)立派なお役人と思い込んでおりましたのに、何とまあ、太刀を腰に佩いたまま、蟹のように這いつくばって、可爾波(かには)の田んぼで芹なんぞをお摘みになっていたとは。
題詞は、「薩妙觀命婦報贈歌一首」<薩妙觀命婦が報(こた)へ贈る歌一首>である。
左注は、「右二首左大臣讀之云尓 左大臣是葛城王 後賜橘姓也」<右二首は、左大臣読みてしか云ふ 左大臣はこれ葛城王にして、 後に橘の姓を賜はる>である。
四四五五歌もみてみよう。
「天平元年班田之時使葛城王従山背國贈薩妙觀命婦等所歌一首 副芹子褁」<天平元年の班田(はんでん)の時に、使(つかひ)の葛城王(かづらきのおほきみ)、山背の国より薩妙観命婦等(せちめうくわんみやうぶら)の所に贈る歌一首 芹子(せり)の褁に副ふ>
◆安可祢佐須 比流波多ゝ婢弖 奴婆多麻乃 欲流乃伊刀末仁 都賣流芹子許礼
(葛城王 巻二十 四四五五)
≪書き下し≫あかねさす昼は田(た)賜(た)びてぬばたまの夜のいとまに摘(つ)める芹子(せり)これ
(訳)日の照る昼には田を班(わか)ち与えるのに手を取られ、暗い夜の暇を盗んで摘んだ芹ですぞ、これは。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
班田収受法(後述※※参照)に基づく班田使の仕事は、土地の測量、住民の把握、帳簿の整理と多忙を極めたといわれる。四四五五歌で葛城王は、昼の多忙さを前に出し、「夜の暇に」と戯れている。これに対して、四四五六歌で、薩妙観命婦はからかいにたいし絶妙に切り返しているのである。
※橘諸兄公旧跡と蟹満寺
「橘諸兄公旧跡:橘諸兄は、井堤寺を建立するなど井手を拠点として活躍した奈良時代政治の要人です。
684年に生まれ、740年に45代聖武天皇を井手の玉井頓官にまねき、749年には正一位左大臣になったと伝えられています。」(井手町HP)
蟹満寺は、普門山と号し、かつては「紙幡寺」「加波多寺」とも言われました。白凰期の末期(690年代)に、秦氏によって建立されたと伝えられています。 『今昔物語集』や『古今著聞集』に出てくる「蟹の恩返し」で有名です。
国宝の釈迦如来坐像(高さ2.403m、重さ2tの金銅製)の造立は奈良時代以前と考えられています。
※蟹の恩返し・・・観音を厚く信仰していたある一人の娘が蟹を助けた。後にその娘が蛇に求婚されて困っていると、蟹が蛇を殺して恩返しをしたという話。(「京都山城かんこう」京都府山城広域振興局HP)蟹満寺は京都府木津川市山城町綺田浜36にある。
蟹満寺は、橘 諸兄(葛城王)の公邸跡から約2kmの所にある。
※※班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう):
律令国家による土地制度の根幹として,公民に一定額の田地を班 (わか) ち授け,収穫した稲を徴収することを定めた法。北魏以来発達した均田法 (→均田制 ) を母法とする。養老田令の規定では6年1班制をとり,戸籍に基づき6歳以上の良民の男子は2段 (たん) ,女子はその3分の2 (1段 120歩) ,官戸,官奴婢は良民と同額,家人 (けにん) ,私奴婢は男女ともに良民の3分の1 (240歩) が班給された。その口分田 (くぶんでん) は受給者の死後収公されるが,次の班田年までは家族の耕作を許した。この班田制は,王臣家の大土地私有化に伴い口分田の不足を生じ,その維持が困難となったため種々施策を講じたが効果がなく,延喜2 (902) 年以降廃絶。
(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「蟹満寺」(京都山城かんこう:京都府山城広域振興局HP)
★「班田収授法」(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
※20210504朝食関連記事削除、一部改訂