●歌は、「防人に立たむ騒きに妹が業るべきことを言はず来ぬかも」である。
●歌碑は、三重県津市 三重県護国神社拝殿に向かって左脇道の拝殿から2番目の灯篭にある。
●歌をみていこう。
◆佐伎牟理尓 多ゝ牟佐和伎尓 伊敝能伊牟何 奈流弊伎己等乎 伊波須伎奴可母
(若舎人部広足 巻二十 四三六四)
≪書き下し≫防人(さきもり)に立たむ騒きに家の妹が業(な)るべきことを言はず来(き)ぬかも
(訳)防人に出て立とうとする騒ぎにとりまぎれてであろう、家の子の農事の手立て、ああ、その手立てについて何も言わないで来てしまったっけな。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)なる【業る】自動詞:生業とする。生産する。営む。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌のように、言い残してきたことを悔やむ歌もあるが、残してきた家族のことを思う歌の切ない「悲別」の心情は時を超え、今も胸に響くのである。
巻十四の東歌や、防人の歌について、万葉集に収録されていることについて、東国や東国出身の防人にも中央と同じ定型の歌が存在していることを示すところに意義があると思われる。歌のつくり手のレベル等を考えてみると、歌謡的な感覚のベースないしは心情があり、それをとらえて「定型歌」にしあげる段階をふんでいたことも考えられるが、訛りや心情そのものがあったという事実があり、それが歌の原点となっていると考えるのが自然であるように思える。加工されても原材料の良さがその加工製品の良し悪しを決めるようなものである。もちろん加工度によっても違ってくるのも当然ではあるが。
残してきた父母への思いを詠った、防人らしからぬ防人歌をみてみよう。
◆父母我 等能ゝ志利弊乃 母ゝ余具佐 母ゝ与伊弖麻勢 和我伎多流麻弖
(壬生部足国 巻二十 四三二六)
≪書き下し≫父母が殿(との)の後方(しりへ)のももよ草(ぐさ)百代(ももよ)いでませ我が来(きた)るまで
(訳)父さん母さんの住む母屋(おもや)の裏手のももよ草、そのももよというではないが、どうか百歳(ももよ)までお達者で。私が帰って来るまで。((伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)との【殿】名詞:御殿(ごてん)。貴人の邸宅(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)しりへ【後方】名詞:後ろの方。後方(こうほう)。(学研)
(注)ももよ草:今のキク、ツユクサ、ムカシヨモギ等の説がある。「おおくの花びら」をもつ花の意か。
(注)ももよ【百世・百代】名詞:多くの年月。長い年月。(学研)
左注は、「右一首同郡生玉部足國」<右の一首は同じき郡の壬生部足国(みぶべのたりくに)>である。
(注)壬生部(読み)みぶべ:乳部とも書き,古代において,皇子の養育料を出す部とされている。古くから天皇や皇子の居処である宮をささえる経済的基盤として設定され,本来は各宮ごとに刑部(おさかべ)(忍坂宮),石上部(石上宮)というように個別的に設定されたものと思われる。しかし7世紀初めの推古朝ごろになって(《日本書紀》推古15年条),壬生部(乳部)として一括されるようになり,個別の宮ごとに一つの部がたてられることはなくなったらしい。(コトバンク 世界大百科事典 第2版)
(注)同郡:この歌は、遠江(とほつのあふみ)の国の防人部領使(さきもりのことりづかひ)が進(たてまつ)った歌の一つで、遠江国佐野郡(さやのこほり)、今の静岡県掛川市東部一帯。
父母の住いを「殿」と言っていることから、また、壬生部が皇子養育の任を負っていることからも、一般農民層の防人とは言い難い。
「ももよ草」から「百代」を引き出すなど、歌の技巧にも優れている。悲別の歌とはことなり、そこには優雅さも漂っている。
次のように、人間味あふれるというか愛しい妻への嘘偽りのない心情をある意味もろに詠った歌もある。と同時にこの「大舎人部千文」は、防人の言立てに近い歌も歌っているのである。二首ともみてみよう。
左注を先に書いておく。「右二首那賀郡上丁大舎人部千文」<右の二首は那賀(なか)の郡の上丁(じやうちやう)大舎人部千文(おほとねりべのちふみ)>である。
◆都久波祢乃 佐由流能波奈能 由等許尓母 可奈之家伊母曽 比留毛可奈之祁
(大舎人部千文 巻二十 四三六九)
≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)のさ百合(ゆり)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹(いも)ぞ昼も愛(かな)しけ
(訳)筑波の峰に咲きにおうさゆりの花というではないが、その夜(よる)の床でもかわいくてならぬ子は、昼間でもかわいくてたまらぬ。(同上)
(注)愛しけ:愛しきの東国形
◆阿良例布理 可志麻能可美乎 伊能利都ゝ 須米良美久佐尓 和例波伎尓之乎
(大舎人部千文 巻二十 四三七〇)
≪書き下し≫霰(あられ)降(ふ)り鹿島(かしま)の神を祈りつつ皇御軍士(すめらみくさ)に我れは来(き)にしを
(訳)霰が降ってかしましいというではないが、鹿島の神、その猛々しい神に祈りながら、天皇(すめらみこと)の兵士として、おれはやって来たつもりなのに・・・・・・。(同上)
(注)あられふり【霰降り】( 枕詞 ):霰の降る音が「かしまし」の意で、地名「鹿島」に、またその音を「きしきし」「とほとほ」と聞いたことから、「きしみ」「遠(とお)」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
四三七〇歌単独であれば、防人の言立て(誓い)に近い歌とも詠めるが、四三六九歌とともに収録することで、四三六九歌の愛しい妻のことが忘れられないという強い言外の気持ちが読み取れるのである。
この2首を切り離さずの収録していることも、万葉集の万葉集たる所以のひとつとともいえるのではないだろうか。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「コトバンク 世界大百科事典 第2版」
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」