万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その466)―奈良市神功4丁目 万葉の小径(2)―万葉集 巻二 二三一 

●歌は、「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」である。

 

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奈良市神功4丁目 万葉の小径(2)万葉歌碑(笠金村歌集 はぎ)


●歌碑は、奈良市神功4丁目 万葉の小径(2)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆高圓之 野邊秋芽子 徒 開香将散 見人無尓」

               (笠金村歌集 巻二 二三一)

 

 ≪書き下し≫高円(たかまど)の 野辺(のべ)の秋萩(あきはぎ) いたづらに 咲きが散るらむ 見る人なしに 

 

(訳)高円の野辺の秋萩は、今はかいもなく咲いては散っていることであろうか。見る人もいなくて。((伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)見る人なしに:暗に志貴皇子をさしている。

 

 題詞は、「霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首幷短歌」<霊龜元年歳次(さいし)乙卯(きのとう)の秋の九月に、志貴親王(しきのみこ)の薨ぜし時に作る歌一首幷(あは)せて短歌>である。長歌(二三〇歌)と短歌二首(二三一、二三二歌)の歌群からなる。

 

 長歌をみてみよう。

 

◆梓弓 手取持而 大夫之 得物矢手挟 立向 高圓山尓 春野焼 野火登見左右 燎火乎 何如問者 玉桙之 道來人之 泣涙 霂深尓落者 白妙之 衣埿漬而 立留 吾尓語久 何鴨 本名唁 聞者 泣耳師所哭 語者 心曽痛 天皇之 神之御子之 御駕之 手火之光曽 幾許照而有

                (笠金村 巻二 二三〇)

 

≪書き下し≫梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手挟(たばさ)み 立ち向(むか)ふ 高円山(たかまとやま)に 春野(はるの)焼(や)く 野火(のひ)と見るまで 燃ゆる火を 何(なに)かと問へば 玉桙(たまぼこ)の 道来る人の 泣く涙(なみた) こさめに降れば 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)ひづちて 立ち留(と)まり 我(わ)れに語らく なにしかも もとなとぶらふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇(すめろき)の 神の御子(みこ)の いでましの 手火(たひ)の光ぞ ここだ照りてある

 

(訳)梓弓を手に取り持って、大丈夫(ますらお)が、矢を脇挟んで立ち向う的(まと)、その名を持つ高円山(たかまとやま)に、春の野を焼く火と見まごうほどに燃える火、その火を「あれは何だ」と尋ねると玉鉾立つ道をやって来る人が涙を小雨のように流して、白麻の衣をぐっしょり濡らしながら、立ち留まって私にこう言った。「何だって由ないことをお尋ねになるのです。そんなことを耳にするとただ泣けてきます。わけをお話しするとただ心が痛みます。実は、天子様、そう、その神の御子のご葬列の送り火が、こんなにも赤々と照らしているのです」。((伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あづさゆみ【梓弓】名詞:梓の木で作った丸木の弓。狩猟のほか、祭りにも用いられた。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)初めの五句「梓弓 手取持而 大夫之 得物矢手挟 立向」は、「高円山」の序。

(注)さつや【猟矢】名詞:獲物を得るための矢(学研)

(注)たまほこの【玉桙の・玉鉾の】分類枕詞:「道」「里」にかかる。かかる理由未詳。「たまぼこの」とも。(学研)

(注)ひづつ【漬つ】自動詞:ぬれる。泥でよごれる。(学研)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)

(注)とぶらふ【訪ふ】他動詞:尋ねる。問う。(学研)

(注)手火(読み)タヒ:手に持って道などを照らす火。たいまつ。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 二三二歌をみてみよう。

 

◆御笠山 野邊往道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿國

               (笠金村 巻二 二三二)

 

≪書き下し≫御笠山(みかさやま)野辺行く道はこきだくも茂(しげ)り荒れたるか久(ひさ)にあらなくに

 

(訳)御笠山、この野辺を通る宮道は、どうしてこんなにもひどく荒れすさんでいるのであろうか。皇子が亡くなられてまだそんなに長くは経っていないのに。(同上)

(注)こきだし【幾許し】( 形シク ):程度がはなはだしい。非常に大切だ。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 左注は、「右歌笠朝臣金村歌集出」<右の歌は、笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)が歌集に出づ>である。

 

 続いて「或本歌曰」<或る本の歌に曰はく>とあり、二三三、二三四歌の二首が収録されている。こちらもみておこう。

 

◆高圓之 野邊乃秋芽子 勿散祢 君之形見尓 見管思奴播武

               (笠金村 巻二 二三三)

 

≪書き下し≫高円(たかまと)の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ

 

(訳)高円の野辺の秋萩よ、散らないでおくれ。いとしいあの方の形見と見ながらずっとお偲びしように。(同上)

 

 

三笠山 野邊従遊久道 己伎太久母 荒尓計類鴨 久尓有名國

               (笠金村 巻二 二三四)

 

≪書き下し≫御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒にけるかも久(ひさ)にあらなくに

 

(訳)御笠山、この野辺を通る宮道(みやじ)は、こんなにもひどく荒れてしまいました。あの方が亡くなってからまだ時はいくらも経っていないのに。(同上)

 

  「ハギの種類は一五種ほどあるが、古来、萩と呼びならわされているのは、ヤマハギのことを指す。ヤマハギは、落葉性低木で九月の中頃から紅紫色の小さな花を咲かせる。万葉集には約一四〇回も歌われ、草の花ではもっとも多く歌われている。今日では、萩は木の分類に入っているものの、万葉の頃は、柔らかい枝を開花直前に延ばし可愛い花を咲かせるので、草の花とみられていたようだ。

 当時、ハギは芽とか芽子とかの文字で表されることが多く、萩の字を用いて表された草はない。もちろん古代から中国に萩の字は存在したが、それはキク科の多年生草木の萩(よもぎ又はくさよもぎ)を指し、ハギとはまったく異なる植物である。

 笠金村(かさのかなむら)は高円一帯の秋を飾る萩が、空しく咲き空しく散るのを今後も繰り返すだろうと歌って。悲しみの心を表している。それは歌の数こそ少ないが、万葉集の中に一つの歌風のようなものを残した志貴皇子(しきのみこ)の死を悼んでの歌である。今の白毫寺(びゃくごうじ)辺りに居をかまえていた皇子が亡くなって、高円山の西麓で野辺の送りが営まれた時の歌であろうか。

萩という字は、草冠に秋と書くので、「秋」の「草」であることを示す。」(万葉の小径 はぎの歌碑)

 

 「はぎ」の語源については、冬に葉を落とし、春には再び新芽を出すことに由来する「生芽(はえぎ)」が転化したものという説がある。また、丸い小さな葉が歯の形に似ていることから「歯木(はぎ)」とする説もあるようだ。 

 

 高円と秋萩を歌った歌には、大伴家持の歌がある。こちらもみてみよう。

 

◆高圓之 野邊乃秋芽子 此日之 暁露余 開兼可聞

               (大伴家持 巻八 一六〇五)

 

≪書き下し≫高円(たかまと)の野辺(のへ)の秋萩このころの暁露(あかときつゆ)に咲きにけむかも

 

(訳)高円の野辺の秋萩、あの秋萩は、このごろに明け方の露に濡れて、もう咲いたことであろうか。)(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より

 

 家持が、久邇京で古京奈良の風物を偲んで詠った歌である。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉」 堀内民一 著 (創元社

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「万葉の小径 はぎの歌碑」