万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その573,574,575)―西宮市西田町西田公園万葉植物苑(7,8,9)―万葉集 巻二 二三一、巻三 三三六、巻三 三三〇 

―その573―

●歌は、「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」である。

 

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西宮市西田町西田公園万葉植物苑(7)万葉歌碑(笠金村)

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(7)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌について、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その503)」で長歌(二三〇歌)ならびにもう一首の反歌(二三二歌)とともに紹介している。

 

◆高圓之 野邊秋芽子 徒 開香将散 見人無尓

                  (笠金村 巻二 二三一)

 

≪書き下し≫高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに

 

(訳)高円の野辺の秋萩は、今はかいもなくは咲いて散っていることであろうか。見る人もいなくて。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いたづらなり【徒らなり】形容動詞:①つまらない。むなしい。②無駄だ。無意味だ。③手持ちぶさただ。ひまだ。④何もない。空だ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首幷短歌」<霊龜元年歳次(さいし)乙卯(きのとう)の秋の九月に、志貴皇子(しきのみこ)の薨ぜし時に作る歌一首幷(あは)でて短歌>である。この歌は、短歌二首の一首である。

 (注)志貴皇子:《万葉集》の歌人天智天皇の皇子。母は越道君伊羅都女(こしのみちのきみのいらつめ)。没年については2説がある。光仁天皇の父で,その即位に伴い御春日宮天皇と追尊された。田原天皇とも称される。壬申の乱では死を免かれ,《万葉集》に短歌6首を残す。清澄温雅な歌風。また笠金村による皇子の挽歌(巻2)は著名。(コトバンク 平凡社百科事典マイペディア)

 

 

―その574―

●歌は、「しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ」である。

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西宮市西田町西田公園万葉植物苑(8)万葉歌碑(沙弥満誓)


 

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(8)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。

 

歌をみていこう。

 

 題詞は、「沙弥満誓詠綿歌一首  造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也」<沙弥満誓(さみまんぜい)、綿(わた)を詠(よ)む歌一首  造筑紫觀音寺別当、俗姓は笠朝臣麻呂なり>

 

◆白縫 筑紫乃綿者 身箸而 未者伎袮杼 暖所見

               (沙弥満誓 巻三 三三六)

 

≪書き下し≫しらぬひ筑紫(つくし)の綿(わた)は身に付けていまだは着(き)ねど暖(あたた)けく見ゆ

 

(訳)しらぬひ筑紫、この地に産する綿は、まだ肌身に付けて着たことはありませんが、いかにも暖かそうで見事なものです。(同上)

(注)しらぬひ 分類枕詞:語義・かかる理由未詳。地名「筑紫(つくし)」にかかる。「しらぬひ筑紫」。 ※中古以降「しらぬひの」とも。

 

 

                           

―その575―

●歌は、「藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君」である。

 

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西宮市西田町西田公園万葉植物苑(9)万葉歌碑(大伴四綱)

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(9)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌もブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。

 

◆藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君

                     (大伴四綱 巻三 三三〇)

 

≪書き下し≫藤波(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君

 

(訳)ここ大宰府では、藤の花が真っ盛りになりました。奈良の都、あの都を懐かしく思われますか、あなたさまも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)「思ほすや君」:大伴旅人への問いかけ

 

この歌の題詞は、「防人司佑大伴四綱歌二首」<防人司佑(さきもりのつかさのすけ)大伴四綱(おほとものよつな)が歌二首>である。

 

三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。題詞のみ記載してその構成をみてみる。

 

三二八歌 

 大宰少弐小野老朝臣が歌一首

三二九、三三〇歌

 防人司佑大伴四綱が歌二首

三三一から三三五歌

 帥大伴卿が歌五首

三三六歌

 沙弥満誓、綿を詠む歌一首

三三七歌

 山上憶良臣、宴を罷る歌一首

 

この歌群すべての歌を、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介しているので、そちらも参考にしていただければと思います。

 

 三三七歌は、有名であるが、この歌の題詞は、「山上憶良臣罷宴歌一首」<山上憶良臣(やまのうえのおくらのおみ)、宴(うたげ)を罷(まか)る歌一首>である。

 宴会の場を離れる歌のユーモア性に驚される。この歌を見ておこう。

 

◆憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽

                (山上憶良 巻三 三三七)

 

≪書き下し≫憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も吾(わ)を待つらむぞ

 

(訳)憶良どもはもうこれで失礼いたしましょう。家では子どもが泣いていましょう。多分その子の母も私の帰りを待っていましょうよ。(同上)

(注)「憶良ら」の「ら」は謙譲の意を添える接尾語。

(注)「彼母毛」:直接「妻」と言わないところに戯笑がこもる。

 宴席の座を白けさせずに退席の一首はお見事のひとことにつきる。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「コトバンク 平凡社百科事典マイペディア」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」