万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その870,871)―豊前国府跡公園万葉歌の森(2,3)―万葉集 巻三 三二八、巻十 二三一五

―その870―

●歌は、「あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(2)万葉歌碑(小野老)

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(2)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有

               (小野老 巻三 三二八)

 

≪書き下し≫あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 

(訳)あをによし奈良、この奈良の都は、咲き誇る花の色香が匂い映えるように、今こそまっ盛りだ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。ここでは、題詞のみ記載してその構成をみてみる。

 この歌群の歌は、すべてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。

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三二八歌 

 大宰少弐(だざいのせうに)小野老朝臣(をののおゆのあそみ)が歌一首

 

三二九、三三〇歌

 防人司佑(さきもりのつかさのすけ)大伴四綱(おほとものよつな)が歌二首

 

三三一から三三五歌

 帥(そち)大伴卿(おほとものまへつきみ)が歌五首

 

三三六歌

 沙弥満誓(さみまんぜい)、綿(わた)を詠む歌一首 造筑紫観音寺別当、俗姓は笠朝臣麻呂なり

 

三三七歌

 山上憶良臣(やまのうえのおくらのおみ)、宴(うたげ)を罷(まか)る歌一首

 

 小野老の三二八歌に関して、中西 進氏は、その著「万葉の心」(毎日新聞社)のなかで、「この歌も、遠い大宰府で幻想されたものであった。咲く花のにおうように美しい奈良、この華麗な色彩が幻想の色どりである。これは天平文化の爛熟のもたらしたもので、五位以上の者の瓦葺き、赤と白に塗った邸宅のつらなる光景は、文字どおり、におう花のようだったろう。(中略)幻想の中によむことによって、『万葉集』は華麗な美を添えることになったのだ。」と書かれている。

 

 

 

―その871―

●歌は、「あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(3)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゞ乎 雪落者  或云 枝毛多和ゝゝ

      (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一五)

 

 ≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば  或いは「枝もたわたわ」といふ

 

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たわたわ【撓 撓】( 形動ナリ ):たわみしなうさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 左注は、「右柿本朝臣人麻呂之歌集出也 但件一首 或本云三方沙弥作」<右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。ただし、件(くだり)の一首は、或本には「三方沙弥(みかたのさみ)が作」といふ>である。

 件(くだり)の一首は、二三一五歌をさしている。

 

 三方沙弥については、伝未詳である。「コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus」を見ても、「?-? 飛鳥(あすか)時代の歌人。『万葉集』に『園臣生羽(そののおみ-いくは)の女(むすめ)を娶(ま)きて』や,『妻苑臣を恋ひて作る歌』と,藤原房前(ふささき)の代作者としてよんだ歌がある。三形沙弥ともかく。」と書かれているだけである。

豊前国府あるいは大宰府と何らかの接点があるのか、先のブログの沙弥満誓と関連があるのかと検索してみたが、結局わからなかった。

 

三方沙弥(三形沙弥)の歌は、万葉集には七首収録されている。

内訳は、

題詞「三方沙弥、園臣生羽(そののおみいくは)が女(むすめ)を娶(めと)りて、幾時(いくだ)も経ねば、病に臥(ふ)して作る歌三首」の一二三から一二五歌、

左注「・・・三方沙弥、妻園臣(そののおみ)に恋ひて作る歌なり といふ。・・・」の一〇二七歌、歌碑の二三一五歌、

左注「・・・三形沙弥、贈左大臣藤原北卿(ふづはらのきたのまへつきみ)が語(ことば)を承(う)けて作り詠む。・・・」の四二二七、四二二八歌、

の計七首である。

これらの歌はすべて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その198)」で紹介している。

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二三一五歌に「白橿の枝」とあったが、「かし」はポピュラーであり、万葉集では結構詠まれていると考えていたが、三首しか収録されていない。

國學院大學デジタルミュージアムの「万葉神事語事典」に次のように記されている。長いが引用させていただく。

橿(かし)「『樫』は材質が堅いことから作られた国字。万葉集では『橿実』(9-1742)とあり、『橿」字は『和名抄』にカシと訓むとある。しかし、『橿』は本来、モチノキ、またはマユミを表わす字であった。カシは、ブナ科コナラ属の常緑高木の総称で、日本にはアラカシ、ウバメガシ、アカガシ、シラガシ、ウラジロガシなどの種類がある。暖地に生え、晩春から初夏に花を咲かせる。葉は革のような硬さをもち、長楕円形ないし披針形で、一つの節に一枚ずつ生じ、互いに方向を異にしている。雌雄同株で、初夏、雄花はひも状の穂について垂れ下がる。秋に実るカシの木実は、ナラの木実とともに団栗(どんぐり)と呼ばれる。材質が堅いカシは木炭や弓矢などさまざまに用いられていた。『橿実之』(9-1742)は『独りかも寝む』の『独り』を導く枕詞である。カシの木の実は一殻に中身が一個しかないことから、独り寝を導く枕詞に用いられたと考えられるが、他に用例がなく、高橋虫麻呂の独創にかかる枕詞とも考えられる。また、カシは道具の素材として使われているだけでなく、信仰の対象でもあった。斉明天皇和歌山県白浜温泉への行幸の時に額田王が作った歌(1-9)では、神聖な『可新』の木を歌っている(→厳橿)。紀の垂仁天皇25年条には、倭姫命天照大神磯城の厳橿の本に鎮座させ祀ったという記事を載せる。記にも雄略天皇が赤猪子のためにうたった歌謡に、御諸の『厳橿がもと』とあり、神の社にある神聖なカシの木が忌みはばかられるように近寄りがたい乙女と述べ、巫女のようなタブー的存在を象徴する木として考えられる。大脇由紀子』

 

二三一五歌、額田王の九歌ならびに高橋虫麻呂の一七四二歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その492)に紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus」