万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1975、1976、1977、1978)―島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(13~16)―万葉集 巻十 二三一五、巻十一 二四七五、巻十八 四一三六、巻十九 四一三九

―その1975―

●歌は、「あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(13)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(13)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゞ乎 雪落者  或云 枝毛多和ゝゝ

      (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一五)

 

 ≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば  或いは「枝もたわたわ」といふ

 

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(学研)

(注)たわたわ【撓 撓】( 形動ナリ ):たわみしなうさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 左注は、「右柿本朝臣人麻呂之歌集出也 但件一首 或本云三方沙弥作」<右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。ただし、件(くだり)の一首は、或本には「三方沙弥(みかたのさみ)が作」といふ>である。

(注)件(くだり)の一首は、二三一五歌をさしている。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに左注にある「三方沙弥」の全歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その198)」で紹介している。

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―その1976―

●歌は、「我がやどは甍しだ草生ひたれど恋忘れ草見れどいまだ生ひず」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(14)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(14)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆我屋戸 甍子太草 雖生 戀忘草 見未生

        (作者未詳 巻十一 二四七五)

 

≪書き下し≫我がやどは甍(いらか)しだ草生(お)ひたれど恋忘(こひわす)れ草見れどいまだ生(お)ひず

 

(訳)我が家の庭はというと、軒のしだ草はいっぱい生えているけれど、肝心の恋忘れ草はいくら見てもまだ生えていない。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)しだ草:のきしのぶか。(伊藤脚注)

(注の注)「『しだくさ』は、羊歯(シダ)植物の一種と考えられており『甍(イラカ)しだ草』又『軒(ノキ)のしだ草』と歌中に詠まれている。軒の下に生えることが名の由来になって『軒忍(ノキシノブ)』が定説になっているが、他説に『下草(したくさ)』と読み『裏白(ウラジロ)』とする説もある。」(春日大社神苑萬葉植物園・植物説明板)

 「しだ草」を詠んだのは万葉集ではこの一首だけである。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1082)」で紹介している。

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 四句目に「恋忘れ草」とあるが、「忘れ草」は、五首が収録されている。 

「忘れ草」を詠った歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その334)」で紹介している。

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―その1977―

●歌は、「あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(15)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(15)である。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝寶(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。

(注)天平勝寶二年:750年

(注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習い。(伊藤脚注)

(注の注)律令では、元日に国司は同僚・属官や郡司らをひきつれて庁(都の政庁または国庁)に向かって朝拝することになっており、翌日に、新年を寿ぐ宴が開かれたのである。

 

◆安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等里天 可射之都良久波 知等世保久等曽

       (大伴家持 巻十八 四一三六)

 

≪書き下し≫あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)山の木々の梢(こずえ)に一面生い栄えるほよを取って挿頭(かざし)にしているのは、千年もの長寿を願ってのことであるぞ。「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)ほよ>ほや【寄生】名詞:寄生植物の「やどりぎ」の別名。「ほよ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)この歌のように、「ほよ」を頭に挿して千年を祈るということから、古代において「ほよ」は永遠の生命力を約束してくれるという信仰が存在していたと考えられる。驚くことに、おのような「ほよ(やどりぎ)」信仰は世界的にも存在していたということである。

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

 この歌については、高岡市伏木古国府勝興寺越中国庁碑の背面に刻された歌とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その822)」で紹介している。

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 家持が、因幡国守として天平宝字三年(759年)の正月の歌、万葉集の最終歌(四五一六歌)については、同(その1953)で紹介している。

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20211026平城宮跡歴史公園にて撮影

 

 

―その1978―

●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(16)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(16)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

       (大伴家持 巻十九  四一三九)

     ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)この歌は、桃花の咲く月に入ってその盛りを幻想した歌か。春園・桃花・娘子の配置は中国詩の影響らしい。(伊藤脚注)

 

 題詞は、「天平勝宝二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る歌二首」である。

 

この歌は、巻十九の巻頭歌である。 

 

 この歌については、高岡市伏木一宮 高岡市万葉歴史館入口の家持と大嬢のブロンズ像とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その825)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學[万葉の花の会]発行

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物説明板」