万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その576、577、578)―西田公園万葉植物苑(10,11,12)―万葉集 一 二八、巻一 二〇、巻十九 四二〇四 巻

―その576―

●歌は、「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」

 

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西田公園万葉植物苑(10)万葉歌碑(持統天皇

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(10)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その474)」で紹介している。

 

◆春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

               (持統天皇 巻一 二八)

 

≪書き下し≫春過ぎて夏来(きた)るらし白栲(しろたへ)の衣(ころも)乾(ほ)したり 天(あま)の香具山(かぐやま)

 

(訳)今や、春が過ぎて夏がやってきたらしい。あの天の香具山にまっ白い衣が干してあるのを見ると。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しろたへ【白栲・白妙】名詞:①こうぞ類の樹皮からとった繊維(=栲)で織った、白い布。また、それで作った衣服。②白いこと。白い色。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

標題は、「藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 尊号太上天皇」<藤原(ふぢはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇の代 高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)、元年丁亥(ひのとゐ)十一年に位(みくらゐ)を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲りたまふ。尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ>である。

 

題詞は、「天皇御製歌」<天皇の御製歌>である。

 

  持統天皇は夫天武天皇の遺志を継いで六八六年九月九日に天武天皇崩御の後、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で政治を行い、六九四年十二月には、日本で初めての唐長安を模した広大な藤原宮を完成させた。

 

新古今和歌集」の選者の一人である藤原定家(1162~1241、鎌倉初期の歌人)の晩年の秀歌選である「小倉百人一首」にも、万葉集から五首選ばれている。その一首が、この持統天皇の歌である。ただ、読み方が、定家の古代に思いを馳せた「万葉集らしさ」を求めていたとも考えられ、「春過ぎて 夏来(き)にけらし 白妙の 衣(ころも)干(ほ)すてふ 天の香具山」と読まれている。

定家の父、藤原俊成(1114~1204、平安後期の歌人)は、王朝歌風の古今調から中世の新古今調への橋渡しをしたといわれる。後白河院院宣により、「千載和歌集」を撰進したことでも有名である。歌論書「古来風体抄(こらいふうていしょう)」を晩年に編している。この中で、万葉集の秀歌として九四首がとりあげられている。これが、定家に大きな影響を与えたことは否定できない。

それまでほとんど注目されていなかったこの歌を秀歌として発見しているのである。

ちなみに、「古来風体抄」では、持統天皇の歌は、「春過ぎて 夏ぞ来ぬらし 白妙の 衣乾かす 天の香具山」と読まれている。

 

 

―その577―

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」

 

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西田公園万葉植物苑(11)万葉歌碑(額田王

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(11)にある。

 

●歌をみていこう。この歌については、これまで幾度となくとりあげて来た。(ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その170,171)」「同234」「同258」等)

 

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

             (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。

 

 アカネは、多年生の蔓草で、秋のはじめに淡黄の花を咲かせる。その根が赤いことから「あかね(赤根)」と呼ばれたという。上代より根が染料の元として用いられた。

             

  大化の改新のもうひとりの立役者藤原鎌足の伝記「大織冠伝」に、浜楼(浜御殿)での宴会の席で、大海人皇子が兄である天皇の前で、酔った勢いで、槍で床を突き刺したという事件があったという。政治的な問題や、額田王をめぐっての鬱積したものがあったのかもしれない。天皇は不敬だと、ただちに死を命じるものの、鎌足が間をとりなしたという。鎌足は、時代をみすえ、大海人皇子の時代がくると読んでいたのかもしれない。

             

 

―その578―

●歌は、「我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋」である。

 

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西田公園万葉植物苑(12)万葉歌碑(僧恵行)

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(12)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その486)」で紹介している。

 

◆吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青盖

               (講師僧恵行 巻十九 四二〇四)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)が捧(ささ)げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(きぬがさ)

 

(訳)あなたさまが、捧げて持っておいでのほおがしわ、このほおがしわは、まことにもってそっくりですね、青い蓋(きぬがさ)に。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)我が背子:ここでは大伴家持をさす。

(注)あたかも似るか:漢文訓読的表現。万葉集ではこの一例のみ。

(注)きぬがさ【衣笠・蓋】名詞:①絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。②仏像などの頭上につるす絹張りの傘。天蓋(てんがい)。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 厚朴(ほおがしわ)は、今日のホホノキ、またはホオガシワノキ、ホオガシワを指している。落葉高木で、葉は大きく、若葉の頃は赤みを帯びている。万葉集では二度歌われているきりで、講師(国分寺の僧)である僧恵行と越中国大伴家持とが同じ宴会の「ほほがしわ」を歌っているに過ぎない。

 ホオノキばかりでなく、万葉の頃、広い大きい葉は好まれていた。たとえば蓮の葉、芋の葉、柏の葉など、ものを包むのに適した葉が多い。中でも、蓮の葉は、その葉に滴る水滴が銀色に輝くのを美しいと見たり、その葉を饌食(せんしょく)を盛る器の代わりに用いたりしていた。ホオノキの場合は、他と少々異なっていて、その大きい葉を枝とともに折り取って、まるで蓋(きぬがさ)だと楽しんでいるのである。

 

四二〇四、四二〇五歌の題詞は、「見攀折保寳葉歌二首」<攀(よ)ぢ折(を)れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首>とあり、歌碑の僧恵行の歌と大伴家持の歌が収録されている。大伴家持奈良時代越中国(今の富山県)に赴任していた時の歌である。

 四二〇四歌で、僧恵行は、家持が「ほほがしは」の葉を持っているのを、一位の人の持つ「蓋」とほめたたえたのである。これに対し、家持は、四二〇五歌で、昔は「ほほがしは」の葉を重ねて折って、酒を飲んだということですよ、と恵行の「よいしょ」をそらして、「ほほがしは」を讃えたのである。見事な切り返しである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集と日本人 読み継がれる千二百年の歴史」 小川靖彦 著 (角川選書

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」